表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

順三の夢

作者: 三橋 潤

プロローグ


真っ暗闇に得体の知れない怪物がもぞもぞと頭をもたげる気配がする。それはずっと以前からそこにいたのかそれとも今この瞬間にそこで生まれつつあるのかとにかくパックリと開いた裂け目から泡が噴き出てくるようにどんどん大きくなってゆく。するとそれはだんだん仕事に熱中する自分の姿になったり或いはもうこの世にいない両親や別れた妻子の笑顔になったかと思えばもう長い間会っていないそれほど親しくもない知り合いの無表情な顔に変わったり或いは性懲りもなく同じ間違いを繰り返す無数の阿呆になったかと思えば次の瞬間どこか見覚えのある真っ青な大海原や雲を頂く高山の凛々しい風景になったり脈絡もなく次から次に好き勝手に変わるのでいくら追いかけても決して追い付けずにやがて暗闇に吸い込まれるように消えてしまう。足を止めて一体どこへいったのかと見渡していると周囲を覆う暗闇から小鳥の囀りが小さく聞こえ始めてそしてだんだん大きくなってやがてそれと共に真っ暗闇に薄明かりが差してくる。そしてゆっくり目を開くと閉じた雨戸の隙間から差し込んでくる光が部屋の中をボンヤリと照らし出す。そこでやっと順三はぼやけた頭で今日もまた目が覚めたのかと思う。そのまま怠惰に任せてまた眠りに落ちそうになると周りの暗闇からグズグズするな早く起きろと怒鳴り声が飛び出てきたかと思うと何も急ぐ必要はないからそのまま眠っていろという声が漏れてきもする。そこで順三は意を決して目を開き仰向きに寝返って組んだ後ろ手に頭を乗せてじっと天井を見つめる。すると薄闇に慣れてきた目に天井の美しい木目がボンヤリと映ってくる。そしてその木目がはっきり見えてくる頃やっとまた新しい一日が明けたのだという気持ちになって今いるこの暗闇と枕元でコツコツ時を刻み続ける古びた目覚まし時計が今日という一日に通じる唯一の窓口に思えてくる。すると目覚まし時計が急にけたたましく鳴りだして順三は慌てて枕元に置いた眼鏡をかけそして思いきり大きな欠伸をして床を離れる。


高梨順三は四十三年間勤めた会社を去年六十五歳の誕生日に定年退職した。事情があって妻とは十年ほど前に離婚しそしてそれを機に既に独立していた二人の子供とも音信が途絶えて迎えたたったひとりの定年である。単身赴任していた海外の勤務地で毎晩遅くまで仕事に追いまくられていた十年前のある日三十年近く連れ添った妻から捺印を済ませた離婚届を突然受け取って順三は訳も分からずに狼狽した。すぐに帰国したかったが目の前にうず高く積み上がった仕事は一日の猶予も与えてくれず家に電話をしても誰もでずそれから二か月も過ぎてやっと時間を作って一時帰国した時にはもう家は空っぽで居間のテーブルに妻の書き置きが一枚置かれていただけであった。そしてそこには、思うところあって帰ります。長い間お世話になりました。とだけあった。順三は体中の力が抜けてその場に蹲ってしまった。妻の実家に電話をかけても妻はでず妻の両親も一切対応してくれなかった。それでも実家を訪ねたが敷居を跨がせてもくれずに門前払いを食わされた。一体自分が何をしたというのだ、一体自分のどこが、何が悪いというのだ。長い間精一杯働いて家族を養いこれといった苦労をかけた覚えもないのに一言の話もなしにこの仕打ちはいくら何でも酷すぎるだろうと唇をかんだが今になって思えば仕事に追いまくられて家庭を顧みることも子供の相手をすることも家庭団欒の時間はおろか家族の気持ちを思いやる余裕さえ失っていたそれまでを思えば相応の結末なのかも知れない。その時順三は人生一度や二度必ず大波に襲われるからその時をいかに乗り切るかですべてが決まるとよくいっていた上司を思い出していた。そんな事件があった次の年に順三は日本に帰任しそれから十年間どうにかひとりで頑張り抜いて去年ひとりで定年を迎え生まれて初めてゆっくり考える余裕と時間を得たのである。順三は家庭に降りかかった大波にこそ飲み込まれて乗り越えられなかったが仕事の大波は幾度となく乗り越えて会社にはそれなりに貢献したという自負が気持ちの拠り所であったがそれも会社を離れてしまえば錆びた勲章を眺めるほどの価値もない。それは壊れかけた映写機がカタカタ回って映し出す古ぼけた映画をぼんやり眺めている認知症の老人のようなものだ。順三は思うところあって定年を迎えるとそれまで二十年以上住んだ家を惜し気もなく売り払って遠く離れた海辺の田舎町に引っ越した。その町に決めたのは近くを流れる暖流のおかげで冬は暖かく夏は海からの風で涼しくそしてひとり住まいに手頃な物件が都合よく見つかったからではあるがもっと大切なことはそこが知人もいなければ訪れたこともない全く初めての町だということである。過去を全て精算してもう一度ゼロから生きようとする人間にはそれが最も大切な条件である。順三はこの次にこの町を離れるのはこの世を去る時だと覚悟を決めて転居したものの引っ越した当初は四十三年間に及ぶサラリーマン生活で頭と身体の髄にまでこびりついた習慣を抜けられずまた覚悟していたとはいえ全く不案内な土地でひとりそれまでとは全く違う生活を営むのは存外に厳しく自由を謳歌するべき日々は忽ち退屈で不安な日々に色褪せ毎日孤独の中で時だけが無為に過ぎゆく状態を何とかしなければという焦燥にも駆られてこんなことならいっそ昔のように毎朝五時半に起きて会社にゆけたらどんなによいかと思う有様であった。まるで長い刑期を終えて自由になる日を指折り数えていた囚人がいざその日を迎えると忽ちどうしてよいのか分からなくなって路頭に迷うようなものだ。長い間束縛され続けてきた魔の手からやっと逃れたと思ったらまた別の見えない手が伸びてきて逃れようと必死でもがいても全く先が見えないどころかもがけばもがくほど底なしの暗闇に引き込まれてゆくような焦燥感が募ってこのままでは奈落の底で生命の灯さえ消えかねない恐怖を感じ始めるとそれがまた焦燥のこぶしを更に強く振り下ろす恐ろしい悪循環に陥ってしまった。順三はこのままではもうすぐ全てが駄目になると思い詰めて蛮勇をふるいもう一度自分を冷静に見直して考えを構築し直す以外にこの難局を乗り越える手立てはないと覚悟して大げさではなく自己の全てを賭けて前に出た。順三がこんなに深刻に突き詰めて物事を考え抜いたのは後にも先にもこの時だけである。そして辿り着いたのが自分を蝕むこの得体の知れない新たな手の正体は自分を取り巻くこの現実の中で自分は生きてゆけるかという不安とたとえそれが是で自分に未来が存在しても果たしてそれが生きるに値するものかという不安だということである。この二つの不安にそれなりの解が得られれば自分を蝕んで止まないこの新しい手を克服して悩ましい恐怖や不安や焦燥から解放されて新しい人生を歩めるかも知れない。いや、きっと歩める。生活が成り立ちそしてその先に目標さえあれば実現されようがされまいが達成に向けて努力する過程に価値が生じるのは当然といえば当然である。しかし現実に人はそのように生きているのだろうか。順三はまず生活が成り立つかどうか現実の問題を考えてみた。簡単にいうと今手元にある年金の受給権と多少の資産で将来病気や事故の可能性も含めて生き永らえられるかどうかである。その結果が多少の条件は付いても是ならば次に過去を総括してこれからを生きる意味を設定することである。つまり今がなければ未来はないしたとえ今があっても生きる未来に意味がなければ価値がないということである。ただ生きるためだけの未来ならあってもなくてもそんなに大きな違いはない。このような考えに至る過程で順三は自分には常に陰と陽というか作用と反作用というかそんな相反する力が反発し合いながら共存していることに気が付いた。つまり反発し合う正反対の自分が存在するということである。ある日順三が百貨店をブラついていると値は張るが常々欲しいと思っていた服を偶然見つけた。すると片方の自分がこの機会を逃したらもう見つからないかも知れないからここで思い切って買ってしまえというともう一方の自分が何も今ここで買わなくてももっと安くてよいものが見つかるかも知れないからそれからでも遅くはないといって引き止める。少し余裕があった現役時代なら大概前者が優ってその場で買ってしまうがいつもその後に何ともいえない罪の意識が残った。そして年金生活者になった今それまで押さえつけられてきた後者が蓄積した屈辱を跳ね返すように大反攻に転じ前者を抑えつけて無駄をいっさい切り詰めて必要最低限の生活をするよう強く順三に迫ってきた。順三は追い立てられる敗残兵のように慌てて有料テレビ放送や年会費が必要なクレジットカードやパソコンの有料ソフトや各種協会の会費などを全て見直して必要ないものをすべて解約した。残ったのは生活に必要な一枚のクレジットカードだけである。そして思い付きや衝動で買い物をせず生活に必要欠くべからざるものだけを値段をよく吟味した上で必要な量だけ買うように自身を戒めた。そのような努力を重ね自分に相応な生活の姿が見えてくるようになると手元の資産も考え併せて現状でどうにか八十歳まで生きてゆける目途がついたと思った。これで第一の不安は努力付きという条件でどうにか目途が付いた。ちなみに順三は特に事情がある訳でもないが八十歳を自分の天寿と決めている。それより短い人生では未練が残るし長ければ苦痛だ。こう考えると今年六十五歳だからあと十五年生きると仮定して何かと計画も立てやすいし分析もしやすい。つまり年金資産やその他の資産、保険も含めて現在価値がいくらの総資産があればそこまで生きてゆけるか計算できるしカレンダーを消し込んで自分の余命はあと何日と数えると目の前に何があってもすべてその日に終わりだから気が楽である。万が一その先があってもそれはその時のことである。そしてその日がくれば苦しまず誰にも迷惑をかけずにそしてできれば誰にも知られずにそっとこの世を旅立ちたい。その後のことはちゃんとした額のお金を添えて誰かにお願いしておけば滞りなくやってくれるだろう。もしこの目論見がその通りに運ばなかったらどうしようなどと余計な取り越し苦労をせずにとにかく今日一日を精一杯生きてゆこうと順三は考えている。そして問題はこれから先を生きる意味という第二の不安である。一体どうしてこんな途方もないことを考える羽目に陥ったのか。それはこの彼岸に辿り着くことが迫りくる新しい手を克服する唯一の手段と自分なりに考えるからである。たとえ辿り着けなくてもそれはそれで別の彼岸と考えれば目標は立派に達成できる。順三はそんな考えを探るためにまず過去やりたいと思ってできなかったことを思い浮かべてみた。それはただひとときの思い付きや気まぐれでなく一生をかけてでもやり遂げたいと思ったことである。しかしいくら考えても浮かぶのは取るに足らない些事ばかりでこれといったものは何も思い浮かばない。そこに見えるのは大きな流れの中で退化してしまった自己の抜け殻だけで純粋な意志の反映などどこにも見当たらない。知識の詰め込みに明け暮れた大学卒業までの二十二年間と目の前の仕事に追いまくられるばかりのそれからの四十三年間が順三の精神をすっかり壊死させてしまった。以前順三は退職するにあたって色々な人達から本当にご苦労様でしたと声を掛けられたがその度に強い違和感に襲われた。というのも順三は仕事が厳しいとか大変で疲れたとか常々思ったがご苦労だと思ったことは一度もなかったからである。それは生活のために漁師が魚を取って売るように農家が作物を育てて売るように給与という対価を得て会社に自分の時間と能力を売り払うことだと思えば売ったものはもう自分のものではないから何のためらいも違和感もなく自分の都合や感情と切り離して物事を進めることができた。それはご苦労なことではなく当然のことである。ただ会社に売り渡してしまった空洞の大きさを今目の前にしてただ茫然としているだけのことである。そして人生の終点が見え隠れするこの時期にその空洞が疼きだしてそこから得体の知れない新しい手が伸び出てきて順三を恐怖と苦悩と焦燥に陥れている。それを今になって原点に引き戻して取り返せると考えるほど順三は愚かではない。たとえ辿り着いた先が幻の彼岸であってもそれはそれでよいと順三は思っている。順三は心のゴミ箱にうず高く積もったゴミをもう一度ひっくり返してひとつひとつ丹念に眺め直してみた。それは決して安易な作業ではなかったが根気よく続けるうちにそこに一本の細い糸が通っているのを見つけた。順三は幼い頃から何をするにもひとりでするのが好きで他人と交わるのは不得手であった。ほかの子供達が外でワイワイ騒いでいても順三はいつもひとり家で飽きずに絵本を読んだり木立に隠れた小鳥の囀りに耳を傾けたり花から花へ飛び回る蝶を眺めてばかりいた。その性向は両親を心配させるほど顕著だったが順三はただ自分の気持ちが赴くままにそうしただけで好きでもない遊びを好きでもない他人と好きでもない外で一緒にするよりその方が余程楽しかったからだけである。そして小学校から中学校、そして高等学校から大学へと進学して身体は大きく成長しても内面は幼い頃そのままであった。そして社会の坩堝に放り込まれてから四十三年の長きにわたり否応なくややこしい人間関係に巻き込まれて社会と人間の狭間で生きる宿命を負わされて辛酸と苦悩を嫌というほど舐めた末に今また新しい手に追われて悩んだ末に過去のごみ箱からやっと一本の線を見出したのである。それはまさにこの世で翻弄され続けた自分自身をつなぐ一本の糸であった。順三はその細い糸に連なるいろいろなことをどうにか表現できないかと思った。もしできればそれこそが目指す彼岸かも知れない。もしそうならそれで自分がこの世界を生きた意味が証明されると思った。このようにして順三の第二の人生が始まった。


順 三 の 夢



「やはりライブ演奏は違いますね。私、初めてですけどCDを聴くのとこんなに違うとは思いませんでした。特にピアノの迫力が圧巻で身体の芯に響くようでしたわ。いい演奏を聴くと何かしら一皮むけて新しい世界に踏み込んだような新鮮な気持ちになりますよね。」

順三とマサが都心のジャズ喫茶に入った頃はビルの谷間にまだ夕日が名残を残していたが終わって出る頃にはもう夜の帳がとっぷり下りて大通り沿いは色とりどりのネオンの競演であった。二人は大通りの人込みの中を肩が触れ合わんばかりに歩いていた。

「そうですね。今日のトリオは上手かったすね。中でもあのピアノは秀逸でした。きっとあのピアニストは指の力が並外れて強いのでしょう。でないとあんなピアノ線が切れてしまいそうな鋭い音は出ないですし。ベースもドラムスもよかったけどピアノが際立ちすぎて刺身のツマみたいな引き立て役でしたね。」

「ホホ、刺身のツマとはうまい譬えですね。でもピアノと他の楽器の力が違いすぎて少しバランスを欠いていたような気がするのですが・・・、ベースやドラムスがもう少し上手ければもっとよい演奏だったのにって・・・。バランスが取れないとハーモニーが崩れて結局一番下手に合わせるしかありませんものね。まるで最新鋭の航空母艦と旧式の巡洋艦の機動部隊が巡洋艦の鈍足に足を引っ張られて戦闘力を発揮できないようなものですわ。まぁ、そんな編成する参謀はいないでしょうけど。」

順三は驚いて肩越しにマサを見たが別に気に留める様子もなく順三がこちらを見ていることすら気付かない体であった。航空母艦やら巡洋艦やら作戦参謀やら平和ボケのこの国でもうとっくに死語になってしまった旧い軍事用語がマサの口から出てこようとは思わなかった。ピアノが航空母艦で他の楽器が旧式巡洋艦で主力の航空母艦が護衛の巡洋艦の鈍足に足を引っ張られて本来の力を発揮できなかったというなら順三も納得できる。巡洋艦が航空母艦の意を酌んでもっと素早く動いていればもっと大きな戦果を挙げていただろう。マサがもう歴史の一コマになった前の戦争を経験した世代でないのは確かだし戦争に興味があるようにも見えなかったのにそんな譬えが口をついて突然出てくるとは一体どこにそんな源が潜んでいるただろうかと順三は思った。

「ピアノトリオと機動部隊とは驚きですね。何かご興味でもあるのですか・・・?」

「いえ、別にそんなことはありませんけど・・・。」

意外なほど素っ気ない返事に順三はそれ以上聞く気分になれなかった。それよりマサの細い撫で肩が人込みに揺られて順三の肩に触れる度に甘い漣が全身に広がっていつまでも名残をとどめていた。マサと会うのはこれで三度目だがいつも着物姿で洋服を着た姿を順三はまだ見たことがなかった。確かにその日本人形のような色白の細面に墨を引いたような二重に軽く朱を差した薄い唇とスラッと伸びた細身の身体に着物はよく似合うが決して洋服が似合わないわけではないと思うがなぜそうなのかまだ順三は知らない。それだけではなくマサが何か仕事をしているかそれとも悠々自適の身の上なのかも知らない。もし仕事をしているとしてもそれが着付けや習いごとの先生でも料亭や水商売の女将でもないことはその醸しだす雰囲気で分かる。順三は今晩ジャズライブを一緒に聴く機会にいろいろ尋ねてみたいと思っていたが連合艦隊のような素っ気ない返事をされてしまえばそれまでである。どうもマサは自分の身の上を語るのをあまり好まない様子で何か事情があるのかも知れずそこを興味本位で根掘り葉掘り聞くのも野暮というものだ。その日マサは少し灰色がかった渋い朱の地に深い藍色の模様を染め抜いた着物という少し人目を引くいでたちで着物には全くの門外漢の順三でさえ全体が調和して大変美しいと思った。このように決してわざとらしくなく内部から滲み出てくるような美しさに接するとこれまで眠っていた日本人としての審美眼が再び呼び醒まされる気がする。思えばマサとの出会いはほんの小さな偶然であった。


定年退職して順三はいろいろ悩みそして迷った挙句に心の細い糸に連なるいろいろなことを物語にしてこの世を生きる自分なりの意味を探り当てたいと思ったことは前に書いた。しかし心に決めたからといって全く経験のないことが最初から上首尾に進む筈もない。机の前に座って頭を絞り始めるとすぐに分厚い壁にぶち当たって全く前へ進まず悶々とする日々が続いた。まず細い糸に連なることがすぐに物語の種になると順三は思っていたが平凡なサラリーマン生活しか知らない順三の糸にこれといって面白そうなものがぶら下がっている道理もなくどこにでも転がっている平凡なことの連続を下手な文章で綴るほど醜悪なことはない。ではどうすればよいのかと考え始めるとすぐに例の分厚い壁が現れて思考がピタッと停止してしまう。そんな八方塞のような状態で悶々としていたある暖かい春の日に順三は気分直しに隣町の映画館にでもいってみようと急に思い付いて早めに昼食を済ませてひとり家を出た。もともとその本邦初公開と銘打ったアメリカ映画を見たくて見にゆくのではないにしても内心多少は期待していたが意に反して全く単純な筋書きのお粗末極まりない映画で幕が下りると大いに落胆するやら金返せと腹が立つやら散々の態であった。多分自国で相手にされない映画をこの極東の島国の配給会社を言葉巧みに欺いて売りつけたに違いない。戦争に負けたとはいえ随分見下げられたものだと順三は憤懣やる方なく憂さ晴らしに帰りに立ち寄った駅前の居酒屋でそれほど飲みたくもない酒に余計な出費が嵩むとアメリカ野郎にカモにされたようでむしゃくしゃしてきた。しかしそのうちつまらないことでひとり目を怒らして飲んでいる自分がだんだん情けなくなってきて適当に切り上げてホームに上がると都合よく滑り込んできた帰りの電車に乗った。そして順三がその時乗った電車の向かい側の長椅子に小さなバッグを膝の上に置いて座っていた和服姿の女がマサであった。その頃はもう正月のような特別な祭日か特別な職業でもない限りこんな田舎町の日常で着物姿の女を見かけることはまずなかった。久しぶりに見る女の着物姿を順三は見るともなく眺めているとすぐに電車は駅に到着した。順三がホームを下ってタクシー乗り場にいくとすぐ横のバス停でさっきの着物姿の女、即ちマサ、がオロオロと困った様子をしていたので順三はそのまま放ってもおけずに声をかけた。

「どうかなさいましたか?」

「あぁ、すみませんちょっと・・・・。」

「お困りですか?」

「はい、最終のバスが出てしまって・・・・。」

バス停の時刻表を見ると確かに十分ほど前に最終のバスは出てしまっていた。

「そうですか。それはお困りでしょう。失礼ですがお住まいはどちらですか?」

「はい、関本町です。」

関本町といえば順三の家から少し山側に入ったそれほど遠くないところなので帰りに送っていっても手間ではない。

「私もそちらの方なのでもしよかったらお送りしましょうか?」

するとマサは顔を上げて小さな声できまり悪げにいった。

「ありがとうございます。そうしていただければ本当に助かります・・・、手元もちょっと乏しくて・・・。」

マサは最終バスに置いて行かれて持ち合わせも乏しくて途方に暮れていたのだ。

「それではタクシーに乗りましょう。」

「ありがとうございます。」

そういってタクシー乗り場でマサは着物の裾を器用に抑えて順三の後からタクシーに乗った。そこは駅からタクシーでほんの十五分か二十分ほどのところでろくに話をする暇もなく到着した。

「あぁ、その角を右へ入ったところです。」

いわれた通り右に折れるとそこは家の灯が見えない寂しいところでその先は道が細くなって車が入れなかった。

「ここでよいのですか?仰って下されば近くまでいきますよ。」

「ありがとうございます。でもこの先は道が狭くて車が通れませんのでここで下ろしていただきます。」

「そうですか。それでは運転手さんその先で止めて下さい。」

「本当にご親切にありがとうございました。助かりました。私、マサと申します。もし機会があればまたご恩返しさせていただきます。」

「いえいえ、私の家も近くで遠回りでも何でもありませんのでどうぞお気になさらずに。お気を付けて。」

「本当にありがとうございました。」

そういってまた着物の裾を器用に押さえてタクシーを下りるとマサは深く頭を下げて闇に消えていった。車のヘッドライトを浴びて遠ざかるマサの後姿を眺めながらこんな辺鄙なところにもあんないい女がいるのだなと順三は妙に感心した。帰る途中タクシーの運転手があのあたりは昔地主だった大きな農家が点在しているところだといっていたので多分マサも大方あの辺りの金持ちの農家の奥方か何かだろうと順三は思った。今日の映画はまことに歯痒かったがあんないい女と短い時間とはいえ席を一緒できたのだからよしとせねばと順三は気分を直した。これが順三とマサとの細やかな出会いである。



順三が気持ちを奮い起こして今度こそはと机に向かう度に厚い壁は一ミリも動かないまま撃退されてしまう。敵は手強いと覚悟して臨んだつもりではあるがこんなにも強大なのかと壁を見上げては肩を落とすばかりであった。そしてこんな自分に本当に生きる意味を教えてくれる物語なんか作れるのだろうかと悲観する気持ちが時を置かずに追い打ちをかけてくる。しかしここで諦めてしまえばこれから先の人生を放棄することになるとまた気を取り直して机に向かうが状況が変わる訳でもなくすぐに放り出したくなるのはいつものことである。文章を練れば筋が筋を練れば文章がそして物語の展開を見れば全体の均衡がと火の粉が飛ぶように次々に伝播してあちらを抑えればこちらが飛び出しこちらを抑えればあちらが飛び出す始末で結局現れてくるのはそれこそ犬の胴体に猫の頭と像の尻尾を付けたような奇怪で正視に耐えない代物である。そして色々悩んだ挙句に辿り着いたのはどこにでも転がっているものを貧相な創造力でいかにも何かがあるように手っ取り早く物語にでっち上げようとしても所詮はゼロにゼロを塗りたくるだけで結局はゼロだという至極当然の結論である。ということは根気よくものを探して種に高めそして創造力を地道に鍛えて表現してゆくしか道はないというこれまた至極当然の結論でもある。賽の河原で空しく小石を積み上げては鬼に壊される子供も辿るべき道をしっかり見定めて真摯に取り組めばいつか菩薩様も微笑んでくれるかも知れない。そんな試行錯誤の最中に順三はマサと出会った。

マサと出会った日から暫くしたある日の午前順三は相変わらず纏まらない頭を抱えて日課の散歩に出た。順三の散歩道は決まっていた。家の前の広い舗装道を右手に五百メートルほど進むと舗装が途切れて周りの住宅街が低い丘に囲まれた田園風景に変わる。その中を真っ直ぐ伸びるあぜ道を四季の移ろいを愛でながら歩いてゆくと道が尽きたところでまた広い舗装道に出る。その舗装道を渡ったところにこの近辺唯一のショッピングセンター、といっても順三の目にはスーパーに毛が生えたぐらいにしか映らないが、がある。そこで店を覗きながらブラブラひと回りしてまた来た道を引き返すのが順三の日課の散歩道で四季の移ろいを眺めたり少ないとはいえ商店の間をブラブラしてよい気分転換になりまた日頃の運動不足の解消にもなる。普段はそのまま家に帰って昼食を取るのだがその日は出た時刻が少し遅かったので昼食時間に引っ掛かってしまった。順三はこれから帰って昼食を準備するのも億劫なのでショッピングセンター二階のささやかな食堂街で済ませようと思った。二階に上がってさてどこにしようかと食堂のガラス棚を眺めながら歩いていると反対側から着物姿の女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。その時順三の胸にあの夜家へ送っていったマサの着物姿が電撃のように浮かび上がった。そして近付くにつれてそれがマサであることがはっきり分かった。マサも順三に気付いて少し離れたところから微笑みながら頭を下げた。二人は思いもかけずにショッピングセンターの二階で再会したのである。

「これはこれは、思わぬところで。いつぞやは大変お世話になりました。ありがとうございました。」

まずマサが深々と頭を下げた。

「いえいえ、とんでもありません。帰る途中でしたので何でもありませんよ。」

「あの時バスに置いていかれてお金もなかったしどうしようかと途方にくれましたけど本当に地獄の仏とはこのことですね。」

「・・・立ち話も何ですし丁度時間も時間ですからもしよかったらお昼でもいかがですか?ちょうど私もそのつもりで二階へ上がってきましたし。」

順三がいうとマサは照れ臭そうに笑みを浮かべた。

「私はかまいませんけどそちらはよろしいのですか?お連れ様でも・・・?」

「私もひとりで連れはおりませんので・・・・。」

裕福な農家の奥方と思っていたマサがひとりで田舎の小さなショッピングセンターを歩いていたのが順三には少し腑に落ちなかった。ちょっとした買い物や食事ならこんなところではなくて東京の気の利いた百貨店にでもいくだろうし、しかもひとりで・・・。

「そうですか、それではこの先に鰻屋さんがありますのでもしお嫌いでなかったらいかがですか?それにこの前のお礼といっては何ですけれどよろしかったら今日のところは私にご馳走させていただけないでしょうか?」

「それはどうも恐縮です。けどどうぞお気遣いのないように。」

「いえいえ、気など使っておりませんよ。私、あの鰻屋さんはなかなかのお味と思っておりますので一度是非お試し下さい。どうぞこちらです。」

順三はマサについて食堂街の一番奥にある鰻屋にいった。順三はこんなところに鰻屋があるとは知らなかったが店に近付くと漂ってくる鰻の香ばしい匂いが空っぽの順三の腹をいやが上にもくすぐった。暖簾をくぐると仲居が出てきて一礼するなり何も聞かずに奥へ案内するのをみるとマサはここの常連のようだ。店は至って簡素な造りで順三が幼いころ父によく連れて行ってもらった近所の小さなうどん屋を思わせたが細かいところや調度にはやはり凝っているようだ。奥は落ち着いた座敷になっていて二人は一番奥の部屋に通された。そこは入口に近いテーブル席の喧騒とは無縁の静かな座敷であった。二人を案内すると仲居は敷居に膝をついて丁寧に頭を下げて下がっていった。

「へぇ~、ここにこんな店があるなんて知らなかったなぁ。それにこんな奥座敷があるなんて・・・・。ここにはよくこられるのですか?」

順三は初めて都会に出てきた田舎者のようにキョロキョロと部屋を見回した。

「えぇ、そんなにしょっちゅうではありませんけど時々参ります。ここの鰻は味がいいですし何といっても鰻は精が付きますから。」

「確か同じ名前の店が築地かどこかにもあったような気がするのですが・・・・。」

「まぁ、よくご存じで。ここはあの店が三年ほど前に出したお店です。なんでもこの近くの川でよい鰻が取れるそうで店を広げるにも天然鰻にこだわってなかなか適当な場所が見つからなかったのがいろいろ足を運んでやっとここを見つけたそうですよ。」

順三がいう築地の鰻の店というのはこの世界では評判の老舗で味もよいが値段もよいことでも有名であった。たとえ自分の懐が痛むのでなくても何もこんな高級な店でなくその辺りのうどん屋か何かでいいのにと順三は思った。しかしまだ二度しか会っていない裕福そうな女性にそんなことをいえる道理もない。するとマサが驚くようなことをいった。

「まだお天道様も高いですけど、もしよかったら一杯お召し上がりになりませんか?」

順三は驚いた。まだ会って二度目の女性に昼日中から酒を勧められるとは思っていなかった。かといって嫌いなのかというと決してそうではないどころかその真逆である。順三の酒好きをマサは持って生まれた本能で感じ取ったのだろうか、脂が滴るような着物姿の熟年の婦人を目の前にして好きな酒を飲むのに異存あろうはずもないけど腹を空かせた野良犬みたいに待ってましたとばかりに尻尾を振るのはいかにも浅ましいと思っているとマサはそれも見越したようにいった。

「ここの鰻料理に合うように創業者が故郷の会津地方の酒蔵と一緒に仕込んだ秘伝のお酒がありますのでもしお嫌いでなかったら一度お試し下さいませ・・・。」

そういわれると順三も受けないわけにはいかない。

「え、えぇ、そ、そうですか。それなら一献いただきましょうか。」

「是非、きっとお気に入っていただけると思いますよ。」

マサが部屋の隅のボタンを押すとすぐに仲居がやってきて品書きを手に何やら二、三言いうと仲居は畏まって出ていった。

「ところでこの前駅からお送りした時にお名前をマサさんと伺ったのですがそうお呼びしてよろしいですか?」

「えぇ、そう呼んでください。その方が堅苦しくなくていいですわ。」

「それではマサさん、マサさんはここのご常連なのですね。」

「いえいえ、常連というほどでもありません。たまに精付けに鰻を食べにくるだけです。」

するとすぐに入口で仲居の声がして鰻の白焼きに銚子二本をもって入ってきた。マサは仲居から銚子を受け取ると袂に手を当ててどうぞとまず順三に勧めた。順三は盃を手に酌を受けながら見え隠れするマサの真っ白いいちの腕に得もいわれぬ色香を感じた。そして次に順三が勧めるとマサはためらわずに両手を捧げるようにして酌を受けた。そしてそれが決して酒の席に手慣れた者の技でないことはすぐに分かった。口にしてみるとその酒は少し辛口であっさりとしていかにも鰻の濃い脂と合いそうであった。白焼きを口に入れて余計な脂が抜けた淡白で上品な風味が広がったところで二杯目を口に運ぶと酒のスッキリした辛さが鼻に抜けて鰻の脂と共に醸し出す何ともいえない風味が順三を唸らせた。結局立て続けに三杯酌をしてもらって次にマサに注ぐと例の真っ白いいちの腕を覗かせて一気に盃を明ける姿は優雅というより豪快だった。順三はすっかり気分がよくなってあれこれ舌も軽く喋るのをマサは軽く笑みを浮かべて時おり合いの手を入れて聞いた。まだ会って二度目なのに酒の勢いがあるとはいえペラペラしゃべる男はあまりみっともよくないと順三の心がブレーキをかけても旨い酒と鰻とそしてマサの美しい笑顔がすぐに外してしまった。マサもそんな順三が決して嫌ではないどころか喜々として聞いていた。順三は勢いに任せて喋らなくてもよいことまでいろいろ喋ったがマサは聞くばかりで一向に口を開かないので少しは自分のことも喋ってほしいとマサに話題を向けた。

「ところで・・・、ご主人は家にいらっしゃるのですか?」

するとマサが少し悲しげな表情で俯いたので順三は余計なことをと後悔した。思えば旦那がいれば昼の日中にひとりでショッピングセンターを歩いていることもないだろうに。順三は聞いてしまってから自分のいたらなさを思った。

「・・・・、私、主人はおりません、訳あって主人と別れましてそれからずっとひとりでおります。」

「そうですか、それはどうも余計なことを伺ってしまいました・・・。」

「いえ、そんなことはありません。高梨さんと同じ身の上ですから・・・・。」

寂しそうなマサの言葉が雰囲気を少し冷ましたがマサが自分と同じ身の上と知って順三は距離が縮まった気がした。順三はもっと詳しく聞きたかったが酒の席とはいえまだ二度しか会っていないのに根掘り葉掘り身の上を聞くのは流石にためらった。人は誰しも触れられたくないことのひとつやふたつはあるものである。順三は当り障りのない話題に向けた。

「ところで、マサさんはどのようなことにご趣味をお持ちなのですか?舞踊とか旅行とか・・・・。

「そうですね。とんと不調法なものであまり趣味といってもございませんけど強いていえば音楽でしょうか。」

「音楽というと琴や三味線やクラッシック音楽・・・・、ですか?」

するとマサの口から思いもよらない言葉が出てきた。

「いえ、ジャズです。」

「え、ジャズ。」

「はい、そんなに詳しくはないのですけど・・・。」

順三は音楽というからマサの雰囲気からして日本の伝統音楽か洋物ならクラッシックだろうと思ったがジャズとは思いもよらなかった。実は順三も四十年以上も前の学生時代からジャズファンで今は居間にそれなりのオーディオ機器を揃えて長い間に集めた多数のレコードやCDの中から好みのジャンルで毎日のように楽しんでいて時々都内のジャズ喫茶へライブを聴きに出向いた。

「へぇ、マサさんがジャズ好きだとは少し驚きましたね。着物姿なのでてっきり・・・。」

「えぇ、よくそう思われるのですけど人は見かけによらないといいますよ。私、ジャズって音楽の中でも一番束縛されずに演奏家の特徴や個性がそのまま滲み出ていて気取らず人間臭いところが好きです。他の音楽はいろいろと難しい規則やらがあってどうも私には・・・・。」

「実をいいますと私も学生時代から今に至るまで四十年以上ずっとジャズが好きで聴いていますよ。」

「えぇ!そうなのですか。これはこれは同好の士とは意外です、それにしても四十年以上なんて、それじゃジャズの生き字引みたいなものですね。」

「いえいえ、そんな大それたものではありませんよ。理屈も何も分からずにただ聴いて楽しむだけの愛好家ですから。ところでマサさんは何で聴かれるのですか?」

「何でといいますと・・・・?」

首を少し傾けて悪戯っぽい目で順三を見るマサは酒を酌する時の色香漂う熟年の女からまだあどけない少女のように変わったようだ。

「何でといいますと・・・、つまりですね、例えばCDとかレコードとかテープとか。」

「あぁ、それなら私はCDしか聴いたことがありません。ジャズを聴きだしたころにはもうレコードはなくて、それにテープは見たこともありませんし・・・。」

「で、ちょっと込み入るかも知れませんけど、どんな機器で聴いておられるのですか?」

「どんな機器といいますと・・・・?」

マサはまた同じ表情で順三を見た。

「例えばアンプは真空管とかトランジスターとかスピーカーは何とかそんなことです。」

「私、その辺りは詳しくないものでどこにでも売っている簡単なステレオコンポで聴いていますけど・・・・、高梨さんは?」

「私は真空管アンプでビンテージスピーカーを鳴らしています。いい音がでますよ。」

「へぇ、真空管アンプにビンテージスピーカー・・・、ですか?私、真空管って聞いたことはありますけど見たことがなくて・・・。それにビンテージスピーカーかーなんてどんなものやら・・・。高梨さん、お詳しいですね。」

「いえいえ、大したことはありませんよ。世の中には何千万円もかけて自分好みのオーディオを設える人もいるのですから、私なんかとてもとても・・・・。」

「へぇ、何千万も・・・!」

マサは目を見張った。

「えぇ、オーディオというのは嵌ると丁度逃げ水みたいにいくら追いかけても追いつかない底なし沼みたいなものですからきりがありません。で、ライブ演奏はお聴きになるのですか?」

「私、一度聴いてみたいと思っているのですけど一体どこでやっていてどうすればよいのか分からなくて・・・・。」

マサは訴えるような表情をした。

「それなら都内のジャズ喫茶に時々行きますからもしよかったらご案内いたしましょうか?そこなら小編成ですけどジャズバンドのライブ演奏が聴けますよ。」

「えぇ、本当ですか、まぁ、嬉しい。是非よろしくお願いします。」

マサはまたあどけない少女に戻って目を輝かせた。

「それではこの次案内をもらったらご連絡しましょう。」

酒の勢いがあったとはいえ慎重そうに見えるマサがまだ二回しか会っていない男の誘いを受けるとは順三には少し意外であった。もう少しお互いを知った上でないと拙速な対応は後の落胆によく繋がるものだが・・・。マサは成熟した妖しい女なのかそれともまだあどけない少女のような心の持ち主なのかそれともそのいずれでもないのか順三にはまだ分からないがその仕草が内部から自然に滲み出てきたものだということは醸し出す雰囲気で分かる。マサは身に着けた着物のように日本の文化を体現しているのかそれともアメリカの現代音楽を愛し何物をも受け入れる自由な精神の持ち主なのかそれともいずれでもあるのかいずれでもないのかとにかく順三はマサに陰と陽を兼ね備えた玉のような未知の好奇心を感じた。

「それでは、連絡先を教えてもらえませんか?」

「あぁ、はい、うちには電話がありませんのでお散歩のついでにでもさっきの仲居さんにことづけていただければ伝わりますのでお手数ですけどそのようにお願いできればありがたいのですが。」

マサはやはりまだ二度しか会ったことのない男を信用できないでいるのだろうか?それなら簡単に誘いに乗るのは合点がいかないがマサがそうして欲しいというならそれでよいと順三は思った。

とにかくこんな経緯でそれから一週間後に順三はマサを東京のジャズ喫茶へ案内することになった。そしてマサは初めて訪れるジャズ喫茶とバンドの熱演、特にピアノの演奏に心を溶かし順三はジャズ喫茶には珍しい着物姿の日本美人に投げられる外国人を含めた客の好奇の視線に何となく戸惑いを感じた。演奏が終わると居合わせた幾人かの欧米人が一緒に写真を取らせてほしいとおずおず近付いてくるとマサは気軽に応じて欧米人達が狂喜したのはいうまでもない。そして二人は夜の東京の大通りをピアノがよかったのリズムが下手だったのと好きに評論したかと思えば突然連合艦隊云々の話になって順三を驚ろかせたのである。そしてその日は寄り道をせずに最寄りの駅に真っすぐ帰って駅前のショッピングセンター二階の例の鰻屋にいったのである。


3


「いらっしゃいませ。」

店に入ると例の仲居が愛想よく出てきた。この前マサと初めてこの店に入ったのはまだ昼前だったので客の姿を殆ど見かけなかったが今日は夕食時と重なってか入口に近いカウンター席やテーブル席は客で賑わっていた。順三は席が空いているかどうか心配だったが仲居は二人を見ると心得た様子でこの前と同じ奥座敷に真っすぐ案内した。相変わらず奥座敷は入口の喧騒とは無縁の別世界であった。仲居は二人を案内すると敷居に膝をついて丁寧に一礼して下がっていった。

「マサさん。」

座るなり急に呼びかけられてマサは少し驚いた。

「まだマサさんの姓を知らないのでそうお呼びするしかないのですが・・・。」

順三は最初にタクシーで家まで送った時にマサという名前を教えてもらっただけでまだ姓を知らなかった。知りたい気持ちはあったが別に急ぐ必要もないと余裕のようなものもあって敢えて聞かなかったが今日半日一緒にジャズを楽しみそして行動を共にして距離が近付くにつれその余裕は消えた。

「あれ、私、まだ申し上げていませんでしたか?」

「はい、まだ伺っておりませんが・・・。」

「それは失礼しました。私、とっくに申し上げたとばかり思って・・・・。」

「いえいえ、とんでもないです。」

「私、姓は槇原と申します。槇の木の槇の旧態字に原っぱの原です。」

その時なぜか順三はマサが目の前で威勢よく肩肌を脱いで口上を述べているような気がした。

「・・・、それでは槇原マサさんですね。」

「はい、そうです。でも子供のころからマサと呼ばれ慣れていますのでそう呼んでいただける方が・・・。」

「それならこれからもマサさんと呼ばせていただきましょうか。」

「ええ、その方が却って畏まらないで気が楽でいいですわ。」

マサは頬を少し赤くして微笑んだ。

「あぁ、それからこの前はご馳走になってしまいましたから今日は私の方でお礼をさせていただきます。どうぞお好きなものを召し上がってください。あぁ、それにあのお酒も。」

「ホホホ、それではこの次また私がお礼をしなければならないですからきりがございませんわ。では今回限りということでお言葉に甘えさせていただきます。」

「えぇ、今日ご一緒していただいて楽しい時間を過ごさせていただいたお礼もありますので・・・。でもそんなこといっているとマサさんが仰ったようにきりがありませんから今回だけということにいたしましょう。」

「そうですね。お互いあまり気は使わないほうが肩も凝らなくていいですね。」

マサはまた微妙な笑顔を浮かべて順三を見た。前の妻も結婚前に少し込み入った話になるといつも微妙な笑みを口元に浮かべたがこういう時に女が見せるこのはにかみとも探りとも親しみとも拒否とも許諾とも取れる笑みは一体何なのか順三には未だによく分からない。とかく女心は所詮男には想像できないものかも知れない。

「どうぞお好きなものを。」

順三が備え付けの品書きを広げて向けるとマサは格好だけサッと目を通してすぐに順三の方に向け直した。その素早さに少し面食らったが順三はゆっくり眺めて見当をつけた。

「お決まりですか?」

「はい。」

順三が部屋の隅のボタンを押すとすぐに仲居がやってきた。

「マサさんどれになさいますか?」

するとマサがいつものをといいつけると仲居は軽く頭を下げてすぐに順三の方に向き直った。順三は適当に前菜と鰻料理と前回の日本酒をいいつけると仲居は畏まって下がっていった。

「マサさん、すごいですね。」

「え、すごいって、何がですか?」

マサは鳩が豆鉄砲を食らったようにキョトンとした顔をして順三を見たがそこに何のわざとらしさもないのが順三にはよかった。

「だって、いつものをで通じるのは余程の常連でないと・・・・。」

「なぁんだ、そのことですか。いえいえ、そんなのじゃありませんのよ。もともと私は身体があまり丈夫じゃなくて、この店にきだしたのも鰻で精を付けるためでしたからいつも注文が大体決まっているのです。薬屋さんで決まった薬を買うのと同じです。それをあの仲居さんは古いものですからすっかり覚えているのです。昼なら鰻重の並みで、夜ゆっくりする時はあっさり目の前菜に鰻の白焼きにその後で鰻重の並みと肝吸いって決まっているものですから。」

「へぇ、そうだったのですか、それに今晩はあの旨い酒とね。」

「そうそう、忘れちゃいけませんよね。今晩は特別ですから。」

今晩が特別とは一体何が特別なのだろうか、自分と一緒に時間を過ごしたことだろうかそれとも初めてジャズ喫茶でライブ演奏を聴いたことだろうかそれともここで酒を飲むことだろうかと考え始めると胸が苦しくなってくるのであまり深く捉えないようにしようと順三は思った。しかし歯止めを失いかけた心を引き止めるのは難しい。

「ところで、マサさんはかなりお酒がいけるようですね。」

「いえいえ、私、お酒は好きなのですけど自分が強いかどうかは分かりません。ある量まで飲むともうそれ以上飲んでも酔いが進まないし何も変わらないので酔いつぶれたこともありませんし一体自分がどれぐらい飲めるのも分かりませんし・・・。」

「何も変わらないとは・・・・?」

「そうですね、どういえばよいのでしょう・・・・。まぁ、身体中の神経が緩んで頭の中が真っ白になってボーッとして訳が分からないまま人と話していたくなるというか・・・、それ以上飲んでも隙間からボロボロ零れ落ちるだけで何も変わりませんからただ勿体ないだけで・・・・。」

「人と話をしていたくなるとは面白いですね。それじゃ人の話を聞くだけではなくて自分のことも話さなくてはならないですね。」

順三はそっと話をマサに向けた。

「・・・・私、他人様にお聞かせできるようなことをあまり持ち合わせませんしお話を聞く方に回って話題が尽きればまた連合艦隊のお話でもするしかありませんわ・・・。」

「それじゃまだ飲み方が足りないのだ、きっと。」

「そうかも知れませんね。」

マサは珍しく声を上げて笑った。順三が酒を注ぐと一気に飲み干す姿はいかにも酔いつぶれを知らない姿に映った。

「マサさん、さっき急に連合艦隊の話をされましたが何か思いがあるのですか?ジャズと連合艦隊とはなかなか面白い組み合わせですが・・・。」

一度終わった話題を蒸し返すようだが話のネタが尽きたら連合艦隊の話でもといったのはマサの方である。

「ホホホ、確かにジャズと連合艦隊は一見面白いで取り合わせかも知れませんけど世の中には一見関係なさそうなことでも実際は底で繋がっていることもありますよ。実際、ジャズと連合艦隊もそういうところがないとも一概にはいえませんし。」

「ジャズと連合艦隊の繋がりがどこにあるのか私にはどうも分かりませんね。どこで繋がっているのですか?」

「そう問われるとなかなか説明しにくいのですが私は確かにそう思っているのです・・・。ジャズバラードが時たま南の島に眠る兵士への鎮魂歌に聞こえたりとか・・・・。」

「というと、身内のどなたかに軍関係の方がいらっしゃったのですか?」

「えぇ、叔父が二人ほど。一人は海軍のパイロットでもうひとりは海軍陸戦隊だったようですけど。でも結局二人とも戦死してしまいました・・・・。」

「・・・・・、そうですか、それはどうも余計なことを・・・・・。」

「いえいえ、そんなことないですよ。私はこの二人の叔父のことが知りたくて海軍のことを調べだしたのですから。」

「根掘り葉掘り恐縮ですけど、どうして知りたくなったのですか?」

「私が生まれたころにはもう叔父は二人ともこの世にいませんでした。小さい頃から父親にそんな叔父の話をいろいろ聞きまして興味を持つようになりました。それで少しずつ調べているうちに知識が増えたのです。」

マサが戦後そんなに時を経ずに生まれたとすれば順三とそれほど年齢は違わない筈だがそれにしても少しずつ身の上を語り始めたマサはまるでベールの下にまた違うベールを秘めるように神秘の度合いを増していった。順三が戦後暫くして生まれた頃社会はまだ戦争の残渣をあちこちに色濃く残す娯楽の少ない白黒の世界だった。空襲で焼け落ちて骨組みだけの赤錆びた軍需工場の跡が草むす広大な敷地で雨に打たれていたり歩道橋の脇で傷痍軍人が白い装束でアコーディオンを引いている姿が日常の風景としてあった。そして子供向けに脚色された他愛ない戦争漫画や映画が数多く世に出て娯楽が少ない子供達の人気を博していた。だから順三も同世代の子供達と同じように戦争の大まかな歴史や有名な作戦や将軍の名前ぐらいは知っていたがそれらは所詮苦痛も死も恐怖も伴わない子供向けの虚構の世界であった。しかしマサの二人の叔父の死という厳とした事実は他人の推量を許さないほどに重い。

「パイロットだった叔父さまはどちらで戦死されたのですか?」

「南方の航空隊の根拠地だそうです。乗っていた飛行機が墜落して遺骨も何もなくて形見の品と一緒に滑走路にあった小石をひとつ入れた白木の箱が家に戻ってきたそうです。敵の大型機を撃墜した勲章がまだ父親の実家に残っていましたけど結局多くの敵兵の命を奪った挙句に自分も命を落としてした印みたいなものですね・・・・。」

「・・・、で、もうお一方は?」

「もう一人の叔父もパイロットの訓練を受けたようですけど戦争末期でもう乗る飛行機もなくて南方の小さな島の陸戦隊に繰り入れられて上陸してきた米軍と戦って戦死したそうです。こちらは部隊が全滅して遺骨はおろか身の回りの品も何も戻ってこなかったそうです。二人ともまだ二十歳を超えるか超えないかの若さでこの世を去らなければならなかったのは本当に無念だったと思います。いろんな夢ややりたいことがあったでしょうに・・・・。」

その時廊下で失礼しますという声がして仲居が酒肴を持って入ってきた。順三はこういう話があまり得意でなかったので救われた気がしたがマサは少し消沈していた。順三はすぐに銚子を取り上げて気分直しにどうぞと酒を勧めた。戦争の狂気と悲劇は直接経験していない人にまでまるで毒ガスの後遺症のように長い間影響を与え続ける。

「今日はどうもお疲れさまでした。まずマサさんからどうぞ。」

順三が酒を勧めるとマサは笑顔に戻ってあの真っ白い一の腕を惜し気もなく晒して盃を取り上げた。そして酌を受けるとすぐに返酌した。

「どうもありがとうございました。」

「こちらこそお世話になりました。本当に楽しかったです。ありがとうございました。」

二人は盃を合わせて口へ運んだ。爽やかな酒の辛さが白焼きの濃い脂と上手く溶け合うあの味わいは健在であった。前回よりマサとの距離が近くなって身構える必要がなくなったのが順三には何よりも嬉しかった。マサが威勢よく一気に杯を空けて口を開いた。

「ところで高梨さんのご身内の方で戦争に行かれた方はいらっしゃるのですか?」

順三はもうその話を止したかったが聞かれて無下にしておく訳にもいかずまた順三には聞かれても上手く答えられない事情があるので少し戸惑った。というのも軍人の家系の次男に生まれた順三の父親は士官学校を卒業して陸軍士官に任官したぐらいだからその身内に軍隊経験のある人は多いだろうと思うが実は誰も戦争の話をしないので答えようがないのだ。それどころか父親はテレビで戦争の場面が現れるといつも即座にチャンネルを切り替えるかテレビを消してしまった。見ているところなのにお父さんはどうしてそんなことをするのだろうと母親に聞いても母親は黙って俯いたまま答えなかった。

「えぇ、何でも父親の実家は軍人の家系で父親自身士官学校から陸軍へ現役入隊した生粋の軍人で他の三人の兄弟もみな徴兵やなんやらで戦時中は兵士として前線に出たようですけど戦争のことは全く口にしないのでどこで何をしていたのか全然分からないのです。多分口にするのもおぞましい残酷な現実を目の当たりにしてなるべく触れずに記憶から消し去りたいと思っているのかも知れません。人間は許容できる苦悩の量が決まっていてそれを超えると一切口にせずにただ忘れようとするか自ら命を絶つかのどちらかだというようなことをどこかで聞いた憶えがありますから。」

「・・・・、そうなのですか。」

「ええ、父親は戦争のことを口にするのも目にするのもいつも避けているようでした。ただいつぞやテレビで戦後生まれの若い政治家があの戦争を戦い抜いた戦士云々といいだすのを聞いて普段は温厚な父親が血相を変えて簡単に戦士などという言葉を使うな、何も分からんくせにこの若造がとその政治家を大声で罵倒してテレビを切ってしまいました。その時の鬼のような恐ろしい顔を今でもよく覚えています。あの子煩悩で温厚な父親の一体どこにそんな激しい感情が潜んでいたのだろうかと怖くなりました。」

「・・・、皆同じですね。」

「皆?」

「えぇ、実は私の父親も戦時中どこかは知りませんけど前線にいたようですが全く話さないし明らかに戦争の話題を避けているようでしたので戦死した二人の叔父のことを聞くのも憚られたのですが・・・・。実際に前線で憎しみ合い殺し合った兵士は決して戦争の話をしないというのは本当なのでしょうね、きっと。ベラベラ自慢話みたいに喋るのは前線でそんな経験をしたことがない人達だとどこかで聞いた憶えがあります。目の前の敵と殺しあう狂気と恐怖を知る人は二度と触れたくもないし触れてほしくもないのでしょう。私達には想像もできない世界ですけど。結局二人の叔父について父親から聞いたのはさっきのことだけなのです。」

「そうかも知れません。あまりに残酷過ぎて恐ろしすぎて苦しすぎて記憶から消し去ってしまいたいけどあったことをなかったことにはできない。一生涯恐怖と苦痛の中で生きなければならない宿命を背負い込まされたのならせめてひと時だけでも思い出さないようにしていたいのはそういう極限の経験をした人達の共通の思いなのかも知れませんね。」

重い空気が暫く二人の会話を途切れさせたが廊下でまた仲居の声が聞こえて雰囲気がガラリと変わった。仲居は主菜の鰻重を持って入ると素早く配膳してどうぞごゆっくりと挨拶もそこそこに足早に出ていった。さっき店に入った頃にはテーブル席やカウンター席は粗方埋まっていたので調理も配膳もきっと大変なのだろう。

「それじゃいただきましょうか。」

まず順三が鰻重の蓋を開けると香ばしい香りと共にパッと立ち昇る湯気から濃い飴色の鰻がご飯の白さを隠して現れた。早速柔らかい白身に箸を入れて一口頬張ると濃い味が口一杯に広がり続いて酒を含むと口中に広がった鰻の濃厚な脂が酒の辛さと上手く絡まって糸を引くように腹に吸い込まれてゆく。いつ食べてもこの鰻は旨いしそれにさすがこの鰻に合わせて特別に設えたというだけのことはあってこの酒は実にこの鰻とよく合う。そしてその風味を忘れぬうちにすぐに二の箸を伸ばすとすぐに三の箸が出るという具合である。順三が鰻と酒に夢中になっているとマサが口を開いた。

「今日のピアノ本当によかったですね。」

マサはジャズ喫茶を出た時にいったことをもう一度繰り返した。

「いや、本当によかったです。ピアノ一流その他二流っていうところでしょうか。口幅ったいようですがプロヂューサーは事前に各楽器の技量や相性をもっとよく見ないといけませんね。今日のメンバーはいつも一緒にバンドを組んでいるメンバーではないと私は見ています。いわば何かの都合で編成した臨時のバンドのような・・・・。」

「どうしてですか?」

「それは・・・、普段から同じバンドで演奏しているにしてはちょっとチグハグだったしリズムがメロディーについてゆけないなんてこと普通はあり得ませんから。今日みたいに途中からピアノが独走して他の楽器に置いてけぼりを食わすなんて聞いたこともありませんよ。つまりあの三人はお互いをよく分かっていないからあんなことになると思うのです。普段から一緒に演奏して気心が知れていればあんなことには決してならない。ピアニストがこんな俄か作りの演奏をさせるプロヂューサーに当てつけに独走したのかも知れませんけどね、いやきっとそうですよ。つまりピアノと他の楽器のレベルが違いすぎた。航空母艦が護衛の巡洋艦の上をいき過ぎた。これはプロヂューサー、つまり作戦参謀の失敗ですよ。」

「・・・、そういうことならもしあのピアノと同じレベルの気心が知れた人たちのバンドならずっと良い演奏ができたかも知れませんね。立派に主力空母を補佐できる俊足の巡洋艦ならきっと大きな戦果を挙げることができたでしょうに・・・・。」

「そう、その通り。もしそうなら鬼に金棒でミッドウエイでも珊瑚海でも南太平洋でも米機動部隊を撃滅して海軍は太平洋を支配していた。そして少なくともミッドウエイ島とハワイ諸島は占領したでしょうしポートモレスビーも占領したでしょうから米豪遮断作戦は成功してオーストラリアもアメリカも孤立してしまう。そしてもうアメリカ艦隊が滅びてしまった西海岸に艦隊を遊弋させて牽制して東からドイツの脅威が迫ればアメリカは挟撃されて国民感情がもたなくなる。そうなれば勝利とはいかなくても有利な条件で講和のチャンスをつかめたかも知れないから歴史が変わったかもしれない。勿論たとえそうなってもいずれ日本もドイツもどこかの時点で滅び去ることになるでしょうけど。」

「一度は勝ってもどこかの時点で滅び去るところがミソですね。つまり決して世界を相手に戦争しても勝ち目はないということですね。どんなに上手くいっても引き分けがやっとでしょう。日露戦争はロシア側が革命という内部崩壊の種を孕んでいたから引き分けよりちょっとだけ勝利に近いところで納めることができましたけど。」

「そうそう、それに日露戦争の頃は明治維新を戦い抜いてきた侍が軍と政府のトップにいましたから自分の実力も世界情勢もよく理解していてどこで出てどこで引くかメリハリがついていましたね。何よりバランスが取れていた。そこが昭和の軍人や政治家と全く違うところですね。精神力だけでは何も解決しませんよ。」

二人は時の過ぎるのも忘れて旨い酒と鰻に舌鼓を打ちながらジャズ談議やら空母談議に花を咲かせた。


4


相変わらず順三は悪戦苦闘したが少し考えるとそもそも創作は虚構の産物なのだから何も現実に拘る必要はない。そもそも人間の平凡な日常にそれだけで小説になるものが転がっていること自体おかしいのだからそこは想像力を働かせ面白く脚色すればよい。そうすれば細々した日常生活の報告書のような退屈な私小説に陥るリスクも避けられようというものだ。小さな風船を大きく膨らませて楽しんでもらうのが創作の本質とすればそれを欺瞞と謗るのは当たらないのだからそれを躊躇う理由もない。それどころか些細な現実に虚構の血を流し込んで生き生きとした大きな身体に仕上げる作業こそ創作の神髄といえるかも知れない。だから現実をただ右から左に移し替えるだけの写実や身の回りの些細な出来事を忠実に綴るだけの私小説はいずれ見向きもされなくなる。なぜならそんなものに手間と時間をかけるなら外に出て自然を愛でたり自分の心を覗いてみれば事足りるからだ。それは創作でも何でもないただのゴミ集めだと思い始めた頃に順三の前に現れたマサは苦しむ順三を憐れんで神様が遣わした使者なのかも知れない。そう思うとマサともっと会っていたい衝動がムクムクと湧き上がってくる。たとえそれが汚れた核を美辞麗句で包んだ偽物でも正当な裏付けさえあれば許される悲願を達成するためのひとつの過程なのだ。

順三は最近ジャズ喫茶から送られてきたビッグバンドの演奏会の案内を懐にして例の鰻屋の暖簾をくぐった。平日の昼前ということもあって客はほとんどいなかった。順三が入口近くの席に腰を下ろすと例の仲居がすぐに出てきて愛想よく挨拶した。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」

それにしても自分がこの日のこの時刻にここへくるのは誰も知らないのだからお待ちしておりましたはないだろうと順三は妙に偏屈な顔で見る必要もない品書きをちょっと目にした。

「鰻重の並に肝吸いを。」

「畏まりました。お飲み物はいかがいたしましょうか?」

「そうですね・・・、それじゃビールの小瓶を。」

「畏まりました。」

仲居が復唱して下がりかけると他に客がいないのを見定めて順三は仲居を呼び止めた。

「ところでマサさん、いや槇原さんから何か連絡ごとがあったらあなたに託るようにいわれたのですが・・・、それでよろしいですか?」

仲居はいかにも腹を探るような目付きで順三を見た。

「はい、よろしゅうございますよ。槇原の奥様からもそのように承っておりますから。」

順三は自分から何か連絡があるのを見越してマサが仲居に頼んでおいたのだと解釈したが勿論それは何も順三に限らず一般のことをいっただけかも知れない。順三は早速懐から自分の住所と電話番号を書いた演奏会の案内状を取り出して仲居に渡した。

「こういう演奏会があるのでもしよかったらいかがですかと伝えてほしいのですが。それでこの住所か電話番号に都合を連絡するように伝えて下さい。」

「分かりました。二、三日中にはいらっしゃると思いますのでその時お伝えいたします。」

余計な仕事をと仲居が気を悪くするのではないかと心配したが存外に機嫌よく引き受けてくれたので順三も気分がよかった。もっとも気を悪くするような仲居ならマサも頼まないだろうが。

「それはありがとう。よろしくお願いいたします。ところで、マサさん、いや槇原さんはよくここへいらっしゃるのですか?」

仲居は口に手を当ててクスッと笑った。

「はい。一週間に一度ぐらいお見えになります。もともとお身体がそんなに丈夫じゃないので滋養付けに鰻を食べ始めたと仰っておられましたけど。だからいつもご注文が同じなので覚えてしまいました。」

「それでこの前いつものやつといっただけで通じたのですね。それでやっとわかった。私はまた余程の常連かなと思ったけど・・・・。それにお酒も結構いけるほうですね。」

「えぇっ、そうですか。お酒を召し上がっているのを見るのはこの前初めてでしたからよく分かりませんけど・・・。それは旦那様の方がよくご存知じゃないですか・・・?」

仲居はまたクスッと笑ったが順三は悪い気持ちはしなかった。

「いやいや・・・。」

仲居は冷やかすように含み笑いを浮かべて奥へ消えていった。順三はもっとマサのことを聞きたかったがあまり根掘り葉掘り聞くのは却って変に思われるだろうし聞いてベラベラ喋るような仲居ならマサもお願いはしないだろう。その日から順三はまるで初めて恋文をしたためた年端もいかない少年のようにワクワクしながら時を過ごした。すると三日もしないうちに返事がきた。数えれば仲居に託したその日に渡したに違いない。


「前略。演奏会のご案内拝領いたしました。ありがとうございます。是非ご一緒させていただきたいと思います。開場の時刻に入口でお待ちしておりますのでよろしくお願いします。

草々

槇原マサ」


ただそれだけの簡単な返事である。余計なことはいわず素直に誘いを受けてくれたことが順三には嬉しかったがその先を思う少し複雑な気持ちにもなった。とにかくマサと再開して近付く機会を得たのだから今のところは目論見通りである。それから演奏会までの一週間は瞬く間に過ぎ去った。


「お待たせいたしました。」

その日順三は少し早めにきて地下鉄の出口に近いホールの入口で待っていると突然後ろから声を掛けられた。振り向くとそこに深い灰色の地に黒い波模様をあしらった着物に臙脂の帯といういでたちのマサが立っていた。マサの顔を見るのは前回のジャズ喫茶以来ほとんどひと月ぶりである。順三は暫く黙ってマサの姿を見ていたかったが無理に笑顔を作った。

「あぁ、これは、よくいらっしゃいました。場所はすぐに分かりましたか?」

「お誘いいただいてありがとうございます。えぇ、案内通りに来ましたらすぐに分かりました。」

「いいお召し物ですね。」

「どうもありがとうございます。」

着ているものから先に褒めるのは女に失礼だとどこかの雑誌で読んだ憶えがあるが目の前の艶やかさはそんなことを忘れさせた。そして例の色白の瓜実顔に細い二重と薄い唇がそんな艶やかさと溶け合って会う度に花開くように魅力が増してゆくと順三は感じた。開演までまだ少し時間があったので二人はロビーでソファーに腰を下ろした。

「急にお知らせして驚かれたのじゃありませんか?」

「いえいえ、とんでもありません。忘れずにご連絡いただいて嬉しかったですわ。」

「こういう演奏会は初めてですか?」

「えぇ、私、不器用でどこでどうしたらこういう所へこられるのか分からなくて・・・。この前のジャズ喫茶も初めてだったし今回のビッグバンドもライブで聴くのは初めてで本当にワクワクしています。」

「それはよかった。ビッグバンドはよくお聴きになるのですか?」

「えぇ、大好きです。少人数のバンドもいいのですけど様々な楽器がひとつの音に収束するビッグバンドも迫力があって大変いいですよね。楽器それぞれの音もそうですけど全体が一糸乱れぬ迫力でひとつの音に纏まるのは素晴らしくて思わず酔ってしまいそうになりますわ。そしてところどころで急に各楽器のソロが混じってそれまでの大河から急に蝶が飛ぶ小川に変化するみたいでまた大変面白いです。」

マサはなかなかの通だなと順三は思った。確かにビックバンドは各楽器の音がひとつに溶け合った大鍋の中から時折それぞれの楽器が顔を出すので一体になった壮大な響きとそれぞれの楽器単独の音の両方を楽しめるしリズムセクションにいろいろな楽器が揃っているのでバリエーション豊富で面白い。だから上手なビッグバンドの演奏を聴くと壮大な合奏とそれぞれの楽器の独立した美しい音色が豊かなリズムを背景にして聴けるので上質の温泉に浸かったように余韻がいつまでも醒めないで残っている。しかもビッグバンドが演奏するような大規模な音楽ホールは音響効果を十分に配慮して設計されているのでその音の響きも素晴らしい。だから順三にとって艶やかなマサを隣にして本格的な音楽ホールで好きなビッグバンドの演奏を楽しむのはこれ以上望みようもないほど素晴らしいことなのである。しかも入場が少し早かったので最も音響効果のよい席を取ることができた。

「ちょっと早めにきたのでいい席が取れましたね。」

順三がいうとマサはすぐに答えた。

「えぇ、本当に。ここは音響が焦点を結ぶあたりですから一番密度あるいい音を聴けますよね。」

確かに音楽ホールは中心辺りに音の焦点がくるように設計されているので今座っているこの辺りが中身の詰まった最も密度の高い音を聴ける場所になる。今自分の隣に座っているこの一見西洋音楽とは縁遠そうな和装の女はその外貌に似ずジャズの楽器や演奏や更には音楽ホールの特徴までよく知っていると少し赤味がかった薄闇に浮かぶマサの白い横顔を眺めながら感心していると急にマサが順三の方に向き直った。

「高梨さんはよくビッグバンドをお聴きになるのですか?」

「えぇ、あまり多くないですけど好きですしそれなりに聴きますよ。」

それを聞いて何を思ったのかマサは急に口に手を当ててクスッと笑った。ちょっと首を傾げて順三を見遣りながら漏れ出たその小さな笑いが場内の喧騒を貫いて順三の耳に達した時丁度ブザーがホール内に鳴り響いてこれから演奏を開始するとアナウンスがあった。

「ブザーの音すごいですね。まるで昔の映画館だ。」

「えぇ・・・、フフ・・・。」

マサは口に手を当てたまままだ順三を見ていた。厚い幕がゆっくり開くとスポットライトに照らし出された指揮者が無言のまま観客に深く一礼するとステージ全体がパッと明るくなって勢ぞろいしたフルバンドを照らし出した。そして指揮者が向き直ってタクトを高く振り上げて力強く下ろすと全楽器がひとつに纏まって猛々しい獣のような鋭い咆哮を放った。それは正に順三が期待していた通りの情景から期待していた通りの音が堰を切って溢れ出す瞬間であった。ひとつひとつの楽器が指揮者の心を読み取るように力強く鳴りだして次第に抑制したメロディーへそれからそれぞれの楽器のソロへと移ってゆく展開は指揮者とその意の通りに一糸乱れぬ正確な演奏を展開する演奏者の高い技量を思わせた。そして各楽器のソロが始まると他の楽器が一斉にリズムに回って巧みにそして豪華にソロを引き立てる変幻は実に素晴らしいというしかない。そしてソロが一巡すると再び力強い全体のハーモニーに戻ってスケールの大きなメロディーを奏でる。それは全体と各楽器が実によく調和したメリハリのある演奏である。そしてホール全体が盛り上がって高揚感が漲り興奮が頂点に達しようとした時順三はそっと横のマサを見た。マサは全感覚をステージに集中して次々に飛び出てくる音とその変化とそしてメロディーとリズムに魂を没入させていた。その少し赤く火照ったように見える横顔はステージの眩しい光と色彩に映えてこの世のものではないような神々しささえ感じた。そして強い余韻を残して後半に入ろうとする演出なのだろうか蓄積したエネルギーがまさに爆発しかけた瞬間前半のステージの幕が下りた。十五分ほどの休憩の間マサはずっと静かに目を閉じ自分の殻に閉じ籠って嵐のような演奏の余韻を味わっているようだった。順三も話しかけなかった。そして後半の幕が上がるや意表を突いて全楽器が一斉に火を吐くように絶叫して醒めかけた興奮を一気に盛り上げるとたまらずに聴衆の掛け声があちこちで上がった。そして急角度で登り詰めたと思えばまたゆったりとしたバラードに戻って燃え上がった心を冷ましそして少し冷めるとまた絶頂へ一気に持ち上げる幅の広い演奏は聴衆の心を強く揺さぶりそして魅了した。マサは時には着物の裾から覗く細い足先を震わせ、時には膝に置いたしなやかな指先でリズムを取り、そして時には肉付きの良い腰を細かく上下させて響き渡る音に魂を同調させていた。その外貌こそ確かに西洋音楽とは釣り合わないかも知れないがその中身は真に自由なそして何をも許容できる柔らかく豊かな精神に違いないと順三はその時思った。そうするうちに演奏もいよいよ終盤に差し掛かってピアノと金管楽器がゆったりとバラードを奏でて興奮の名残を冷ましながら最後の展開に移っていった。それは来た道をただ引き返すのではなくそれまでの演奏のひとつひとつを思い起こさせる帰り道であった。その時順三は激しく震えた心の名残を残して光るマサの目を見た。そして指揮者が最後のタクトを一気に振り下ろした瞬間全楽器が断末魔の咆哮を発してステージの照明が一斉に消え全てが闇に消えて幕が静かに下りた。そして照明が戻ると鳴り止まない拍手がいつまでもホールを埋めていた。演奏中全く喋らなかったマサが少し潤んだ目を順三に向けて口を開いた。

「もぅ、最高でした!本当に素晴らしい!」

最初に口をついて出た「もぅ」の強い響きがいかに心が激しく揺り動かされたかを生々しく物語っていた。

「えぇ、本当に最高だったですね。このバンドは上手いしアレンジも最高だ。」

「高梨さんはこのバンド初めてなのですか。」

「えぇ、初めてです。でも聴いたことのないバンドでもこんなに素晴らしい演奏ができるのだから世の中には我々が知らないだけできっと凄い演奏者がゴロゴロしているのでしょうね。」

「そうですね。音楽でもスポーツでも芸能でも凄い才能が眠っていても理解されないとか見逃されるとか機会を得ないまま消え去ってゆくものが沢山あるのかも知れませんね。そんな中で頭角を現してプロとして生きてゆくのは本当に幸運でもあるし大変でもありますよね。有名になって大金を稼いでマスコミを賑わせるのはほんの一握りのトップだけなのでしょうからほとんどの人達は底辺で食うや食わずの生活を送った末に泡のように消えてゆく厳しい世界なのでしょう。」

「そうですね・・・・・。」

確かにそうだと順三は思った。テレビや映画に出て大金を稼ぐ俳優やスポーツ選手は大きなピラミッドの頂点のほんの一握りにも満たない幸運な成功者でその下の陽の当たらない暗闇には夢破れた夥しい数の亡骸が累々と横たわって成功者の肥料になってゆく姿を順三は過去何度も想像した。朽ちてゆくものには溢れる才能に恵まれながらも日の当たる舞台に駆け昇る機会もなく無念の涙を呑んでこと切れてしまった不運の魂のなんと多いことか。成功者はそんな亡骸が残したエネルギーを糧にして頂に登り詰めることができたのである。順三はこの世知辛い世の中を自分の身体と才能だけで生き抜くことの難しさをよく知っている。そんな事例は会社員の頃出会った多くのフリーランサーや自営業の人達や志に目を輝かせた若者の間に幾つも転がっていていた。それは自分など及びもつかない才能を秘めながらも運や健康に恵まれず蕾を固く閉じたまま深淵の闇に消えていった人たちの群れだ。もしその人たちが組織の手厚い庇護を受けて後顧の憂いなく力を発揮できればきっと大輪の花を咲かせたであろうと惜しまれる。それに比べて世のサラリーマンはその才覚にほとんど関係なく毎月決まった給与と年二回の賞与をもらえて大きな失敗なく身の丈に合った生活さえ送っていれば生活に困ることはまずないししかも老後は国や会社からの手厚い保護が約束されている。そう思うと順三は自分がいかに恵まれた境遇を生きてきた幸せ者か今更ながら分かる気がした。良し悪しは別にしてこの世界は少数の非凡と才能を殺して大多数の平凡と無能を養うようにできている。非凡であろうと平凡であろうと所詮人などその短い一生を必死に生きて学ぶのはただの愚かさだけなのに更にそこからしなくてもよい背伸びをして目にする歯の浮くような綺麗ごとやお世辞やずる賢い偽善の山はこんな腐った世界ならいっそ地獄の火に焼かれてしまえと思わせる。順三とマサがホールを出たのは夕方の五時前でまだ日もあったので暫く喫茶店で休もうということになった。ホールの隣に丁度いい喫茶店があったので二人はそこに入った。夕方の中途半端な時刻だったせいか人通りが多い割に喫茶店は空いていて客はほとんどいなかった。少し照明を落とした奥の席に腰を下ろすとマサがまだ興奮冷めやらない様子で口を開いた。

「当たり前かもしれませんけどやはりしっかりしたホールでライブ演奏を聴くのと家でCDを聴くのとは全然違いますね。もう音楽を聴くというより音楽の海に浸ってバンドと一緒に旅をするといった方がいいのかも知れません。臨場感といい音の響きといい場内の高揚といい本当に素晴らしいのひとことです。私、こんな経験初めてです。この前のジャズ喫茶といい今日のビッグバンドといい本当によかったです。」

普段あまり感情を表に現わさないマサが気持ちを爆発させて一気に喋った。胸に蘇る感動をそのまま憚らずに一気に喋るマサを見るのはこれが初めてである。それはまるで神の降臨を得た巫女のようであった。

「なるほど、音楽の海を泳ぐというのはいいですね。マサさんは表現が上手い。」

「まぁ、でも今日初めて連れてきて頂いて本当にこんな世界があるのだって目から鱗が落ちる思いでした。ありがたいことです。」

「それはよかった。世の中にはまだまだ知らないことが多いでしょうからね。そんなに喜んでもらえて本当によかったです。」

これはマサの気を引きたくていったお世辞でも何でもなくごく自然に口をついてでた順三の素朴な本音である。確かにマサと話しているとところどころに大きな可能性を秘めたダイヤモンドのような輝きを見ることがある。それはきっと心が大きく動いた弾みで普段自由な精神を覆っている覆いが外れてところどころ顔を覗かせているのであろう。そして全ての覆いを取り外した時一体どんな全貌が現れるのだろうかと順三はまるで神の奇跡を思い描く天使のように想像を逞しくした。それから順三は着物の裾を揃えて今自分の目の前で品よく腰を下ろすマサが家でひとりジャズを聴く姿を想像した。気軽な洋服姿で聴くのだろうかそれとも着物の着流しで聴くのだろうか、いずれにしても小さな部屋で両膝を揃え目を閉じてジッと聴き入るマサを柔らかいピアノの旋律が包み込む光景を想うだけで順三は胸が躍った。

「マサさんはどちらのジャンルのジャズがお好きなのですか?例えば五十年代のバップとかその辺りのクールとか・・・・。」

「私、あまりその辺り詳しくないのですがどちらかというと五十年代のブルーノートが好きです。いろいろ聴いてやはり一番ジャズらしいジャズじゃないかなと思っています。」

「じゃ、正当な本格派ですね。」

「えぇ?そんな、とんでもないですよ。ほんの聴きかじりです。昔友人にまずはその辺りを聴いてみればと勧められて聴き始めたのがきっかけで好きになったのですがそのうちに周辺のいろいろなジャンルも聴きだして結局何もかもごちゃ混ぜになったのですけど何が一番好きかと尋ねられればやはり初めて齧った五十年代のブルーノートですね。」

「それじゃ、やはり本格派だ。」

「ハハハ、そういわれても詳しいことは何も知らないただのファンですよ。でも叩く時には思いっきり叩いて物思いに沈むときには思いっきり物思いに沈んでそんな潔いといいますか素直で思い切りがよくて欲張らすに演奏者のその時の一番強い気持ちが飾らずに表現されているようでとても素敵です。」

いい現わす言葉は違ってもマサの言葉はやはり初期ブルーノートをこよなく愛する順三の胸に水が上流から下流に流れるように自然に入ってきた。あのように端的に表現できるのはマサに明晰な感受性が宿りそして余計なものを介さずに素直な心で自分を見られるからだと思った。

「それじゃ現代のちょっと前衛的なのは・・・・。」

「あまり好きではありません。」

順三が予想した通りの答えが返ってきた。

「なるほど、それではいかにもジャズっぽいものが好きなのだと。」

「そうです、その通りです。ジャズの元祖みたいなのが好きです。」

「だから本格派だと申し上げている・・・。」

「ハハハ、ところで高梨さんはどうしてジャズを聴くようになったのですか?」

「あぁ、私も学生時代に友人に教わった口です。若い頃は誰でも反抗期とでもいいましょうか既成の制度や概念に反発するところがありますよね。その友人はまさにそれで大学にも社会や政治の仕組みにもあらゆるものに反旗を翻して学生運動にも積極的に参加していました。しかし私はそんなことはないので二人の性格は全く違っていましたけどなぜかしら気が合ってアルバイトのお金を握りしめてよく一緒に場末のジャズ喫茶へ通い詰めていろいろと議論したものです。ジャズには何というか停滞した現状を打破して新しいものを創り出そうとするエネルギーみたいなものが底に溜まっていますね、というより抑圧された黒人が生み出したジャズという音楽はそんな精神が核を成しているのかも知れない。いわば血統みたいなものですね。そこのところでお互いの心の波長が共振したのでしょうね、きっと。それから現在まで四十年以上聴いていますよ。」

「へぇ、それじゃフォークソングとか反戦歌が流行ったあの時代ですね。」

「そうです。あの時代です。ということはマサさんもその時代ですか?」

「そうです、私もあの時代です。」

「それじゃ反戦歌を歌いながら大通りをデモした口なのですね。」

「それは、・・・・・・。」

マサはその質問には答えなかった。順三の学生時代は大学紛争が先鋭化して学生が大学を飛び出し公園や広場で集会を開いたり大通りをデモ行進して交通を停滞させた時代で順三もまた特にこれといった政治信条に裏付けられるでもなく他の大多数の学生と同じようにただそんな風潮に流されて何となく参加した口である。だからデモで大学教育改革だの政治体制変革だの叫ぶ割にはいわゆる保守反動の総本山たる日本政府から奨学金をちゃんと支給され、講義があればちゃんと受講し、試験があればちゃんと受験し、レポートを要求されればちゃんと提出して何の落ち度もなく大学を卒業してスーツにネクタイ姿で何食わぬ顔で大企業の就職試験を受けて就職した口であった。それは今思えばただひと時の流行り病にかかったというか走り出そうとしているバスに乗り遅れまいと飛び乗ったというか所詮はその程度のものであった。そしてそれから四十数年間多少の波はあったにしても平々凡々としたサラリーマン生活を送って今ここにこうしているというのが順三の人生の総括である。それがどんなに平凡でありふれたものか普通六十年以上も生きていればひとつやふたつダイヤモンドのようにひときわ輝く出来事や逆に記憶から消し去りたいことや触れたくないことがあろうというものだが順三にはどこを探してもそんなものは見当たらずあるのはただ延々と続く取るに足らない些事の山だけである。外から見れば大きな不幸に映るかも知れない離婚や家族の離散も所詮は些細な仕事の失敗ぐらいにしか残っていないのは順三がその程度の精神の持ち主だからだろうか。いずれにしても過去を振り返るとそんな光景ばかりが目に映る。だから自分を含めて何も信用する気になれないのである。そんな歪んだ心にマサがまともな温かい血を通わせてくれるのかどうかはまだ分からない。マサは今自分の目の前で真っすぐにこちらを見て何かを考えながら沈黙している。順三はそのマサの心をこちらに向けさせるには自分はあまりにも非力で無能な男だということを知っている。マサが口を開いた。

「・・・・、ここのコーヒー美味しいですね。」

それは空を覆った低い雲の切れ目から太陽の女神が笑顔を覗かせたように清々しい瞬間であった。

「・・・・、マサさんは薄めが好きなのですね。」

「はい、どちらかというと少し水っぽいぐらいが好きです。これを味わえって存在を主張するようなのはどうも苦手で・・・・。」

「そうですか・・・・。それじゃ料理も。」

「ええ、どちらかというと関西風の薄味が好きです。脂っこい鰻のようなものはあまり好きではないのですが・・・・。」

「えぇ、何をいっているのですか、よく鰻屋さんにいくって仰っていたじゃないですか。」

「あれは薬ですから好きも嫌いもありません。」

「薬・・・・?」

「えぇ、この前も申し上げたかも知れないのですがこれといって特に悪いところもないのですけど生まれつきの虚弱体質で小さい頃からよく風邪を引いて熱を出したりお腹を壊したりしてその度にお医者さんにきてもらったり夜中に薬局を起こして薬を都合してもらったりで随分親を慌てさせました。それでお医者さんにも栄養価の高いものを食べて滋養を付けなさいっていわれて親の勧めで鰻を食べ始めたのです。だからあれは薬みたいなものです。最初の頃はあの蛇のようなにょろにょろした姿を思うとなかなか箸が進まなかったのですけどそのうちどうにか食べられるようになりました。それが今では・・・・。」

「そうだったのですか。それで効用はありましたか?」

「そうですね、よく分かりませんけど風邪を引きにくくなったことは確かですし何となく身体も強くなった気がします。最初の頃は鰻を食べると却ってお腹を壊したのですがいつのまにかそれもなくなって。ただそう思い込んでいるだけかも知れませんけど。」

「鰻は強い魚で身体中にいろいろな栄養素を蓄えていますから滋養強壮には大変よいと昔からいいますね。私の父親も好きでよく食べに連れて行ってもらったものですが最近すっかり値上がりしてなかなか手が出なくなってきましたけど。特に国産物は・・・。」

「そうですね。でも最初は薬と思って目を瞑って無理に食べていたのですけどそのうちに美味しいと思うようになって今では大好物ですからね。もっともあの姿だけはどうしても好きになれませんけど。」

「あの蛇のようににょろにょろした長い姿ですね。」

「そうです。それにあの馬のような長い顔で自分を食べにきた相手を睨みつける目付きと恨めしそうな表情が・・・・。」

「へぇ~、鰻の目付きと表情・・・、ですか。」

「そうです。水槽からいつもじっとこちらを睨みつけて罵声を浴びせかけるような目付きは今でも気になります。だから店に入る時はできるだけ顔を合わさないようにしています。」

「へぇ、鰻もいろいろあるものですね。」

「この前ご一緒した鰻屋さんに水槽があるのを御存じですか?」

「ええ、入口を入ってすぐ右手のところにありますね。」

「最初の頃あの店に入るといつもあそこにいる鰻が一斉にこちらを睨んでまた俺たちを殺して食いにきやがったのかって長い身体をくねらせて罵声を浴びせかけてくるようで目を合わせないように伏せていました。今ではもう鰻の方が諦めたのか私が鈍感になったのか歓迎してくれているようですけど以前は店の前まできて恐ろしくなって入れないこともありました。でも他に店はありませんし身体のためですから勇気を出して入ったのですけど今ではもうすっかりあの鰻とも仲良くなって・・・・。」

「ハハハ、そうだったのですか。まさに習うより慣れろですね。」

「そうです。嫌なことを都合のよいように慣らしてゆくのは人間の得意技ですからね。」

「ハハハ、そうですね。それで、鰻を食べるようになって一緒にお酒も召し上がるようになったのですか?あそこの鰻と店が会津の酒蔵と一緒に仕込んだという特別仕込みのお酒は本当によく合いますね。」

するとマサは口を押えてクスクスと笑いだした。順三は何か場違いなことでもいったのだろうかと思った。

「いえいえ、そうじゃありません。私、身体が弱くて好き嫌いもひどかったのですけどお酒だけは昔から大好きでした。初めて口にしたのは小学生か中学生の頃だったと思います。」

「小学生か中学生の頃、・・・・?」

「はい、ひとりで留守番していた時に父親が毎晩チビリチビリやっていたお酒を興味本位で初めて口にしたのですけどまだ年端もいかないくせにそれが美味しくて口に中に広がったあの芳醇な味わいとその後にくる酔いが楽しくて、嫌なことなんか全部忘れて世界が虹色に見えてくるあの感覚が忘れられなくて・・・。それで父のいないときにこっそり飲んでいるとお酒の減り方が早いので父親が不審に思って聞いてきた時には本当にビクつきましたけど実は母親も父親の目を盗んでチビリチビリやっていたようで・・・・、結局父親の酒なのに父親が飲む量が一番少なくていくらも飲まないうちに妻と娘に飲まれてしまうという悲惨な顛末だったのですけど結局酒が好きで強い母親が疲れた時に少し頂いていますと言い訳して父親もそうかということで私のことは露見しなかったのですけど。私はどうもそんな母親の血を引いているようで・・・。」

「ハハハ、それはそれは、・・・・。」

「今でも美味しい日本酒を買い込んで焼いたスルメを肴にチビリチビリやりたいほうなのですけど・・・・。」

順三はマサが酒好きで滅法強そうだと以前から思っていたがそのきたるべきところを今日初めて知った。マサが着流しで物思いに耽りながらスルメの足を肴に酒をひとりチビリチビリやる姿は想像するだけで楽しかった。

「いやぁ、そうなのですか、マサさんは酒が好きなのだ。私も酒が好きですけどひとりでチビリチビリやると寂しい酔いになりませんか?」

「いいえ、私はひとりでゆっくり飲むのが好きです。酔っ払って仕事や生活の憂さを晴らすだけならただの気違い水ですから。お酒とお友達になれるような飲み方がいいですよね。けどやはりたまには友人とお話ししたり、映画を見たり、音楽を聴いたり、美しい景色を眺めながら飲むお酒もいいですね。何というかお酒で感性が高まっているところにそんな心を揺さぶるものがあると二倍にも三倍にも強く感じることができますし。」

「そうですね。今日の演奏もお酒を飲みながらならもっと強く迫ってきて楽しめたかも知れませんね。」

「そうですね。いつかまた気に入ったお酒を飲みながらジャズを聴けたらいいですね・・・。」

順三はそれまで演奏会で酒を飲むことは殆どなかった。理由は簡単で学生時代に金がなくて切符を買えば酒を買う金が残らずにいつも素面で聴いていた習慣がいまだに残っているだけのことである。それを酒でぼやけた頭で音楽を聴くのは芸術家たる音楽家に失礼だとか何とかしたり顔で講釈してもそれなら映画も芝居も歌もみな素面で裃を付けて鑑賞しなければならないのですかと問われればそこは芸術と娯楽を混同してはいけないとか何とか苦し紛れに誤魔化すが本当は飲みたかったけどただお金がなかっただけのことでいくら屁理屈をこねたところで所詮意味のないところに意味はない。

「それではこの前のジャズ喫茶はお酒が殆どありませんでしたけどこの次お酒を飲めるところに行ってみませんか?ゴージャスな雰囲気でいろいろなお酒を楽しみながら演奏をゆっくり聴けますよ。」

「えぇ、是非・・・・。」

「マサさんは日本酒がお好みなのですね。勿論そのジャズ喫茶にも置いてありますが・・・。」

「いえいえ、そんなことはございませんよ。着物を着るのでよくそう思われるのですけどそんなことは全くなくて日本酒でもウイスキーでもワインでも何でも飲みます。雑食といいますか雑飲といいますか、それこそお酒なら何でも好きで滅法強かった母親から引き継いだ資質ですね。その反面父親はあまり飲めずに取っておいたお酒を母や私に飲まれてしまう方でした。お酒に関して両親は全く逆でした。」

「本当ですね。女の酒は零か百といいますからね。」

「零か百・・・・?」

「女は全然飲めないか底なしかのどちらかで中間がないということです。」

「へぇ、そうなのですか。」

マサは驚いたように順三を見た。

「マサさんのお母さんはきっと底なしの方だったのでしょうね。そしてマサさんも飲んでも赤くもならないし表情も言葉も変わらないし・・・、多分そちらの方ではないかと・・・。しっかりお母さんの資質を引き継がれましたね。」

「へぇ、そう見えますか。それなりに酔ってはいると思うのですけど自分の姿はなかなか分からなくて。確かにお酒を飲むとあるところまでは神経が緩んで気持ちよくなるのですけどそれ以上飲んでも何も変わらないのです。だからそれ以上は勿体ないだけなのでその辺りでやめることにしています。そのままずっといったら一体どこにいきつくやら見当もつきません。」

マサはポッと頬を赤らめた。

「それじゃ今までその先へいったことはないのですか?」

「ありません、いや、ないと思います。」

「それじゃ先は未踏の境地ですね。」

「そうですね・・・・。」

すると店内を流れるラジオが六時の時報を伝えた。二人はもう二時間近く夢中で話し込んでいたことになる。

「もうこんな時刻だ。そろそろ夕食にしませんか。」

「そうですね、そうしましょう。」

「どこにしましょうか。あの怖い鰻が睨みつける店でもいいですしその他でもいいですが。日本酒でも洋酒でもお酒がお好きなら料理の方もそれに合わせて好みがあるのじゃないですか?どういう料理がお好みですか?」

「そうですね、怖い鰻の店はこの前行きましたので今日は洋食にしませんか?イタリアかフランス辺りの。」

「洋食にワインですか、いいですね。それじゃ、そうしましょう。」

そういって順三とマサは一緒に腰を上げた。


5


洋食レストランといっても順三もマサもこの辺りは不案内で大通りをブラブラ歩きながら適当な店を探したがいくら歩いても目に付くのは居酒屋や立ち飲みの屋台ばかりで捜しているような店は見付からないうちにとうとう大通りの端まできてしまった。それから先の暗くて細い道にそんな店はありそうもない。二人は立ち止まってさてどうしたものかと思案していると急にマサが指を差した。

「あそこなんかどうでしょう。」

マサが指差す方を見ると大通りを折れた薄暗い脇道に場違いな光彩を放っている店が一軒見えた。その一見して派手ないでたちは順三の好みではなかったが他に見当たらないのでいくだけいってみようと近付いてみると派手なネオンの割にアメリカの田舎町風の素朴な建付けで昼間なら結構いけそうな店だなと順三は思った。とにかく入ってみようとドアを開けると内部は外貌の派手さと違ってヨーロッパ風の渋い家具調度を揃え淡い赤味がかった照明とうまく絡み合っていかにも素朴なヨーロッパの田舎風の雰囲気で纏められていて二人はすぐに気に入った。出てきた気さくなオーナーシェフの話ではもともとあったアメリカの田舎風の古い住宅にヨーロッパ調家具を組み合わせてレストランに改装したフランス料理の店なのだそうで目を引く派手なネオンは大通りから外れていて目立たないのでお客さんが気付いてもらうために敢えてそうしているだけで決して好みでそうしている訳ではないのだそうだ。アメリカ風の造りの店でフランス料理とは水と油を一緒にしたような組み合わせだがシェフはあまり気にする様子もなかった。まだ少し早かったので客は二人の他におらずシェフは二人を一番奥の見るからに時代ものの黒光りするテーブルに案内してくれた。アメリカ風の建物にヨーロッパ風の家具に和服の女とは一見カオスの世界だが不思議にうまく調和していてそんな悪い感じはなかった。するとどこからともなくもう決して若くは見えないウエイトレスが木製の表紙が付いた分厚いメニューを恭しく持ってきた。開いてみるとそれぞれの料理に簡単な紹介と写真がついていて洋食には門外漢の順三にも大体の内容は分かった。

「私は西洋料理がどうも不得手なのでマサさんと同じもので結構ですから一緒に注文してもらえませんか?」

順三がメニューを閉じてそういうとマサはチラッと上目遣いで順三を見た。

「分かりました。で、高梨さんは魚と肉どちらがお好みですか?」

「私は肉にします。」

「で、スープやお野菜は大丈夫ですね。」

「勿論、何でも大丈夫です。」

それでマサは心得たように慣れた口調でウエイトレスに注文した。

「マサさん、洋食にお詳しいのですね。」

「いえいえ、そんなことありませんよ。昔友人と数回食べたことがあるぐらいで詳しくも何もありません。」

「それじゃそのお友達が詳しかったのだ。」

「えぇ、彼女は旦那様のお勤めの都合でヨーロッパ生活が長かったですから結構よく知っていましたね。」

彼女という言葉に順三は何となく安堵した。と、同時にマサの身の上をもっと詳しく知りたい気持ちが泉のように沸き上がってきた。

「私は気軽にマサさん、マサさんと呼んでいますけど姓は槇原さん・・・・、でしたよね。」

「そうです。もっとも六年前は別の姓でしたけど。」

「別の姓・・・・・?」

「この前お話しいたしましたように一度結婚しましたけど上手くいかなくて六年ほど前に離婚して旧姓に戻しました。それで実家、といっても両親はもう他界して家だけ残っていたのですが、へ帰ってひとりで暮らすようになりました。幸い両親が家を私名義に書き換えて残しておいてくれたので帰るところがあったのですが・・・・。結婚前主人と付き合っていたことを両親には内緒にしていたのですが父が自分の会社の眼鏡にかなった社員と私を結婚させて会社を継がせようとしているのを知って初めて両親に前の夫のことを話すと大変驚いて随分揉めて叱られましたけど結局父親が折れてどうしても一緒になりたいというなら仕方ないが一人娘だから嫁にはやれない、養子にきてもらうのが条件だといわれましたけど先方も長男だったのでそうはいかなくて散々揉めた挙句にとうとう両親と喧嘩して家を飛び出してしまいました。それで前の夫と駆け落ち同然で一緒になったのですがそれ以来実家の両親とは全く疎遠になってしまってとうとう死に目にも会えずじまいでした。家を出る時自分ではどんな困難にあっても愛を貫くなんて少女じみた夢を描いていましたけど出ていった挙句にこのありさまですから今では両親に本当に申し訳なかったと思っています。それでも両親は生前に全ての財産、といっても家屋敷と少しばかりの株と現預金だけですが、を私名義に書き換えておいてくれたので今どうにか暮らしていけるのです。両親には本当に感謝しなければならないと思っています。」

「そうだったのですか・・・・、それはいろいろご苦労をなさったのですね。私だって同じようなものですよ。学生時代から付き合っていた前の妻と結婚したのは入社して四年目でした。まるで柿の実が熟して自然に落ちるように結婚したのですけど丁度バブル経済の絶頂期でいくら頑張って仕事をしてもはかどらないどころか逆にどんどん仕事が増えて本当に音を上げそうになりました。とても家族を考える余裕などなくて毎日朝早く子供たちが目を覚ます前に家を出て帰ってくるのは子供達が寝てしまった午前様でたまの休みには死んだように朝から晩まで眠りこけていました。これは私だけじゃなくて私と同年代のサラリーマンは皆同じだと思います。だから家族とろくに話す機会もないし子供たちの顔は寝顔しか見られないし授業参観にもいってやれないし休みの日に一緒に遊んだり遊園地にでも連れていってやることもできない。そんな生活を長く続けているとひとつ屋根の下に住んでいても家族がまるで他人のようになってしまいます。そんな中で私は海外へ単身赴任したのですが状況は日本にいた頃と何も変わらないどころか人数が減った分余計に忙しくなって単身赴任で離れていることもあって家族を考えることもなくなってしまいました。そんな生活に耐えかねたのか子供たちが独り立ちして暫くすると妻は一通の書置きを残して家を出てしまいました。妻から捺印済みの離婚届を受け取った時驚いてすぐに帰国したかったのですが仕事は待ってくれずに暫く帰れませんでした。二、三か月してようやく時間を作って一時帰国した時には家はもう空っぽで妻の書置きが一枚だけ残っていました。思うところあって家を出ます、長い間ありがとうございましたとだけ書いてありました。私は書置きを手にしたまま頭が真っ白になってその場に茫然と立ち尽くしました。しかし自分の周りを取り巻く大きな組織と時間の流れは一個人の事情など全く斟酌してくれません。次の日から私は出社して仕事を済ませて二日間いただけで帰任しなければなりませんでした。その間妻の実家へ電話をしたり一度は尋ねましたが妻はとうとう出てこずに門前払いを食わされてしまいました。それでも私にはそれまで通り必死で仕事を続ける以外の選択肢がなかったのです。傷心で帰任して仕事に追いまくられているうちに入社して結婚そして今日に至るまで自分の身の上に起こったことがだんだん夢のように遠ざかっていきました。そしてあの最愛と信じていた家族も時間の彼方に消えていってしまいました。まるで恐ろしい薬物中毒にでもかかったような思いでした。だから私が離婚して家庭が崩壊したなど会社の仲間は誰一人知りませんでした。私も誰にもいわなかったですから当然といえば当然ですけど・・・。別に知って欲しくもないし知ってもらったから別にどうこういうこともありませんし。それまでの時間がそれまで通りに流れてゆくだけですから。それからも同じような時間の中で同じように仕事をしてひとり同じように生活をして気がつけば定年になっていました。まるで脇目もふらずに芸をしているうちにいつしか年を取って身体が動かなくなってボロ切れみたいに放り出されてしまった猿回しの猿みたいですね。自分は一体何をしてきたのか。後に残ったのは家一軒と多少の退職金だけでそれ以外の過去は全部まるで泡みたいに消えてしまいました。そしてそれが今の私の出発点だったのです。」

順三はこれまで誰にも口にしなかった心の奥に深く沈殿した思いを一気に吐き出して心が少し軽くなったが同時に心に満ちる空虚を如何ともし難かった。しばらく続いた沈黙を破ったのは順三であった。

「・・・・、ところで突然話題を変えて恐縮ですが、槇原さん、いやマサさん、お生まれはいつですか?」

マサは上目使いに順三を見た。

「・・・・・、私、生まれは昭和二十七年の十月です。」

「え・・・、昭和二十七年・・・、それなら私と同い年ですね。私は四月生まれですから私の方が半年ほど年上ではありますが・・・。」

平静を装っていたが実は順三はマサが自分と同い年と聞いて大変驚いていた。というのも順三はこれまでのマサは自分より年下とばかり思い込んでいたからだ。その化粧っ気を感じさせない張りのある白い肌や和装を引き立たせるピンと伸びた背筋などとても自分と同い年の女には見えなかった。日本人の女性は欧米人のように歳を経るに従って急速に肌が衰えることがないので本当に年齢が分かりにくい。以前勤め先のもう半年もすれば五十に手が届こうかという女子社員がアメリカのお客さんに三十代かと問われて狂喜していたがそれは決してお世辞ではなく彼らにはそれが常識なのである。小柄で肌がきめ細かくて美しい日本の女性を見れば世界中どこの国でも若く見てしまうがそのアメリカ人は後で彼女の本当の年齢を聞いてびっくり仰天していた。マサも同様である。同じ日本人の順三にも若く見えるのだからそのアメリカ人なら猶更だろう。

「言動が幼稚だからかも知れませんけど、私、よく年下に見られます。まるで進歩がないようで・・・。」

「そんなことはないでしょうけど、正直いいますと私と同い年だと伺って少し驚きました。以前連合艦隊や前の戦争の話しをしましたから私とそんなに歳は離れていないとは思っていましたけど年下とばかり思っていました。気に障ったらごめんなさい。けど若く見られるのは決して幼いからではありませんから・・・・。」

「まぁ・・・・。」

マサは少し頬を赤らめた。しかしマサが自分と同い年だと知って順三には多少落胆もした。老人は若者を好むというが順三はそれまで自分より若いとばかり思っていたマサと話すだけで広がる香しいエネルギーを浴びて若返るような気分になっていたのだが・・・・、しかしどうあれそれでマサの存在が微動もすることはない。そして時を同じくしてこの世に生を受けた二人の運命の糸が様々な経路を辿りながら今こうしてここで交わったのだから大切にしたいと順三は思った。 

「マサさん、失礼ですけどお子さんは・・・・?」

「はい・・・、もぅ、・・・おりません。」

もぅ、という言葉が余韻を引いて胸に引っ掛かった。

「それじゃおひとりで毎日の暮しが大変でしょう。」

「いいえ、長い間主婦をしておりましたから買い物や掃除、洗濯のような毎日のことは問題ないのですけど・・・・・。」

「いくら薬代わりといっても毎日鰻ばかりという訳にもいきませんしねぇ。」

「・・・・・・。」

順三の悪気ない一言がマサの心に小さなささくれを起こした。

「・・・・、どうも、余計なことをいってしまって・・・。」

「・・・・、いえ。」

「・・・、立ち入ったことかもしれませんけど、おひとりで毎日どうお過ごしになっているのですか?」

「・・・・・別にこれということも。それこそ一週間に一度ぐらいショッピングセンターに買い物に出たついでに鰻を食べたり、いつぞやはその時に高梨さんとお会いしてのですけど、家で少しお酒を飲んでみたり、音楽を聴いてみたり。そしてたまには今日みたいにジャズを聴きに連れていって頂いたり・・・・。」

そういうマサはまた少女に戻ったような悪戯っぽい笑顔を覗かせて口元にかかる数本のほつれ毛を噛む仕草が愛らしかった。今度はマサが聞いた。

「ところで高梨さんはいかがなのですか?」

「あぁ、私ですか、私も別にこれといって人様に自慢できるようなことはないのですけれど、さっき申し上げた通り二年ほど前に会社を定年退職しまして今は全くのひとり暮らしのしがない年金生活者です。そこのところはマサさん、いや槇原さんと同じ身の上です。」

「槇原なんていわずにどうぞマサと呼んでください。それの方も肩が凝らなくていいですから・・・。」

そうこう話すうちに二人の間の壁がだんだん低くなってお互い話しやすくなってきた。と、同時にそれまで何となくとベールに包まれたマサの存在が急に近くなったような気が順三はした。

「それじゃマサさん、今度またお時間がある時にお酒を楽しみながら音楽を聴けるところにご一緒しましょう。」

「・・・えぇ、もし機会あれば、是非・・・・。」

「それで・・・・、仲居さんを介してでもよいのですけど念のためにマサさんの連絡先を教えてもらえませんか?住所とか電話番号とか・・・。」

順三は次に連絡を取る時は仲居を経由してではなく直接取りたいと思った。するとマサは手にした小さなバッグから紙片とペンを取り出してスラスラ走り書きをして順三に渡した。

「これ、私の住所です。電話はありません。はがきでもお手紙でも結構ですしこの前のように仲居さんにことづけていただいても結構ですし。」

「ありがとうございます。でも電話がないと不便じゃありませんか?」

「えぇ、あった方がいろいろ便利なのは分かるのですけど、私、なぜか突然電話が甲高く鳴りだすあの瞬間が恐ろしくて仕方ないのです。今まで電話であまりよい連絡を受けたことがなかったせいか、またたまに悪戯電話や無言電話がかかってきたからかも知れませんけど特に夜に電話が鳴ると誰か得体の知れない怖い人が電話の向こうでジッとこちらを窺っているようで恐ろしくて出られなくなりました。特に悪戯電話や無言電話があった時は電話を切っても誰かが近くでこちらを見ているようで不安でたまらなくなりました。それでとうとう電話を外してしまいました。その時はもう電話が鳴らないと思っただけで救われた気分になりました。」

「でも、それじゃお友達や親戚と話したり車を呼んだりするのに不便じゃありませんか?」

「いえ、話をする友人も親戚もいませんし年に一度や二度の連絡ならはがきや公衆電話で十分ですし、私は歩くのが好きですから町へ出るぐらいなら歩きますから車を呼ぶこともありませんしもし必要ならバスで出かけます。たとえ多少の不便があってもあの電話の恐怖から逃れられるのなら何でもありません。」

「・・・・あぁ、それと、あの鰻屋さんの仲居さんはお知り合いなのですか?」

「知り合いといえば知合いなのですけど。実家に帰って暫くしてあの店にいくようになってから話をするようになりました。この辺りではどこの商店が安いとか品数が揃っているとかクリーニング屋さんはどこがいいとかそんなことをいろいろ教えてもらっているうちに打ち解けるようになりました。それで今回も高梨さんにも必要な時は彼女にことづけるようにお願いしたのです。」

「そうだったのですか。」

「はい。」

その時ウエイトレスが小さなカートに料理を乗せて運んできた。まだ時間が早いせいか客がいないのでこれがこの店の今宵の最初の料理かも知れない。その時初めてマサが注文したのがミディアムレアのステーキであることを順三は知った。そしてそこには熱い情熱を思わせる深紅のワインが添えられていた。日本料理が好みの順三は料理屋に入るとまず駆けつけ一杯ではないが下拵え代わりに冷たいビールを一杯飲んでそれから好みのつまみをつつきながら腰を据えて気に入りの日本酒をしっかり飲んで最後に寿司があれば寿司で蕎麦があれば蕎麦で仕上げることが多かったのでワインを飲みながらのステーキを食べることはついぞなかった。別に洋食やワインが口に合わないという訳でもなかったがハイカラな洋食のことはよく分からないしワインのことはもっと分からない。特に肉とワインが出会うとこの肉はどこの部位で赤身がどうの脂身がどうのとかこの肉にはどこそこの何ワインが合うのとかややこしいことには全く興味がないので洋食レストランに入る時は、もっとも今まで女と一緒に入ったことはないのだが、いつも相手に全てお任せにしていた。別に畏まる必要もないので好きなように肉を食べワインを飲めばそれでよいのだが洋食に詳しそうなマサの前で失態を犯すのも嫌で今回はすべてマサにお任せである。あとは出てきた料理を旨い旨いと食べればそれでよい。

「それじゃまずは乾杯しましょうか。」

順三がグラスを取り上げるとマサも着物の袖に手を添えてグラスを掲げた。

「本日はご案内いただき本当にありがとうございました。初めてのビッグバンドのライブ演奏を心から楽しめました。嬉しかったです。」

マサがいうと順三が続いた。

「いえいえ、どういたしましてこちらこそお世話になりました。ご一緒できて本当に楽しかったです。これからも機会があれば是非。」

「ありがとうございます。」

「それでは乾杯。」

グラスを合わせると小鳥の囀りのような甲高い音がした。久しぶりに飲む赤ワインだがいかにも熟成が進んで酸味が少なく鼻に抜ける深いコクと口に広がる赤ワイン独特の血のような生暖かい風味が遠い過去へ誘うようであった。

「いけますね、このワイン、肉によく合いそうだ。カリフォルニアのワインですか?」

「いえ、フランスボルドーです。よく熟成してお肉によく合うと思います。ワインに詳しいお友達に昔教わりました。お口に合ってよかったですわ。」

「いや、美味しいですよ。こりゃ飲み過ぎてしまいそうだ。ワインで悪酔いすると後がきついですからね。あぁ、マサさんは酔わないから大丈夫だろうけど。」

「まぁ、そんなことありませんよ。酔っぱらいますよ。酔ってしまっても誰も教えてくれないのが怖いですけど。」

「ハハハ、確かに、そうかも知れない。教えたら最後どうなるか分からない。知らぬが仏というやつですね。」

「そうかも知れませんね。」

順三はまるで何かの祝賀会に参加してでもいるように気分がよかった。惹かれる女と一緒に好きな音楽を聴いてその余韻に浸りながら差し向かいで旨い料理と酒で酔いが回るままに好きな話をこころゆくまでするなんて経験は順三にはなかった。

「ところで、高梨さんはどういうお仕事をしていらっしゃったのですか?」

マサが仕事のことを聞くのはこれが初めてだ。

「私は工学部出身なのですが技術関係の仕事をしたのは入社してほんの二年ぐらいでその後は殆ど営業とか経営管理の仕事をしていました。」

「けいえいかんり・・、って・・・?」

「経営管理というのは事業の企画やら経理やら情報システムやらいわば会社の経営計画づくりとそのフォローアップをする社長のスタッフみたいな仕事ですよ。」

「へぇ、社長さんのスタッフって・・・、難しそうですね。」

珍しくマサが少し皮肉っぽくいった。

「いえいえ、全然そんなことはないですよ。どこの会社でも重点課題を設定して三年から五年程度の経営計画を立てますけどそれが計画通りに進んでいるかどうかチェックしなければなりませんからね。もし計画通りに進んでいなければどこに問題があってどう是正すべきか実働部門と協同で検討して計画と実績の乖離をなくすように計画を修正して目標達成を目指すような仕事です。そういうと格好よく聞こえるのですけど現実はいろいろな要素が絡み合って複雑で常に変化していますからなかなか思い通りに事は運びませんのでいつもアタフタしてひどい時には帳尻を合わせるために結果に合わせて計画を修正することだってありますよ。そんなことしたら一体何のための計画だということになりますけど嘘も方便で所詮人間のすることなんてその程度ですよ。分からないことや予測できないことが多すぎますから。会社の経営なんて家庭をやってゆくのとあまり変わらないということですよ。マサさんだって家計をやりくりするのにまずは家庭の収入で支出を賄うためにどうするかって考えますよね。支出の中でも家のローンや教育費みたいに毎月決まって出て行くお金と電気代や水道代やガス代みたいに使った分だけ出て行くお金の大小がどうなっているか調べますよね。そしてひとつひとつ削れるところを削ってどうにかして支出を収入の中に抑え込むよう工夫しますよね。会社の経営もそれと何も変わりません。ただ規模が大きかったり対象の期間が長かったり少し特殊な項目が入っているぐらいで基本は同じです。人間のすることですからそんなに違うはずもありません。」

「へぇ、そうなのですか。私はまた大きな会社の経営なんて難しい理論があって頭のいい人達がよってたかって素人には分からないようなことをしているとばかり思っていましたけど。でも家庭と同じというなら親近感がわきますね。」

またマサが皮肉交じりにいったように順三には聞こえた。

「勿論細かい点でいろいろややこしい理屈や手法はありますけれど私が思うに大きなシステムを駆使して導き出した結論と普通の人間が直感で導き出した結論が全然違うことなんてことないですよ。人間の直感で右だったらシステム解析の結果も右で大概の場合現実の結果もその通りになりましたね。直感で右だと思ったことがシステム解析で左だったことは私の経験ではないです。但しこれはあくまでも今我々が目にしている社会や経済での話で人間の想像を超えた素粒子の世界や宇宙空間では全く違うかもしれないし多分違うでしょう。人間は今自分たちが存在している社会や自然を基礎にものを見ますからそれが通用しない世界のことは全くわかりませんし生きてゆくのにそんなことを知る必要もありませんしね。別に素粒子や宇宙のことを知らなくても明日から生活に困ることはありませんから。要するに人が作り出した社会に限れば人が作ったものが人を超えることはないということですね。それは違うという人もいますけど人が作り上げたものの中で上手くやってゆけるかどうかはそれに携わる人で全て決まってしまうというのが私の経験則です。いくら十分な資金と最新鋭の設備技術を揃えてもそれを扱う人に能力がなければ必ず失敗しますし逆に資金や設備技術が少々足りなくてもそれなりの人が取り組めばうまくゆくことがあるのを私はこれまで何度となく見てきています。結局社会も経済も人の集まりである以上その運営はすべて人に依るということですよね。しかし人は元々不完全なものですから成功もあれば失敗もあれば悲劇もあれば喜劇もある。だから面白い。面白がってはいけませんけど神様は人間を本当に面白く造られましたよ。人間は自分達が長い歴史を通じて作り上げてきた社会や経済と毎日苦闘しているのですからね。丁度孫悟空がお釈迦様の手のひらで何も知らずに飛び回っているようにね。」

「・・・・・、私、会社の仕組みをよく知らないので分からないところもありますけど・・・。」

「マサさんは勤められた経験はないのですか?確かご結婚前に・・・・。」

順三は思わず口を滑らせてあらぬ方向に話がそれるのを恐れたがマサは気付いてか気付かずにか何ともない様子で続けた。

「ほんの一年にも満たない短い期間ですけど短大を卒業して一般の会社ではありませんけど都内の会計事務所に勤めました。会計事務所にしたのはできれば将来会計士の資格を取って自立したいという夢がありましたから・・・。会計事務所は普通の会社と違いますので普通の会社を見る基準にはなりませんし、それに何分期間が短かったものですから・・・・。」

「・・・会計士ですか・・・・。」

「もしその時会計士か何かの資格を取って生きる術を身に着けていたらひょっとしたら離婚することもなかったかも知れません。前の夫というのは生活力のない人でしたから私が働いて養っていたかも知れませんし。やはりこの世でひとり生きるには自分で生計を立てられる能力がないとだめだとその時よく分かりました。家を飛び出してまで一緒になったのですけどすぐに生活が成り立たなくなって、それに死にたいほど悲しいこともあって、すっかり現実に打ちのめされていっそ離婚してしまおうと思ってもひとりでは生活もできなくて我を通してまで飛び出した実家に頼ることもできなくて本当に途方に暮れてしまいました。しかし両親が相次いで他界する前にそっと多少なりとも財産を私名義に変更しておいてくれたのでどうにか決心がついた次第です。離婚して初めて誰もいない広い家でひとり生活を始めるのは怖くもあり寂しくもありましたけどその一方ですべての束縛から解放されて新鮮な空気を思いっきり吸って世界を自由に飛び回れる翼を得たように世界の見方が違ってきました。それは私にとって味わったことがないほどの深い感銘であり解放であり始めて見る光景でしたから些細な恐ろしさや寂しさや不便など何ともなくなってしまいました。私、それまでの三十年間の偽りの家庭生活で無駄に費やしてしまった時間が惜しくて悔しくて何度も誰にいうでもなく時間を返してくれって思いっきり叫びました。幸せって崇高な書物や遥かな彼方ではなくて日常の生活の足元にあるのだなとその時つくづく思いました。そしてそれまで見ていたのは決して手の届かない逃げ水のような幻だったのだとその時分かりました。もうこの歳になって後悔するには遅すぎますけど・・・・。」

その時順三はマサにこのような経験をさせた男のことを知りたいという強い衝動に駆られた。

「・・・・、前のご主人はサラリーマンだったのですか・・・・?」

マサは質問を予期していたように淀みなく答えた。

「短大時代に知り合った絵描きでした。絵が売れないので始めたのでしょうけど画商みたいな商売もしていましたが正直いって商才には恵まれていなかったです。しかし気前だけはよくて見栄っ張りのところもあってよく友人を家に連れてきては徹夜で騒いでいました。後に残るのはゴミの山と請求書と大赤字の家計簿と近所のクレームばかりで・・・・。そんな収入もないのに金遣いだけ荒いような生活が長続きするはずもありませんで忽ち生活に行き詰まってしまいました。調子がよくて口が巧みなだけで生活力は全く持ち合わせない人でしたけどまだ二十歳前後だった私は彼のいうことを全部真に受けて両親を棄てて家を出たのですがそんな生活に忽ち打ちのめされてしまいました。本当に悲しくて辛かったです。そうはいっても綱渡りのような危なっかしい生活ながらどうにか三十年も一緒に続けてこれたのですからそれなりにいいところもあったのかも知れませんけど・・・・。そんなある日突然・・・。」

「・・・、何があったのですか?」

「ある日突然、このままではだめだと天から衝撃が響いてきて強い力で私を引っ張ったのです。それまでも離婚が頭をよぎることが何度もあったのですけどその度に夫に上手くいいくるめられてそして自分ひとりでは生活できないことも分かっていましたしもう考えるのも止してしまったのですけどその時は、両親が亡くなる前に幾分かの財産を私名義に変更してあるとそっと教えてくれたからかも知れませんが、なぜか絶対にそうしなければならない、そうしないと一生後悔するとそれまでとは違う別の強い意志に導かれたようにその日のうちに荷物を纏めて家を出てしまいました。その日も家で昨晩から徹夜で友人と家で飲んでいた夫は何の前触れもなく急に私に別れを告げられて一体何が起きたのか理解できない様子でしたが構わずに家を出てそのままひとり家に戻りました。家の鍵はいつ帰ってもよいと母親から託されていましたから。とにかく私はそのまま家を出たのですが主人は引きとめようともしなかったしその後捜そうともしませんでした。でもそれでよかったと思います。皆綺麗さっぱり拭い去ってくれましたから。それ以来主人とは音信がありませんので今どうしているのか分かりませんけど・・・・。」

「・・・・・・。」

「あぁ、余計な話ばかり長々としてしまってすみません、失礼しました。」

マサは身の上話を泣きごとのように続けている自分に気付いて慌ててナイフとフォークを取り上げたがステーキはもう冷めかかっていた。マサがどう思おうと順三はそれが聞きたかったのだ。順三も何もいわず肉を口に運んだ。二人は暫く黙って肉と食べそしてワインを飲んだ。その時順三がフト店の隅を見ると壁の影から小さな瞳がこちらを見ているのに気が付いた。よく見ると陰に隠れたその瞳の持ち主は幼い女の子であった。順三が手招きするとその女の子はためらいながら恥ずかしそうに出てきた。見たところ歳は五、六歳ぐらいか目鼻立ちがはっきりとした色白の可愛い女の子で母親の手作りか桃色の小さなワンピースに自分の背丈の半分ほどもありそうな大きな熊のぬいぐるみを抱えていた。順三がまた手招きをするとマサも気付いて後ろを向くとこちらへいらっしゃいと一緒に手招きをした。他の客はいなかったしウエイトレスも厨房へ入ったままだったので女の子は大きなぬいぐるみを脇に抱えておずおずと二人の席へやってきた。初めは少しはにかんでいたが順三が肉を小さく切って口に入れてやるとニッコリと笑った。順三とマサはそれを見て顔を見合わせて微笑んだ。それはまるで古傷が疼く二人の心に舞い降りてきた天使のようだった。順三は近くに子供用の椅子がなかったので隣のテーブルから大きな椅子を持ってきて自分たちの横に据えて女の子を座らせようとすると女の子はぬいぐるみを見て困った顔をしたので順三が椅子をもう一つ持ってくるとぬいぐるみをそこに座らせて自分は隣の椅子にチョコンと座った。ぬいぐるみの丈と座った女の子の丈はほとんど同じだった。大きなぬいぐるみと並んで椅子に浅く腰掛ける幼い女の子の姿は順三にもマサにも過去の思いを彷彿とさせた。

「お肉美味しかったかい?」

順三が聞くと女の子は大きな目をパチクリさせて横のぬいぐるみを見てから大きく頷いた。順三はステーキを小さく切って備え付けの皿にのせてフォークと一緒に女の子の前に出した。すると女の子は器用にフォークを使って頬張っては二人をかわるがわる見て鼻の横に皺を寄せて笑った。そして最後の一切れを横のぬいぐるみに差し出して何か一言いうとそのまま自分の口へ入れた。そんな可愛い仕草に満面の笑みを浮かべる二人はどこから見ても可愛い孫を連れて食事にきている仲のよい老夫婦であった。順三がグラスを差し出すと女の子は美味しそうに水をゴクゴクと飲んだ。今度はマサが肉と野菜を小さく刻んで皿に乗せると女の子はお腹が空いていたのか喜んで平らげた。そしてまた最後の一切れをぬいぐるみに差し出して結局自分の口に入れるのを見て順三もマサもキャッキャと声を上げて笑った。その時順三はこの前声を上げて笑ったのは一体いつだっただろうかと考えたがいくら思い出そうとしても思い出せなかった。長い間悲しいことと腹立たしいことばかりで心の底から笑うことなど絶えてなかった順三は笑い方を忘れて顔の筋肉が不自然に引きつっているのではないかと疑った。マサはその横で菩薩のように優しく女の子を眺めていた。すると笑い声に気付いたのかウエイトレスが奥から出てきた。そしてこの様子に驚いて慌てて女の子に何やらいうと女の子はぬいぐるみを抱えて一目散に奥へ走っていってしまった。何も追い返すことはないのにと順三とマサはひとときの夢を壊されたように恨めしかった。

「本当に申し訳ありませんでした。ちょっと目を離した隙に。」

ウエイトレスは膝に両手を当てて深々と頭を下げた。

「いえいえ、とんでもない。可愛い女の子ですね。このお店のお子さんですか?」

順三が聞くとウエイトレスはきまりが悪そうに答えた。

「いえ、私の子供です。」

「あぁ、あなたのお子さんですか。それで歳は幾つですか?」

「五歳です。」

「そうですか、それじゃ可愛い盛りですね。それで名前は?」

「はい、幸恵といいます。」

「幸恵ちゃんか。いい名前だ。あのお洋服はお母さんの手作りですか?」

「はい、仕事が早く引けた時に少しずつ作りました。それより本当に申し訳ございませんでした。私が働いている間はいつも奥で大人しく遊んでいるのですが今日はどんな拍子か店に出てきてしまって・・・。出てはいけないといい含めているのですが・・・・。」

「そりゃひとりで寂しかったのでしょう。」

「いつも奥でお婆ちゃんと一緒に遊んでいるのですけど昨日からお婆ちゃんが風邪気味で寝込んでしまったものだから退屈して出てきたのかも知れません。とにかくお食事中邪魔をしてしまって食べ物までいただいて本当に・・・・。私がもっとちゃんと見なければならないのですけど本当に申し訳ございませんでした。」

その時横からマサが声をかけた。

「失礼ですけど、先ほどのオーナーさんの奥様ですか?」

「いぇ、私はただの雇われウエイトレスです。この店はオーナーシェフと二人の料理人と私の四人でやっています。風邪を引いて奥で寝ているのはオーナーシェフのお母さんで子供が好きでうちの子もよく遊んでもらっています。私が独り身の子持ちでなかなか働くところがなくて困っていたところをやっとここが見つかって子供の面倒は見てくれますし皆さん優しい方たちばかりで本当に救われた気持ちで神様も少しは哀れんで下さったのかと・・・・。あぁ、すみません余計なことを。」

「いえいえ、とんでもない。おひとりということは・・・・。」

「えぇ、主人とは事情あって別れて子供は私が引き取って育てることにしました。」

「それは大変でしょう。」

「えぇ、でも持って生まれた運命ですから仕方ありません。受け入れるしかありません・・・。」

二人の胸に運命という言葉が重く響いた。そしてもう一度部屋の隅に目を遣ると小さな瞳がまたこちらを向いていた。その時新しいお客さんが入ってきてウエイトレスは最後にひとこと詫びを入れて頭を下げると急いでそちらにいってしまった。順三は手早く肉を切り分けてその瞳に向かって手招きするとあの大きなぬいぐるみは奥へ置いてきたのか周りを窺いながら女の子がひとりで出てきた。マサも冷めてしまった肉を急いで切り分けて一緒に皿に入れた。そして順三が皿を差し出すと女の子は母親の目を気にしながら素早く受け取ってこっそりと奥へ引っ込んでいった。そして奥へ消える前に肉が盛られた皿を手にして二人の方に向き直って小さく頭を下げた。そして女の子はもう二度と現れなかった。それから二人は黙ってワインを口にして期せず出会った悲しい話を洗い流そうとした。あの孤独な女の子が順三の胸に隠れていた過去の影を再び露わにしたのかも知れない。なぜなら過去の自分を思い返してもその時の心情が分からないのはその時と今では測る物差しが違っているからだと思っていたがそれならあの女の子を見てこんなに心が動くのはなぜなのだろうか。もし現在の物差ししか持たないなら過去を思い返しても心が動く道理もないがもしその断片でも心の片隅に残っていれば何かの拍子に元の姿を現すことがあるかも知れない。人間が苦痛から逃れたくて過去をどんどん切り捨てて今目の前にある最小限の現実だけで生きてゆこうとするのは何度も地獄に落ちながらやっと生き永らえてきた過去にどんな形であれ真の安らぎなど見つけられないからだ。順三がそこに見るのは見放されそして棄てられた絶望の跡だけである。

「あぁ、今日はいい音楽と悲しい映画を見た気がしますね。」

順三がポツリといった。

「・・・・・、いい音楽と悲しい映画・・・?」

「だって、ここに入らなかったら悲しい映画を見ずに楽しい音楽だけで終われたかも知れないのに・・・・。」

「・・・・、楽しい音楽と悲しい映画とどちらが本当なのでしょうね。」

「どちらが・・・・?」

「・・・、二人で音楽を聴いた余韻に浸って楽しくする食事と二人の悲しい身の上と孤独な小さな女の子とどれが一体・・・・。」

「私は同じ質問を槇原さんにしたいですね。演奏を聴いて涙する槇原さんと幼い子供を見て涙する槇原さんと・・・・。」

それまでマサと親しみを込めて呼んでいた順三が急に改まって槇原と呼ぶとマサは少し悲しげな表情をした。

「それは、演奏は一緒に聴いたのですから同じ土俵でお話できますけど子供を見る二人の土俵は全然違いますから高梨さんの質問にお答えするならどちらも本当ということにしかならないです。高梨さんは自分自身の過去を女の子に投影して気持ちを動かされたでしょうし私も同じです。二人は全く違う道を歩んできて偶然今この時にここでこうしているのにすぎないのですから・・・・。」

「それじゃ槇原さんは今ここで私達がこうしているのは偶然だとお思いなのですか?」

「そうではないのですか?」

「・・・、実は、私は偶然など存在しないと思っているのです。」

「え・・・・?」

「この世の中には偶然なんか存在しない。存在するのはただ必然だけだと思っているのです。偶然に見えてもそう見えるだけで実は全てが必然だと私は思っています。過去どんな複雑な経緯であっても今現在そうであるならそれは必然です。」

「それじゃ私たちが今こうしているのも・・・・?」

「そうです、あの電車でお会いしたのも鰻屋さんで食事をしたのも音楽を聴きにご一緒したのもすべてそうなるべくしてそうなったと私は思っています。そして今日この店に入ったのもあの女の子に出会ったのも・・・・。」

「・・・・・・。」

「実は、私はあの子を見てもう十年以上も顔を見ていないわが子の幼いころを思い出していました。幼い二人の子供の手を妻と一緒に引いて動物園へ行ったことやら近くの海へ泳ぎに行ったことやら美味しそうにお菓子を食べる幼い二人の笑顔やら寝顔やらが一瞬のうちに通り過ぎていきました。槇原さんも同じだと思います。それは古いアルバムを見ているようなものですけど私達は皆境のない大きな海に浮かんで同じ運命を背負っているようなものです。」

「・・・・・、実は・・・・、私はあの子を見てこの世の空気を一口も吸わないうちに旅立ってしまったわが子を思い出しました。」

「えっ・・・・・?」

「・・・・、初産が死産でした。男の子でした。そしてそれが我が子を目にする最初で最後でした。私は冷たくなった我が子に自分で作った産着を着せ名前を付け夫と一緒に家に連れて帰りました。そして一晩だけ一緒に過ごしました。その時のわが子の冷たさとその夜の寂しさと悲しさ思い出していました。」

「・・・・・・。」

順三はマサの目が薄く光るのを初めて見た。順三は美しい殻に隠れていたマサの悲しい素顔を見る思いがした。

「それが夫との不仲の遠因だったのかも知れません。夫も私もそれを境にそれまでと変わってしまいました。」

「変わってしまった・・・・・?」

「そうです。それまで辛うじて繋がって細い糸が切れたように離婚までの時はまるで氷のような時でした。赤の他人だった二人が好いて好かれたと信じて一緒になった挙句に何十年も氷の時を過ごしただけでまた赤の他人に戻るなんて笑い話にもなりません。」

マサは自分が乗り超えてきた壁を始めて順三、いや初めて他人に現したのかも知れない。その壁は順三には思いもよらないものである。これで必然といえるのだろうか、運命を共にする存在といえるのだろうか?

「マサさん・・・。」

順三はまたマサと呼んだ。

「・・・・・。」

マサの少し潤んだ瞳はもはやあの神秘のベールに覆われたマサのものではなく全てをさらけ出した平凡な年配の女が醸す悲しい瞳であった。そして順三はそれでよいのだと思った。

「もう一杯やりませんか?」

順三は空になったワイングラスを手にした。

「はい。」

マサはきっぱりした口調でいった。注文するとさっきのウエイトレスが何事もなかったようにワインを満たしたグラスを二つ運んできた。マサは半分ほどを一気に飲んだ。

「そんなに急に飲んで、大丈夫ですか?」

「えぇ、何でもありません。何に気兼ねすることもありませんから・・・・。」

マサは表情を戻して静かにグラスをおいた。そして急に喋り始めた。

「こういうお店で働いている女性はいわゆるシングルマザーが多いのですよ。ちょっと親しくなって身の上を聞くとそんな女性がどんなに多いかわかります。あの鰻屋さんの仲居さんもそうですし。」

「えぇ、あの仲居さんもそうなのですか。」

「えぇ、あの仲居さんの境遇を聞いて一体人の運命ってどこで別れるのだろうって思いました。私がどこかで道を違えたとしたらあの仲居さんは一体どこでどう道を違えたのだろう、なぜ違えたのだろうって。それは偶然なのだろうかそれとも・・・・・、高梨さんのお考えではそれもすべて必然なのでしょうけど・・・・。」

「そうですね。生まれてから死ぬまであるのは必然だけだと私は思っていますしその前提ならすべてが明快になって苦しむことも悲しむことも怒ることも何もありません。全ては生まれてくるずっと前に手の届かないところで決まったことが今目の前で起こっているだけなのですから私たちは与り知らないことです。」

「・・・・私にも高梨さんのお気持ちが少しわかるような気がします。長い時間をかけて溜まったものがマグマのように少しずつ動き出してそれがどんな形になるのか分かりませんけどいずれ何らかの形で表面に噴き出してくるのもきっと必然なのでしょうね。」

「・・・・、たとえ表に噴出さなくてもそれもまた必然だと思えば悲しまず怒らず淡々と受け入れられるものです。」

「でも、それはただ単なる諦めや逃避ではないのですか?」

「いえ、それは違います。私は諦めるつもりも逃げるつもりもありません。ただ運命と従順に向き合って素直に受け入れようとしているだけですから。」

「もしそうなら生きていて何もありませんよね。仏様やキリスト様みたいに。」

「・・・私は何も仏様やキリスト様になろうとしているのではありません。今まで苦しみも悲しみも沢山ありましたから、いやそればかりでしたからきっとマサさんのいうほど単純ではないのでしょう。そして過去も含めて色々なことを冷静に見られるようになった今どうにかしてそれを表現したいと思っているのです。これまで外の波に踊らされてばかりいたのを死ぬまでに一度ぐらいは自分で波を立てたいと思っているのです。それこそ自分がこの世に生まれた唯一の意味だと思っているのです。」

「・・・・・・。」

順三はそれまで誰にもいわなかったことをマサの前で一気に喋った。そしてその間上目遣いに順三を見ながら時折口元に笑みを浮かべそして時折悲しみを漂わせて聞いているマサを美しいとも愛おしいともまた恐ろしいとも思った。


6


それ以降マサは昼も夜も順三の胸を離れなかった。散歩に出ても家で寛いでいてもフト気付くと深い藍色の地に鶴を小さくあしらった艶やかな着物姿や日本人形のような色白の瓜実顔に笑みを浮かべるマサの姿が浮かんできた。順三はマサとの出会いを小説にしようと心に決めていた。それは現実のマサでもなく幻のマサでもなく自分の心にあるマサの姿を素直に描きたかったがその思いが強くなればなるほどマサの姿が歪んできてそれでよいから描けという自分とそれではだめだという自分が心の中で鋭く葛藤をくり広げて前に進めなくなってしまう。そんなある日順三は散歩の途中で例の鰻屋に立ち寄った。するとすぐにいつもの仲居が出てきて愛想よく笑顔を振りまいた。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか?」

順三は焦燥する気持ちを抑えていった。

「えぇ、ありがとう。おかげさまでどうにかやっていますよ。ところでどうですかお店の方は?」

「えぇ、おかげさまでご贔屓いただいています。この前、一昨日だったかな、槇原の奥様もお越しいただいて・・・・・。」

順三の顔を見るなり仲居の口からマサの名が飛び出て順三の胸が高ぶった。それにしてもいきなりマサのことを口にするとはそんな関係と思い込んでいるのだろうか。

「槇原の奥様って・・・・・、マサさんだよね。」

「あら嫌だ、旦那様と何とかいう西洋音楽を聴きにいったって女学生みたいに喜んでおられましたよ。あんな嬉しそうな顔を見たことがありませんよ。」

「・・・・、そうですか。それはよかった。」

順三は騒ぐ胸の内が顔に出ないかと心配した。

「あの奥様は他人様のことをいわない方なのにあんなに楽しそうに話しておられるのにはちょっと驚きました。是非またご一緒したいっておっしゃっていましたよ。」

やはり仲居はそういう前提で話しているのだと順三は思った。勿論それならそれでよいが。そして仲居は含み笑いを浮かべて注文もろくに聞かずに奥へいってしまった。それにしてもあの何事にも冷静なマサが仲居にそんな話をするのはどうも解せないなと順三は思った。女というものは本当に美味しいものなら誰にも見られないように隅っこに隠れて猫のようにそっと食べるものだと順三は思っていた。もしそうなら自分はマサにとってこれといった特別な存在でも何でもなくただそこらのありふれた普通の男にすぎないことになるがもしマサがそんな概念に嵌らない女であればそういうこともあり得る。それともマサと仲居はお互いの秘密を共有する間柄なのかも知れないがもしそうなら相手に手の内をばらすような話を仲居がするはずはない。とにかくああでもないこうでもないと順三は少し蒼白になった顔を掌に載せて考えを巡らせた。この前ビッグバンドを聴いた帰りに立ち寄った喫茶店で次は都内で好きなお酒でも飲みながらジャズを楽しみましょうと誘ったらマサは笑みを浮かべて是非と答えた言葉が頭を去らない。これは自分が切り出した約束なのだから是非履行するがその前に順三にはやりたいことがひとつあった。それはマサを自分の家に呼んでオーディオシステムを聴いてもらうことだ。マサは小さなコンポしか持っていないといっていたので本格オーディオの音はまだ知らないはずだ。ジャズはよくできた音楽ホールやジャズ喫茶でライブを聴くのが本来の音と演奏を楽しむ最良の方法だと順三は思っているがよくできたオーディオにはまたそれとは一味違った味わいがあってそれを楽しむのもまたひとつの醍醐味であるとも思っている。またオーディオは機器によって味付けが異なるのでその違いを楽しむのもよいだろう。同じ曲でもライブ演奏とオーディオシステム、そしてまた同じシステムでも構成する機器によってこんなに違うのかというところをマサに実感してもらいたかった。もしマサが男のひとり暮らしを訪れるのを憚るようなら誰か同好の士を連れてくればよいと思った。誰を連れてくるかは差し障りのないようにマサが決めるだろう。とにかくマサの希望を聞きたかったので順三はその晩マサに手紙を書いた。するとそれから三日もしないうちに喜んで伺いたいと返事が返ってきた。そしてそこには一週間ほど先の日の都合伺いと一緒にゆく同好の士もいないのでできればひとりでゆきたいと付け加えてあった。勿論順三に異存ある筈もなくすぐに了承の旨はがきを出した。こうしてマサは初めて順三の家を訪れることになったのである。


7


その日マサは約束通り午前十時きっかりに順三の家の呼び鈴を押した。順三が玄関を開けるとあのマサが目の前に立っていた。マサは明るい橙色の着物に紺の帯といういかにも春の到来を慶ぶ装いに小さな包みを抱えていた。それまでのどちらかというと少し改まった装いが今回はゆったりと堅苦しくなかったので順三はより身近に感じることができた。

「お早うございます。ようこそいらっしゃいました。むさ苦しいところですがどうぞ上がってください。」

「お早うございます。お招きにあずかりましてどうもどうもありがとうございます。お邪魔致します。」

マサが器用に草履を揃えて玄関を上がると順三は居間へ案内した。

「場所は分かりましたか?」

「ええ、高梨さんに教えて頂いた通りに歩いたらほんの三十分ほどでつきました。」

それを聞いて順三は驚いた。タクシーを使うだろうと住所とタクシーで十分ぐらいと書いて送ったのだが包みを抱えた着物姿でここまで歩くのは大変だったに違いない。

「それはどうもお疲れさまでした。さぁ、どうぞこちらへ。」

「お邪魔します。」

居間に通されてマサは初めて見る本格オーディオに目を見張らせた。

「まぁ、すごい!これ、すごいですね。」

凄い凄いの連発である。

「まぁ、おかけください。」

順三はまるで少女のように目を丸くして驚くマサにソファーを勧めるとマサはその形のよい腰を沈めて取りつかれたように眺めた。

「お歩きになったのなら大変だったでしょう。」

順三に呼びかけられてマサはハッと我に戻った。

「いえ、私は歩くのが好きなものですから三十分や一時間ぐらい歩いても何ともありません。あの駅前の鰻屋さんへいくのもいつも一時間ほど歩いています。高梨さんと初めてお会いしたあの夜はもっと早く帰るつもりがつい遅くなってしまって暗い道を一人歩いて帰るのも怖いですからバスにしようとしたのですけど何分あまり乗らないものですから最終バスに置いていかれておまけに手持ちもなくて・・・・。」

「そういうことだったのですか。」

「はい・・・・、あぁ、それとこれつまらないものですけどよかったら。」

マサは抱えてきた風呂敷を解いて菓子折りを取り出した。

「これは、お気遣いいただいてありがとうございます。」

「それにしてもすごいですねこのステレオ。ちょっと見せていただいてもよろしいですか?」

「えぇ、どうぞ、ご遠慮なく。」

マサは下ろしたばかりの腰を上げてオーディオシステムに近付いてしげしげと眺めた。

「ゆっくり見ていらしてください。今コーヒーを入れてきますから。あ、コーヒーでよろしいですか?お茶もありますが。」

「えぇ、コーヒーをいただきます。あの・・・、よかったら私が入れましょうか・・・・?」

「いえいえ、大丈夫です。毎日入れていますから。」

「お手間を取らせます。」

行きつけの喫茶店で昨日買ったばかりの南米産のコーヒー豆を濾紙に敷いてパーコレーターにかけるとすぐに香ばしい香りを放ってポコポコと軽い音を立てながら深い褐色の液体がポットに滴り落ちてくる。パーコレーターが苦しそうな唸り声を上げてポットに三分の一ほどコーヒーを溜めると力が尽きたように沈黙すると順三はポットを外して二つのカップに入れ分けてマサが持ってきた菓子を添えて居間に持っていった。すると順三がコーヒーを入れている間ずっとそうしていたのだろうかマサはまるで仏壇でも拝むようにまだオーディオの前に正座して眺めていた。

「どうぞ。」

順三がテーブルにコーヒーをおくとマサは少女のように頬を紅潮させてソファーに戻った。

「ありがとうございます。それではいただきます。これ、とても大きくて複雑ですね。私、こんなに複雑なステレオやこんなに大きなスピーカーを始めて見ました。これは新しいものなのですか?」

マサはコーヒーを片手に巨大なスピーカーを興味深げにしげしげと眺めながら聞いた。

「いえいえこのスピーカーは五十年ぐらい前のアメリカ製で元々プロの録音スタジオで使われていたものです。その頃のアンプは真空管式で出力が小さかったですから低音を出すにはどうしてもスピーカーの共振部を大きく取らなければならなかったのでこんな大きなものになったのです。今のトランジスターアンプは小さなものでも駆動力が強いですからスピーカーをこんなに大きくしなくても充分に低音が出るのですが。ですからこのスピーカーに最新のトランジスターアンプはちょっと駆動力が勝ちすぎてバランスが崩れてしまって聴き疲れしますから当時と同じアメリカ製の真空管アンプを使っています。これでよかれあしかれ入っている音をごまかさずに全て繊細に再生します。このレコードのターンテーブルは日本製ですけど針はアメリカ原産です。原産というのはジャズにはこの針が一番よいと定評あるものなのですけどもうそのアメリカの会社自体がなくなってしまったものですから日本の会社が複製したものを使っていますけど本家本元より音がよいと評判です。CDプレーヤーは日本製が一番です。とにかく原曲が実際に演奏されたころの音を再現するにはこれが一番だと思っています。」

「へぇ~、奥が深いのですねぇ。」

マサは好奇心に満ちた目をクルクルさせて盛んに感心した。

「それでレコードやCDはどちらにあるのですか?」

そう聞かれると順三が立ち上がって居間の奥の扉を開けると書庫のような広いスペースにレコードとCDがぎっしり収められていた。CDは机の上に置いてあるぐらいに思っていたマサにとってそれは思いもかけない壮観であった。

「わぁ、すごい!」

マサは驚嘆して思わず声を上げた。

「一体どれぐらいあるのですか?」

「さぁ、詳しい数は私にも分かりません。一度目録を作りかけたのですけど途中で面倒になって止めてしまいました。だから分かりません。」

「ふぅ~ん、こんなにあったら目録を作るのも大変でしょうね、きっと・・・。」

マサは本棚に本が綺麗に収納されるように整理されたレコードやCDをまじかに見ながら盛んに感心した。

「買う度に記録しておけばよかったのですけど怠けているうちに知らず知らずに溜まってしまって気付いたらもうこんなになっていました。後の祭りですね。」

「これ、全部聴かれたのでしょうね。」

「一応聴くには聴いたと思いますけど好きなレコードほど取り出しやすいところに置いてあまり聴かないのは知らず知らずに奥の方に追いやられてしまいましたね。」

「まぁ、それは仕方ありませんね。好きなものほどすぐに手の届くところに置きたいものですから。」

そういわれて順三が思わずマサを見ると相変わらずレコード棚を眺めては感心していた。

「それじゃ早速スイッチを入れて温めますからその間レコードでも見ていてください。」

「えぇ、この装置も自動車のエンジンみたいに暖気するのですか?」

「えぇ、特にアンプは真空管が定常状態になるまでちゃんと温めないと本来の音が出ません。全体を暫く温めてレコード一枚分ぐらいかけて初めて本来の音になります。」

「へぇ~、そうなのですか。私、知らないものだからいつもコンポにCDを入れてそのまま聴いていましたわ。」

「それはそれでいいのですよ。それで気に入った音が出ればそれに越したことはありませんから。音楽を聴くのは所詮主観ですからその人が良いと思えばそれが一番良いのです。他人がいくら良いといっても本人が気に入らなければ駄目です。私は暫く暖気して全体のバランスが取れてからやっと良い音が出ると思っていますからそうしているだけのことでそんな儀式は不要だという人もたくさんいますよ。」

「ふぅ~ん、そんなものなのですか。」

「それじゃそろそろかけてみましょうか。マサさんが一番好きなソニークラークをかけてみましょう。」

「えっ、私がソニークラークを好きだなんて高梨さんどうしてご存知なのですか?」

「そりゃ、だってこの前ジャズ喫茶であのピアノはソニークラークみたいに迫力があるって聴き惚れていらっしゃったじゃありませんか。あれは好きでないと出ない言葉ですよ。」

「へぇ~、私、そんなこといっておりましたか。夢中で本人が覚えていないのに、もう認知症でもおかしくない。」

「ハハハ、認知症の人は自分が認知症だなんて思いませんよ。それに女性は男性よりずっと頭がしっかりしているから認知症になりにくいっていうじゃありませんか。とにかく認知症はまだまだ早い。」

順三は笑いながらブルーノートのソニークラークのオリジナル盤を取り出して盤面を綺麗に拭いてターンテーブルに乗せるとボリュームをゼロにして注意深く針を落とした。そして徐々にボリュームを上げていくと驚くほど生々しい音が両側に鎮座する大きなスピーカーから飛び出てきた。マサは驚嘆の目を見開いて言葉も出ない様子だった。

「もっとボリュームを上げればもっと迫力が出ていいのですけど住宅街ではこのあたりが限度です。一度録音スタジオでこれと同じスピーカーで録音チェックをしているのを聴いたことがあるのですがそれはもう耳をつんざくようなすごい音でした。それで上から下まで録音の良し悪しを判断するのでしょうね。ご近所に遠慮してこれぐらいで聴いているので幸い今のところまだ苦情はもらっていませんけどこの1.5倍ぐらいの音量で聴けばもっとよくなります。」

「いえいえ、もうこれでも十分すぎるほどですわ。やはり本物のクラークはピアノが生きているように力強く響いてきます。指の力が強いのでしょうかまるで音が自己主張するように前に飛び出してきますわ。私、これと同じCDを持っていますけどピアノのひとつひとつの響きの力強さといい音の輪郭といい立ち上がりといい迫力といい本当に全く異次元で圧倒されますわ。」

順三はマサの耳の確かさに驚いた。ただ何となく聞いているだけでは決してこんな言葉は出てこないのである。

「いずれ防音工事でもして音が漏れないようにすればもっと迫力のあるライブ演奏に勝るとも劣らない演奏を楽しめると思います。しかし今のところはこの程度で。」

「私ならこれで十分ですけどね。」

「今はそうかも知れませんけど聴き込んでゆくうちにきっと物足りなくなってもっとレベルを上げたくなりますよ。オーディオは底なし沼のようなものですから。」

「そんなものなのでしょうか。」

「そんなものなのです。」

「それに同じ曲でもレコードとCDとどこか違いますね。」

マサは目を輝かせて身を乗り出すようにして聞いてきた。

「どこが違うと思いますか?」

「何というか、CDは音が狭くて純度が高いというかそんな感じでレコードは野太くてたくさん音が入っているような気がするのですが。」

「さすがですね。その通りですよ。CDは上と下の周波数を切って可聴域だけをデジタル信号で記録していますから雑味がない。いわば味の良いところだけ取り出して他を捨ててしまっていますけどレコードは刻んだ音溝の上下左右をそのまま電気信号に変換して一切処理をしていないので全ての音が入っています。だから少し雑味があるように聞こえるのですけどジャズには少し雑味がある方よいと私は思っています。丁度料理を美味しく引き立てるのに隠し味を入れるようなものですね。」

「へぇ~、そうなのですか。初めて知りました。」

それから二人はコーヒーを片手にジャズに包まれながら時の経つのも忘れてジャズとオーディオの談議に花を咲かせた。マサは好きなブルーノートのレコードを二、三枚聴いてから同じ曲をCDで聴いてその違いを自分で確認していた。

「やはり高梨さんのいう通りCDは音の数が少ないですね。」

「マサさんはどちらが好みですか?」

「私は断然レコードですわ。」

「深いジャズファンは皆そういいますよ。やはりレコードの方がジャズのもつ粗削りというか形式ばらない自由というか野性味というかそんなものをより豊かに表現できるということなのかも知れませんね。しかしマサさんももういっぱしのジャズ評論家ですね。しっかりした耳を持っておられる。」

それはあながちお世辞ではなかった。マサは確かに音を正しく聞き取る繊細な感性、いい換えれば天性の耳を備えているのが順三にはよく分かった。

「まぁ、そんな。でも私、レコードプレーヤーが欲しくなりましたわ。それにレコードも。高梨さんはどこでレコードをお買いになるのですか?」

「都内に大きなレコード店がありますよ。そこへ行けばお好きな楽器で古いものから新しいものまでほとんどのレコードが揃っています。あの店は多分アジア一いや世界一かも知れないな。今じゃ中古レコードが主体ですけど数は少ないですけど新版もあります。」

「で、レコードプレーヤーはどこで?」

「最近レコードを聴く人がまた増えてきたので新製品が売り出されていますけど私のおすすめは少し前の回転特性が安定して剛性の高いものですね。中古になりますが程度の良いものであれば値段も手ごろですし問題ありません。それより大事なのはレコード針です。ジャズを聴くならこれロックならこれクラッシックならこれという定番はありますけど私のお勧めは今聴いているアメリカ原産で現在日本の専門メーカーが作っている針です。これなら純正品より音もいいですし値段も手ごろですし耐久性も優れています。やはり日本人はこういう能力にたけていますね。それにもし余裕があればアンプとスピーカーもそれに合わせて適当なものに変えた方がよいかも知れません。最新のスピーカーを駆動力の高いトランジスターアンプで鳴らすのもよいのですができれば適当なスピーカーとそれに合った真空管アンプを選べばもっと広くて良い音が楽しめますよ。」

「それじゃこんなに大きなスピーカーを・・・・?」

「いえいえ、もっと小さくて充分よい音の鳴るスピーカーがありますから何ならご案内しますよ。ただしもう新品がなくて中古品になるかも知れませんけどスピーカーはちゃんとメンテナンスをすれば数十年ぐらい平気ですから。このスピーカーだってもう五十年選手ですから。」

順三は目の前の大型スピーカーを示していった。

「そうですか。ありがとうございます。その時は是非お願いします。」

マサはまた少女のように目を輝かせた。順三はマサほどの耳があれば今思い浮かべる中級者向けのスピーカーとプレーヤーとアンプの組み合わせで十分よい音が聴けるだろうと思った。そしてそれで物足りなくなればまた上を求めればよい・・・・。

「今度ご都合のよい時にオーディオ店にご案内しますよ。そこでお勧めの装置の組み合わせで自分の耳で聴いてみて一番気に入ったものを選べばよいです。」

「まぁ、うれしい。その時はよろしくお願いします。」

マサはまた嬉しそうに目を輝かせた。順三は嬉しさをこんなに素直に吐露するマサを見るのは初めてであった。宿る魂が美しくさえあればそこから溢れ出る人柄は常に人の心を打つ。その時近くの中学校から正午を告げるチャイムが聞こえてきた。

「あぁ、もうこんな時間だ。そろそろ昼ごはんでも食べに出ませんか?」

「そうですね、そういたしましょう。本当に楽しかったですわ。」

二人が肩を並べて歩く姿を見れば誰しも長年連れ添った仲のよい夫婦と思うだろう。何を気にするでもない二人の自然な姿はそれほど溶け合っていた。順三はマサを横にして歩きながらこれまでの人生で今のこの一瞬ほど充実した瞬間があっただろうかと思った。順三がそれまでの人生で微かながらも輝きを見たのは後にも先にも二度しかなかった。一度はそれまで籠の中しか知らなかった順三が高校に進学して初めて運動クラブに入部した時だ。それまで何をするのもひとりだった順三を慮ってもう高校生になったのだからもっと人と交流して広い世界を経験した方がよいと両親の勧めでそれほど練習がきつくない運動部に入部したのだ。それでも部活動どころか運動の経験もあまりない順三には大変厳しい練習であったけど他の部員と共に辛い練習に耐えて同じ目的に進むことがこんなにも充実したものかと苦しさを蜂蜜で包んだような甘酸っぱい経験に心を震わせた。順三はその経験が忘れられずに逃げ水のように遠ざかる思いを必死で追いかけたがもう二度と戻ることはなかった。二度目は結婚して初めての子供が生まれた時である。順三は学生時代から付き合っていた元の妻と会社に入ってこれという考えもなく成り行きで結婚して初めて子供を授かると自分の精神の大きな変容を感じた。それまでは小さな子供を見ても別に心が動くこともなかったがそれからというもの進退窮まるような厳しい事態に臨んでも妻子が自分を待ってくれていると思えばどうにかして乗り越えてやろうという気概が沸々と沸いてきた。中央アジアの砂漠の小さな町や南洋の名もない島でひとり難しい仕事に臨んでも家で待つ妻子の顔を思い浮かべるだけでそこが天国になった。年末最後の仕事を終えて明日から年末年始の休みという夜に納会を終え正月準備を整えて家族が待つ家に帰る時のあの充実感は一体何だったのだろうか。その時順三は生れて始めて幸せの片鱗を味わったのかも知れない。しかしそんな時はすぐに消えて冷酷な現実に打ちのめされ夢破れた自分が今ひとりポツンとここにいる。そんな順三は今俄かに輝き始めた第三の太陽を目の当たりにしているのだろうか。

「いつもの鰻屋さんにしましょうか。」

順三が聞いた。

「えぇ、そうしましょう。もっとも私、あそこしか知りませんけど。」

マサは順三を見て微笑んだ。二人は暫く黙って歩いた。田園風景に溶け込むように二人肩を並べていつものあぜ道を歩くと頬をくすぐる春の息吹が心にまで吹き込んでくるようだ。

「随分春めいてきましたね。」

「そうですね。もうこの着物では少し暑い季節になってきました。もう少し薄手のものにした方がよいかも知れませんね。」

「マサさんは洋服を着ないのですか?」

「着ないことはないのですがずっと着物でしたからこちらの方が過ごしやすくて。」

「それじゃ季節ごとに着物を変えて過ごしていらっしゃるのですか?」

「一年中ということもないのですけどやはり着物が多いです。確かに着るのは面倒ですし後の整理も手間がかかりますけど慣れてしまうとそれほど億劫にもなりませんしこの歳になるまで着ていると何か自分の肌の一部になったようでもう洋服に変える気にもなれません。他人様の家に行く時はそのように家で寛ぐときにはそれなりに選びますから横で見ているほど堅苦しくも面倒でもありませんし不自由には思いません。」

「丁度CDとレコードみたいなものですね。」

「え・・・・?」

「CDが出たころ多くの人達はレコードなんて古臭いものはすぐに消えてなくなるだろうって噂して確かにそれから随分下火にはなりましたけどレコードにはCDにない独特の風味があって今でもしっかり生きていて最近また勢いを盛り返していますからね。再生にいろいろ面倒な手続きがあるのは着物と同じかもしれませんけど慣れれば別に億劫でも何でもありませんし音が出てくる前の儀式だと思えば却って楽しいですね。決して手間だとは思わないですし却ってないと物足りないですね。着物と洋服に似ていませんか。」

「確かにそうかも知れませんね。」

ほつれ髪が風に流れてマサのうなじの薄い汗に張り付いていた。


8


それからというもの順三の胸には以前にも増してマサの姿が常にあった。しかし順三はいくらマサを想っても自分の意志と力ではどうにもならないのだから潔く必然に従うしかないと思っていた。そしてそれはそれまでの順三の信条からすれば至極当然の帰結でもあった。しかしそう思えば思うほどそれは必然の前に立ち竦んで自己の運命さえ微動だにさせることもできない自分の不甲斐なさへの強い憤りにもなった。いつも負け犬で終わってばかりの人生でせめて一度ぐらい自己の意志で必然に立ち向かうぐらいの気迫を示してもよかろうと自分に激しく迫った。たとえドン・キホーテも呆れるような愚を演じることになってもその覚悟さえあれば自己の意志を反映して臨んだ結果なのだから胸を張って受け入れられるはずだ。順三はたとえそこにどんな恐ろしい罰が待っていようと今こそ自己の意志で必然に挑む時だという抑え難い衝動に駆られた。順三は悩みそして考え抜いた挙句今自己に忠実であることは他の目的は一切なくただ純粋にマサに会うためだけにマサに会いそしてマサの目の前で自分はただ貴女に会うためだけに今こうしてここにやってきましたということであると結論付けた。そしてそれが自己を偽らずに意志を貫く唯一に手段であると思った。順三はすぐにはがきを取り上げてペンを走らせた。


「槇原マサ様


前略 ご無沙汰いたしております。ご健勝でお過ごしと存じます。

さて、もしご都合よろしかったらお話ししたいことがありますので一度伺わせていただきたいのですがご都合いかがでしょうか。お返事いただければ幸甚です。

敬具

高梨順三」


この短いはがきを投函して順三は何も考えずただジッと待った。しかしこの前は中一日をおいてすぐにきた返事が今回は四日経っても五日経ってもこなかった。はがきが戻ってこないところを見ると配達はされているようだがはたしてマサは目にしたのかどうか分からない。もし目にしていれば返事もせずに放っておくことはないだろうから何かの事情で目にしていないのかあるいは何かの異常で返事を書けないか・・・・?ひょっとしたら急病に見舞われでもしたかそれとも不慮の事故にでも巻き込まれたか・・・・?いや、ひょっとしたらただの旅行か何かで暫く留守にしているだけなのかも知れない。しかしもし何か異常があったとすれば一人暮らしで助けを求める術がないのかも知れない・・・。そんなことが胸を駆け巡ると順三の心は怒涛の海に浮かぶ小舟のように激しく揺れ動いて居ても立ってもいられなくなった。順三はもう一日待っても返事がないようなら直接住所を訪ねてみようと思った。そして一日待ってもやはり返事はなかった。その日順三はタクシーを呼んで運転手にマサの住所を見せるとすぐに場所が分かったようなのでその辺りに槇原さんという家はないかと尋ねると運転手はあの辺りは大きな農家が点在しているだけの人が少ないところなので知っている人もいるが槇原という名の家は知らないといった。そこは車で十分か十五分ぐらいのところでこの前マサが順三の家に来た時歩いて三十分ぐらいといっていたからそれぐらいであろう。途中から道が細くなって車が通れないので順三は運転手に一時間後に迎えに来るようにいってその先は歩くことにした。降りたところは確かに初めてマサと出会った夜に送り届けたあたりだと見当を付けた。細い田舎道を真っすぐ歩いてゆくと先に小さな集落が見えてきた。長屋門を設えた大きな茅葺き屋根の農家の周りに瓦葺きや茅葺きの古い家が点在していかにも寂れた集落に見えた。暫く歩いてゆくと前から鍬や鎌を入れた籠を背負った野良着姿のお婆さんが歩いてきた。順三は思い切って尋ねてみた。

「すみません。ちょっとお尋ねしたいのですがこの辺りの槇原さんというお宅はないでしょうか?」

お婆さんは深く皺が刻み込まれた日に焼けた顔を日本手拭で頬かむりして目だけ順三の方に向けて方言交じりの早口でいった。

「槇原さんならここを真っ直ぐにいって突き当りの家だよ。何か用かい?」

「そうですか。ありがとうございます。槇原さんの奥さんに少し御用がありまして。」

「槇原さんの奥さん?そりゃ一体誰だい?」

順三は怪訝そうに聞き返すお婆さんに少し不安になった。

「槇原マサさんという方がそこにおひとりでいらっしゃると伺ってきたのですが?」

「さあ、よく分からないね。あそこは暫く空き家だったよ。誰かが引っ越してきたという話も聞かないけどね。とにかくここを真っすぐいって突き当りの家だよ。」

お婆さんはそれだけいうとソソクサといってしまった。家が暫く空き家だったとかマサを知らないとかこんな古い田舎の集落で住人同士がお互いを知らない筈がないのは順三も承知している。それとも両親が亡くなってマサが戻ってくるまで空き家になっていたということなのだろうか、それに離婚して戻ってきたとはあまり威張っていえることでもないので家に閉じこもって集落の人達と顔を合わせないようにしていたのなら面識がないのも頷ける。更に歩くと草が生い茂る獣道のような細い道になってその突き当たりに古びた一件家が佇んでいた。ここなのだろうか?しかし表札はないし門は閉ざされ草が生い茂って人が住んでいるような気配はない。順三は門の前で二、三度遠慮がちに声をかけたが何の反応もなかった。すると閉ざされた門の横に草に埋もれるように郵便受けが立っているのが目についた。近付いてみると最近取り出されていないのだろうか郵便物が溜まっていた。順三は人がいそうにもないこんな辺鄙なところまで郵便を届ける人がいるのだと妙に感心しながらよく見ると重なった郵便物の上の方に見覚えのある封筒が見えた。よく見るとそれは確かに順三が投函したあの封筒が取り出されないままそこにあった。マサは手紙を読んでいなかったのである。そしてそれが順三の気持ちを少しは慰めた。前回も同じ住所へ出して返事がきたのだからマサがここで手紙を受け取ったのは間違いないだろう。するとここではなくどこか別のところに住んでいて用あるごとにここにやってきているということだろうか?しかしマサは会った時にそんなことを一言もいっていなかった。結論が見えない話に順三は少し混乱した。堂々巡りをしていてフト腕時計を見るともうそろそろ引き返さなければならない時刻である。もう少しこの辺りを歩いてみたかったが仕方なく踵を返した。帰りの道すがら周囲を見回すともうすぐ夏を迎えるというのに人っ子ひとり見えない田園に古びた農家がまるで墓石のように点在していて少し薄気味が悪かった。指定したところに戻るとタクシーはもう待っていた。順三は乗り込んで例の鰻屋がある駅近くのショッピングセンターに行くよういった。運転手は順三が退屈しているとでも思ったのか話しかけてきた。

「あの辺りは人里離れて何もないところでしょう。私はもう三十年以上ここでタクシーの運転手をしていますけどあそこにお客さんを運ぶことは多くまかったですね。」

「でも古いけど結構大きなつくりの農家ばかりでそれなりに裕福な家が多いみたいだね。」

「えぇ、あの辺りは土地が肥えて水はけもよくて色々な作物がよく育つから昔は結構裕福な農家が多かったみたいですよ。」

「昔はというと・・・?」

「それが、高度成長時代にあの近くに建設した何とかいう化学工場から有毒物質が流れ出て土が汚染されてあそこの作物を食べると中毒するという噂が流れましてね。しかし保健所がいくら検査してもそんなものは出てこなくて結局あの辺りの豊かさを妬んで誰かが流した悪い噂だったようですけど火のないところに煙は立たないとか誰かがいい出すとこんな田舎ですから忽ち野火のように噂が広がってあの辺りの作物だというだけで誰も買わなくなってしまった。それで先々の収入を当てにして借金して家を建てたり高い機械を買ったのが返せなくなって夜逃げするものや果ては心中する者まで出たみたいですよ。一家心中を図って子供一人だけが助かって両親は死んでしまったような悲劇もあったとか・・・・。」

「一家心中・・・・、あの集落で?」

「そうです。何でもあそこのかなり大きな農家でそれなりに羽振りは良かったようなのですけど例の事件ですっかり没落して生活に困って町へ働きに出たのですけどそれまで金回りのいい裕福な農家だったのが急に厳しい勤め人になってもうまくゆく筈がありませんよね。結局勤めもすぐにやめて暫くは土地やら家財を切り売りして生計を立てていたようですけどそれも底をついて進退窮まってとうとう小さな女の子を道連れに農薬を飲んで一家心中しようとしたのですけど女の子は危ういところで農薬を吐き出して一命を取り留めたようですが両親は死んでしまってその女の子がそれからどんな運命をたどったのか誰も知りません。本当に世の中ってどちらへ転ぶか分かりませんよね。昨日までお姫様だったのが今日は困窮の果てに一家心中なのですからね。」

「一家心中して女の子だけが助かった?」

「そうです。羽振りの良かった頃はいろいろ習い事をさせてもらったり綺麗な着物を着せてもらったりで近所でも評判の可愛い女の子だったそうですよ。生きていればもう六十過ぎていますかね。まあ、あの状況ではとても生き永らえてはいないでしょうけど。」

「・・・・・・。」

そんな話をしているうちに車はショッピングセンターに着いた。順三は何やら複雑な思いで鰻屋の暖簾を潜った。するといつもの仲居が愛想よく出てきた。

「いらっしゃいませ。あれ、旦那様、今日はおひとりですか?」

その言葉がやけに癪に触って順三は睨みつけてやりたい気持ちがしたが聞かなければならないこともあるのでそこはグッと抑えた。

「あぁ、ひとりですよ。」

「まぁ、たまにはおひとりもよいですわね。」

仲居のわざとらしいいい回しに気持ちが爆発しそうになって順三はすぐに本題に入った。

「ところでこの頃槇原さんはいらっしゃいますか?」

「いえ、この前ご一緒にお見えになってからお見掛けしませんが。」

「そうですか。私もあれから会っていないので元気かなと思ってね。」

「え、そうなのですか。」

仲居は意外そうな顔をした。

「あまりお身体が丈夫でないようなことを仰っていたので大事なければよいのですが。」

仲居の言葉に順三はそういえばマサは幼いころから身体が丈夫でなかったので滋養のために鰻を食べ始めたといっていたのを思い出した。

「どこかお悪いのかな?」

順三が問うと仲居は少し怪訝な顔をした。

「私はよく存じ上げないのですが・・・・。」

「そうですか。」

「ご注文はいつものやつでよろしいでしょうか。」

「あぁ、はい、それでお願いします。」

仲居は頭を下げてそそくさと奥へ引っ込んでいった。マサはあれ以来ここにはきていないようだし住所には人が居た気配はないし一体どこへ行ってしまったのだろうかと思うと順三は胸が苦しくなってきた。そうこうするうちに仲居が料理を運んできた。

「どうもお待ちどうさまでした。」

「あぁ、ありがとう。ちょっと伺いたいのだけど。」

「はい・・・・。」

「そういえば槇原さんがあまり丈夫じゃないといっていたのを思い出したしこの前からここにも顔を見せていないのも気がかりなのでご機嫌伺でもしたいのだけど連絡先は分かりませんか?」

「え、旦那様、ご存じじゃないのですか?」

「・・・、いや、一度用件があって手紙を書いたのだけど返事がないので忙しいのだろうぐらいに思っていたのですが今そちらの話を聞いて体調でも崩されたのかと心配になってね。」

順三は苦し紛れに嘘をついた。

「もしご病気になったのなら何かの方法で私や旦那様には連絡があると思うのですが・・・。そうだ、一度何かの届ものに住所を聞いておりますのでしばらくお待ちください。電話は確かないと仰っていました。」

順三は仲居が奥へいって戻ってくるまでのほんの数分間が何ともじれったかった。仲居は出てくるなりすぐにメモを順三に見せた。

「これがその時教えてもらった住所です。」

それは見紛うことなくマサの字であった。そしてそれはマサに聞いた住所と同じであった。

「ここなら私も知っていますがここ宛てにはがきを書いても返事がないので少し心配になったのです。あなたに聞けば何かわかるかなと思って伺ったのですが・・・・。」

「私にも何か必要があったらここへてがみをくださいって仰るだけで・・・・・。」

「それじゃ何か急なことでもあったのかな、少し心配ですね。おひとりなら身体の調子が悪くなってもお医者さんを呼べないかも知れないし・・・。」

順三はそういって仲居の顔色を窺ったが変える様子もなかったので別に隠し事をしているようでもなさそうだ。順三はそそくさと食事を済ませて外へ出た。今日一日あちこち歩き回ったが結局何も分からないどころか却って心配が深まるばかりでやりきれない気持ちになった。そしてこうなれば後はあるかないか分からないがマサの返事を待つしかないと思った。順三はその夜早目に床に就くと昼間歩き回った疲れが出たのかすぐに寝入った。するとマサがこの前順三の家を訪れた時と同じ着物姿で夢枕に現れた。順三は手紙の返事もくれないのはひどいじゃないかと夢の中でマサに文句をいったがマサはニッコリ微笑むだけで全く返事をしない。何かあったのかと心配で今日住所を訪ねたことや鰻屋の仲居にまで尋ねたのに何も分からなかったといっても相変わらず何もいわずにただ微笑みながら順三の話を聞いていた。そして順三がいいたいことを全部いい終わると一言も語らないまま微笑みながらゆっくり手を振りながら闇の中に吸い込まれていった。そしてその瞬間に順三は目が覚めた。周りはまだ真っ暗であった。




エピローグ


目を擦って枕元の時計に目を凝らすとまだ夜中の三時前だった。順三は寝返りを打って眠ろうとしたが益々頭が冴えるばかりでとうとう起き上がって居間のソファーに腰を下ろした。すると先日マサがオーディオを興味深げに眺めながらソニークラークについて熱弁をふるっていた様子や順三のオーディオ談義をまるで少女のように目を輝かして聞いていた様子やその時々の笑顔が走馬灯のように浮かび上がってきた。そしてビッグバンドの素晴らしい演奏を聴いて涙ぐんでいた姿やその帰りに入ったレストランで幼い女の子が現れてそれまでの険しい人生に思いを馳せて顔を見合わせたことなどが次々に心を巡って順三は目頭が熱くなった。そしてフッと溜息をつき目を閉じて記憶のひとつひとつを追いかけているうちに眠ってしまったのだろうか次に目を覚ました時にはすっかり日が昇って眩しい光が窓から差し込んでいた。時計を見るとあれからもう四時間近くも居間のソファーで眠っていたことになる。そしてその時順三は自分の手紙はあの誰もいない家の軒先の郵便受けに入って取りにくる人もないまま朽ちてゆくだろうと思った。そしてもう二度とマサと会うこともないだろうと思った。その思いは動かし難い必然として順三の前に屹立した。マサはもうどこか手が届かないところへ行ってしまった。いや元々手の届かない存在だったのかも知れない。サヨナラだけが人生だと順三は常々思っていたが人生にもうそれほど先がないところでまた悲しいサヨナラが加わるとは思っていなかった。無謀にも自己の意志で運命を動かそうと挑んだが結局何も変わらずにまた原点に戻ってきた。そしてこれから先人生が尽きるまでこの運命に支配されてゆくのだろう。他愛ない好いた惚れたぐらいはあっても悲恋など自分には縁遠いと順三は思っていたがマサは知らぬ間に熱く心に忍び寄りそして甘くほろ苦い面影と余韻だけを残してひと時の夢のように去っていった。しかし自分には時という良きも悪しきも全て忘却の彼方に押しやる強い味方がいる。時はあんなに強く心を揺さぶった出来事さえ些細な痕跡も残さず綺麗に呑み込んで自分の命の灯が消えるまでそしてその後もずっと何事もなかったかのように永遠に流れ続ける。順三はオーディオのスイッチを入れて暫く暖気をしてマサが好きだったソニークラークのピアノをかけた。順三は目を閉じて思いに耽りながらジャズが好きな女の幻と孤独な老人のはかない夢の物語を小説にしようと思った。

(終)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ