-モイライが差し伸べる手- 4
原初の人間。初めての殺人、その被害者。
神に愛された魂など、ただの比喩だと思っていた。説明はつかないだろう何かしらの力を持っている神のような人物なのだと。
エールの存在がどこまで真実なのかは分からないが、だが今現実的にその肉体はサーシャであり、それに対してかしずく者達がいるのも確かだ。それは間違いようのない事実。
だけど、佳大が今日まで見てきたエールは、笑ったり怒ったり拗ねたりと。とてもそんな大層な、神話の中に出てくるような登場人物には見えない。
その姿が、サーシャであることが佳大にとってはひとつの原因かも知れないが。
先ほどまでの少し寂しそうだったエールの姿はもうなく、今は横で屋上のへりに腰掛け海を見ている。
「佳大、ほら見て。波際で夜光虫が光ってるよ」
エールは海を指差し言う。
佳大は寝転がっていたリクライニングチェアから身を起こすと、エールが指差す方向を見る。
言うように砂浜に打ち上げられる波がそのままの形で光っている。とても幻想的な風景。
佳大も夜光虫と言う名は知っていたものの、実際に見たのは始めてだ。
「へぇ、綺麗だね-。
……でも赤潮なんだよね、これ?」
その光景に心から感心した後、現実的な話を持ち出せば、
「…ムードないよね」
エールは気分を害したように頬を膨らませて、また夜空を仰いだ。
暫くそうして、二人とも黙ったまま夜空を見上げていた。
「――佳大」と、先に口火を切ったのはエール。
「望むものは見つかりそう?」
こちらを見ることなく尋ねる。
「………」
佳大は何も答えない。いや、答えられない。
望みはここにいること、今はサーシャの側にいたいとは前に伝えた。なのにまた問われるということは。
何となくネガティブな考えに囚われそうになり、佳大は一度頭を振るとまた仰向けに寝転んだ。
無言のまま、星空を眺める。
佳大が何も答えないことに、エールがこちらを覗き込んで。星空を背景に怪訝そうなエールの顔……いや、サーシャの。
本当に心から望むものは、直ぐそこにある。けれど…、
「星が欲しい」
エールの背後で煌めく星々。僅かに視線を反らして。
「……え?」
「星だよ、空のあの輝く星」
空に向かって手を伸ばす、決して届かないものへ向かって。
その手が、エールの頬を掠める。このまま引き寄せて抱きしめれば驚くだろうか?
エールは呆れたような顔をして、「…何、それ」と言って視界の中から姿を消した。
苦笑しながら佳大は立ちあがる。
「――さぁ、もう戻ろう。明日も早いんだろ?」
尋ねたけれども、少し拗ねたのかエールは何も言わずに先に階段の方へと向かった。
静かな夜、波の音と遠く微かに汽笛の音が聞こえる。ただそれだけ。
バルコニーから部屋に入り、ひとつだけ開けておいたガラス戸に向かい、佳大は振り替える。
戸の内側と外側。部屋の中でこちらを見上げるエールに、おやすみ。と挨拶をしようとして、
佳大の口から出たのは違う言葉。伝えなければいけない言葉。
「エール、俺の望みは変わらない。サーシャの側にいたいと。だから君の側にいるのが今の俺の望みなんだ」
「でも…、私は君のサーシャにはなれないよ?」
エールの言葉に、佳大は少し黙った後、
「…本当は、少し怖かったんだ。サーシャと会うのが。
――だから、むしろ良かったのかもしれない。
彼女はきっと俺を許さないはずだから」
佳大はそれだけ言うと、
「じゃ、おやすみ。ちゃんと鍵かけろよ」
エールが何か言う前に、さっさと戸を閉めた。
その向こう、部屋の中では、やはり何か言いたげなエールの顔が見える。その顔が、
10年前、サーシャがよく自分に向けていた顔であることに、佳大は耐えられなくて。
視線を反らし逃げるようにその場を去った。
閉められた戸に手を当てて、立ち去る男の背を見送る。
「……許さないか」
ガラスから伝わる冷たさ。
エールはそこにそっと額を添える。呟く声はもう男には届かないだろうけど。
「どうなんだろうね、――サーシャ」