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海を渡る二刀流  作者: 沢村俊介
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俺だって親孝行したいし、仕事だってしたい

 寺坂は球団の仕事が忙しくて、家に帰るとぐったりとしてしまい、なかなかトレーナーの吉原氏の書かれた大学ノートが読めなかった。いや、何か読むのが怖かったのかもしれない。吉原さんの熱意に圧倒され、自分が自信をなくすかもしれないと思ったのかもしれない。

 帰りの電車は空いていた。夕方のラッシュではなかった。始発の札幌駅から乘った。

 席に坐れた。北広島市まで、5つ先の駅なので、時間にして24分くらいかかる。寺坂は鞄から吉原さんのノートを出した。ノートの表紙には何も書かれていなかった。インデックスの第三章の、「右肘のマッサージ」を開く。寺坂にとって、宮本選手の右肘の関節は、今最も気になるところだ。右肘の靭帯は大丈夫だろうか?、右肘の関節内の遊離体(=関節ねずみ)は大丈夫なのだろうか?

 第三章第一節は、右肘のマッサージの心得というのがあった。しかし、第二節の、治療のところに寺坂の目が行く。

『僕は、重正先生のことを信じる』という文章があった。そこを真剣に読む。

 ノートによれば、重正先生というのは、都内の病院の整形外科医で、今年の10月、宮本選手の右足首関節の三角骨を除去する手術をされた方とある。吉原氏の文章によると、重正氏のおじいさんが膝を痛められたせいか、重正先生は中学生の頃から科学クラブに入り、熱心にカエルの足の構造を学び、かつ、夏休みなどには、田舎から死んだカエルを送ってもらい、それでもって、実際に解剖し、図面と照合するようなことをされていたらしい。その挿話は、寺坂にとっては、今年29連勝を達成した、プロ棋士の藤〇聡〇四段のように、早熟な天才児を思い起こさせるに十分であった。

 吉原氏は、さらにノートに医師重正氏のことを書かれていた。

『重正先生は、右足首の手術際、手術前の全体検査のとき、右肘関節の靭帯の不具合を見つけられ、本人と相談の上、その予防策まで実施はされた。それは、PRP注射による、右肘内側側副靱帯の再生治療だった』

 寺坂は、宮本選手がそういう名医と会われたということに、内心感激していた。監督、コーチ、チームメイトだけではない。トレーナー、主治医など、周囲にきわめて有能な人々との出会いがあったのだが、それは極めて幸運に恵まれていた、といっていいのかもしれないと思った。

 ノートは続く。

『重正先生は、さらに、右肘関節内のMRIの写真を見ながら、関節内の骨と骨の間にあって、骨同士が直接ぶつからないよう、クッションの働きをする関節軟骨が一部損傷しているかのような様子が見られるが、ブルペンでキャッチャーを座らせて、実践的に投げるということを3カ月程度控えれば、自然治癒という形で、完全修復されるから、特に手術をしたり、酸素や軟骨を構成する物質である、コラーゲン、グルコサミン、コンドロイチンなどの注入を施す、保存治療を今の段階で施す必要はない、と言われた』

と書かれていた。

 寺坂は、そこに吉原氏の、重正先生に対する信頼感を感じた。自分自身も何らかの形で、吉田局長や松尾主任の信頼に応えられないものか。それにはどうしたらいいのだろうか、これから海外でどのようなことができるのだろうか、と思った。

 ふと車窓を見ると、見慣れた駅のホーム、改札口が見えた。あっ、行けない、と思った時、電車はすでに北広島駅を発車していた。

 寺坂は、次の駅で降りた。次の上りの電車は約25分後だった。ホームは寒かった。それで階段を降り、地下道を通って駅舎に向かった。

 ベンチに座り、母に電話する。

「ごめん、俺、電車で乗り越しをしてしまった。家に帰るのは、9時半を過ぎるかもしれない」

 寺坂は、スマホを手にしながら、頭を下げて母にあやまっている。

「いいよ。今夜はおでんなの。帰って来るまでに、また、温めておいてあげるから、ゆっくりでいいよ」

「ありがとう」

 寺坂は、スマホを切った。母のために何ができるんだろうか、と思った。30歳になるまで、親孝行らしいことを何もしてこなかった。それを思うと、何やら、目がウルウルしてきて、目を閉じ、顔を上げた。(つづく)

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