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海を渡る二刀流  作者: 沢村俊介
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偶然のクリスマスプレゼント

 2017年の今年は、クリスマス・イブが日曜日だった。寺坂は自転車で近くのケーキ屋に言った。直径12センチばかりの小ぶりのクリスマスケーキを買った。母と二人なら、そのくらいのケーキで十分であった。

 夕食後、母のために、寺坂はナイフでケーキを切り分けた。

「今年はいちごが高いんだって」

「ああ、そうなの?」

 寺坂はスーパーに行っても、野菜や果物のコーナーにはあまり立ち寄らない。

 テレビを見ながら食べる。しかし、ちらりと横にすわっている母の顔を見る。穏やかな顔だった。

 これまで親孝行をしなかったな、と寺坂は悔いる。大学を出て、中堅どころの貿易商社に入ったのに。一年で辞めてしまった。表向きは物を売るだけの生活が嫌だった。でも本心は、毎朝7時半頃に出掛ける毎日の仕事に心が燃えなかっただけだ。いつも、心の中がもやもやとしていて、頭の中も何かしら靄がかかったような状態だった。

 今は、多少心の中に不安はあるが、頭の中はけっこうクリアになり、日が差しているように感じる。

「宮本選手は、性格のいい子みたいね」

 母の言葉に、寺坂はびっくりする。宮本選手のマネージャーとして、一緒にアメリカの西海岸の小都市に行く、とは話していたが、母は母なりに、ひょっとしたら、テレビや新聞などで、宮本選手のことを見ているのかもしれない。

「明日、うちが本拠地にしているドーム球場で、宮本選手のサヨナラ会見があるんだ」

 寺坂は、ケーキに小さなフォークを差し込みながら、つぶやく。

「荒れないといいけどね」

「えっ!」

「ファンの方もたくさん来られるんでしょ」

「そうだね」

 寺坂は、母に相づちを打つ。確かに、発達した低気圧が二つも近づきつつある。一つは、938ミリバールと、台風並みの勢力を持った低気圧だった。

ファンの方々に球場に来てもらうのはいい。しかし、家から球場に来たり、球場から家に帰ったりするのに、強風や豪雪に悩まされるのは、球団職員としても申し訳ない気がする。

「でも、天気予報を見て、遠くの方たちはさすがに遠慮されるでしょう。近くの方たちなら、そう心配したことはないわよ」

「ああ、そうだといいね」

 寺坂は、そう答えながら、たった一年とはいえ、この目の前にいる母と別れるのはちょっとつらいなと思う。母にスマホを買ってやり、メールの開き方だけは教えておきたいな、と思う。アメリカに出発するまで、あと一か月半はある。

「明日は、会えるの?」

「うん、誰に?」

「あしたは、宮本さんがドームに来るんじゃないの?」

「まさか。明日会うなんて、上司や先輩から聞いていないよ」

「でも、宮本さんは、チームの皆さんから慕われているようで、あんたとしてもいい人のマネージャーになれて良かったね」

「いいことはいいが……。緊張するね、すごい選手だから」

「でも、ごく自然に接した方がいいんじゃないの。向こうさんだって、そんなにしゃちほこばっては、やりにくいでしょ」

「でも、そう簡単には行かないよ」

「だったら、お兄さんのように接してあげたらどうかしらね」

「えっ!?」

「宮本さんには、実際に七つ上のお兄さんがおられるでしょ、だから……」

 寺坂は目をまん丸にした。母がこんなにも宮本選手のことを知っているなんて、驚きだった。でも、母が僕のアメリカ行きを心配してくれていたことがわかり、寺坂は内心うれしくてならなかった。

 12月25日、寺坂が球団事務所に行くと、部屋の中央のテーブル席に、一人の男性の背中が見えた。朝早くから誰なんだろうと寺坂は思った。

 10時を回った頃だろうか、寺坂は松尾に呼ばれた。

「101号室へ来てくれや」

 部屋に入ると、三十代くらいの男性がいた。今朝、背中のみだが、中央テーブルで見かけた人のようだった。

「寺坂、こちらが吉原さんだ。例の、宮本選手の大学ノートを書いてくれた人だ」

 寺坂は驚き、背筋を伸ばしたのち、すぐに吉原氏に頭を下げた。

「はい」

 寺坂は、顔を紅潮させていた。吉原氏は椅子を立たれ、丁寧におじぎをしてくれた。

「寺坂です」

「吉原です。このたびは渡米されるそうですね。よろしくお願いします」

 吉原氏は寺坂に微笑みを見せてくれていた。寺坂は椅子に坐る。

「あの、書かれた大学ノートは、まだ十分読み込んでおりませんが、とても内容の濃いもので、今後わたしにとっても、大変貴重なものになっていくと思いました」

 寺坂のそんな言葉に吉原氏は照れたような顔をされている。

「あのノートがお役に立てれば、この上ない喜びなんですが……」

 寺坂は、吉原氏が顔は真面目そうなのだが、かといって、目の辺りには優しさも見えたので、思い切って尋ねることにした。

「私は宮本選手と渡米しますが、やはり宮本選手というのは、所属チームだけでなく、日本のプロ野球界全体で注目された大物選手であることには間違いがありません。どうしても私なんか気おくれをしてしまいます。どんな風に宮本選手と接していいのか、本当に悩みます。どうすればいいのか、教えていただけないでしょうか?」

 寺坂の質問に吉原氏は緊張した顔に少し笑みを浮かべられたあと、すぐにまたゆるめた顔を元に戻され、言葉を発せられた。

「あなたのそういう態度こそ、素直な感じにわたしには受け取られます。ともかく基本は気取らず、臆せず、素直に自然体で接せられるのがよいと思います。確かに、宮本選手は、マウンドに立ったり、バッターボックスに立たった時は、厳しい表情になります。それは勝負の時ですから、しようがありません。それに、その厳しい表情というのは、集中力が優れていると言い換えてもいいかもしれません。しかし、普段の宮本選手というのは、ごく普通の二十三才の青年に過ぎません。両親の愛情のもと、素直にのびのびと成長されたのでしょう。上下関係ということでなく、同じ仕事仲間というような感じで、ざっくばらんに付き合われたらよいと思います」

「そうですか。もっとも、最初ですから、なかなかリラックスしたような感じで接することはできないと思いますが……」

 寺坂はやはり不安を口にする。

「それはそうでしょう。徐々にやられればよいと思います。ただ、わたしの場合は、あなたの参考になるかどうかわかりませんが、日常生活の中では、宮本選手は実にリラックスしていて、とても話しやすい雰囲気なんです。でも、時々打てなかったり、投げて抑えられなかったりして、内に篭られることもあります。それは誰でもそうでしょうが。そういう時は、話しかけず、少し距離を置いて、そっとしておいてあげるというか、静かに見守ってあげる方がよいかと思います、へたに慰めの言葉を掛けるよりも」

「そうですか……」

 寺坂はそう答えながら、昨日の夜、母が、『優しいお兄さんのように接してあげたら、それが一番いいんじゃないかしらね』と言った言葉を思い起こしていた。確かに、兄というのは、あまりしゃべらないはずだ。そして、心の中では一生懸命、弟のことを考えている。

 寺坂と吉原は、互いにメルアドの交換をした。吉原は、何でも困ったことがあったら、遠慮なくメールをして、と寺坂に言った。

 夕方6時から、お別れ記者会見がはじまり、7時に終わった。

 ドームに来られていた宮本選手のファンの人たちも、徐々に球場を後にされていた。今夕は発達した低気圧が張り出していて、天候は荒れ模様だった。ファンの皆さんが無事に帰宅されるといいが、と寺坂は心配していた。

「寺坂、そろそろ、球場内の後片付けをはじめようか?」

 先輩である松尾の声が寺坂の耳に入る。

「はい」

 寺坂は松尾の顔を見ながら答える。

 寺坂は松尾のあとを少し遅れながら、グラウンドに通じる通路を歩く。少し広い交差スペースに足を踏み入れたときだった

「もしかして、寺坂さんですか?」

 横合いから声がした。横を見ると、背の高い青年がこちらに近づいてくる。足が長いなと思った。彼の身長は、寺坂のそれをはるかに超えているように思えた。

 寺坂は彼のはにかむような笑顔に見惚れ、足をとどめ、ボーッと突っ立っている。

「僕と一緒に、アメリカに渡っていただけるということで、これからお世話になります。どうかよろしくお願いします」

 笑顔のいい好青年だな、と寺坂は思う。

「いえ、こちらこそ。どんな風になるのか、皆目見当もつかないのですが。一スタッフとして、できるだけお世話ができたらいいなと思っています。こちらこそよろしくお願いします」

 彼と握手した。寺坂には、彼の首の辺りしか目に入らない。恥ずかしくて目が上げられないのだ。手は大きかったが、暖かかった。その手のぬくもりを感じながら、いい仕事がしたいな、人さまに役立つような仕事がしたいな、と思っていた。(おわり)


 


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