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海を渡る二刀流  作者: 沢村俊介
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早くもマネージャーとして右肘のことを心配する

 12月の下旬に入っても、球団事務所は活気にあふれていた。

 25日のクリスマスの日には、宮本武治選手の大リーグ行きの壮行記者会見があるのだが、その会見の場を公開にし、ファンの皆さんにも、記者と本人とのやり取りを直に見てもらおうという計画になっている。しかも、その模様はテレビで生中継されることになった。

 また、年明けには、新しく入団した選手の歓迎セレモニーも計画されており、広報部の社員たちは連日残業をしていた。

 臨時社員ながら寺坂は、総務人事部の総務課に席を置いているが、財務課の主任である松尾と二人だけで、102号の会議室にいた。

 松尾が、寺坂の目の前に一冊の大学ノートを置いた。

「これをな、おまえがアメリカへ持っていき、それで、あと向こうのトレーナーの松下一郎さんに渡して欲しい」

 大学ノートには、インデックスが四つほどついていて、第一章から第四章まで、手書きの文字が見えた。開くと、中味としては日本語の文章と、図であった。

「松下さんは、LA球団在籍なのに、日本語が堪能なのですか?」

 パラパラとめくりながら、中に書いてある文字が日本語ばかりなので、寺坂は松尾に聞いた。

「そうだ、大丈夫。松下さんは、トレーナーと同時に通訳の仕事もされている。このノートにある日本文は十分理解されるお方だ」

「すごいですね。ある意味、この松下さんも二刀流ですよね」

「ああ。人間、努力しなくちゃいかんな。俺みたいな者が言うのも変だがな」

 寺坂は、ノートを大切に手に持ちながらも、照れた様子の松尾主任をうらやましそうに見ている。寺坂は独身だ。仕事と育児を両立されている松尾先輩も、ある意味二刀流の達人のように、寺坂には見えるのだ。自分が仮に結婚し、子どもに恵まれたなら、ちゃんと、おしめを替えたり、ミルクを飲ませてやったり、風呂に入れてやったり、そういう器用なことができるのだろうかと不安になるからだ。

「このノートはな、今二軍のトレーナーをやっているが、ちょっと前までは、宮本の専属トレーナーをやっていた吉原という男が書いたものなんだ。彼は宮本のそばにいて、けっこう細かく観察してきた。だから、からだのケアやマッサージのポイントだけでなく、宮本のピッチングフォームだとか、バッティングフォームなどについても、自分なりの観察したところを文章にしている。向こうの松下さんに、このノートを渡すまでのところで、おまえもこれに目を通しておけ。むろん、吉原のやつにも、おまえのことを話していて、ノートを読ませるからな、と言ってある」

「そうでしたか」

 寺坂は緊張した。たぶん、吉原というトレーナーに、一種尊敬のような感情を持ったからだ。普通、アスリートたちのスポーツマッサージをやるトレーナーさんたちは、日々の施術に精一杯であり、アスレリート動きを観察してレポートにまとめるなんて、なかなかできることではないと寺坂には思えるのだ。

 それに、面倒臭そうに文字を書いてはいない。楷書で、しっかりと読みやすい文字で書いてある。

「それから、もうひとつ。おまえ、近頃、英会話ハンドブックを鞄の中に入れているみたいだが。うちからも、宮本の専属通訳をつけることになった」

 寺坂は英会話を内緒で勉強していることがばれて、少し照れた。しかし、通訳がつくなんて、すごいことだなと思う。通訳の人も今までの宮本選手のことを見てきている。そういうことを知っている、知らないとでは、ずいぶんと向こうの人に通訳する際、違うだろう。もっとも、今、うちには四人の通訳がいるが。一人海外に行けば三人になる。あと、新しい通訳を採用することになるのだろうか?。それにしても、球団の配慮に並々ならぬものを感じる。確かに、専属をつけるのは、たのもしい。しかし、一方で、そんな特別な待遇に、寺坂は反って不安を感じるのだ。つまり、そうしなければならないほど、本社のオーナーは、宮本選手のからだの具合に不安を感じているのではなかろうかと思われるのだ。先輩の松尾主任は、以前自分に言ったことがある。

「うちのオーナーはな、宮本を、今すぐ大リーグに行かせるのは反対でな。もう一年こちらに残こし、じっくりと体を直してから送り出しても遅くはないんじゃないかと言っている」と。

 寺坂も、一抹の不安がある。右肘の靭帯損傷のことだって、最近わかったことだった。今年7月の初めに、宮本選手は投手として二軍戦ではじめて投げた。そして、7月12日今シーズンはじめて公式戦で投げた。その時、よく球を引っかけたものだ。右足首関節の骨棘、左足の太腿裏の肉離れ、それらがあって、右肩や右肘に負担がかかったことは、野球のことをよく知らない寺坂だって、予測はできる。その公式戦はじめての試合、宮本選手はコントロールが定まらず、1回と1/3イニングを投げたが4失点、わずか29球でマウンドを降りた。

 極端な話だが、このたび12月13日、アメリカの電子版のニュースによって、明らかになった、MRIの写真に、肘関節内の小さな遊離体が写っている、という記事のことだってそうだ。神経質に考える必要はないかもしれない。けれども、これまでの右足首関節のことがある。骨と骨の間に、挟まった遊離体が大きくなったり、ネズミみたいに狭い関節の通路内を、ちょろちょろと動き回られたら、肘の神経が刺激されるだろうし、ひじ関節をスムーズに動かすのにも支障を来たすかもしれないと、寺坂は心配する。

 マネージャーとすれば、トレーナーとともに、そういう右肘関節の状態について、もし悪くなる傾向になれば、ともかくその兆候を早めに見つけ、即座に適切な処置方法を講じなければならないのでは、と寺坂は改めて思うのだ。

 野球選手は、試合に出たい、他のチームメイトに迷惑をかけたくない、そういう思いが強い。だから、多少の足首関節の痛みや肘関節の痛みを黙っていて我慢する傾向があるのではないか。

 宮本選手だって、そうだろう。今年の4月8日の試合、内野ゴロで一塁ベースに駆け込んだ時、左足太腿裏の筋肉に、肉離れを起こしたが、その起こした直後は、ベンチ裏に引き上げた際にも、本人は『大丈夫、大丈夫』と言って、周りに心配をかけないよう振る舞ったと、寺坂も聞いている。いわば、選手の動きの変化を的確に見定め、本人や監督・コーチにアドバイスを送るのも、マネージャーとしての自らの務めではあるまいか。そういう務めが自分に果たせるのか?。

 しかし、賽は投げられた。今さら、ジタバタするのはみっともないではなかろうか。『腹をくくる』、そういう言葉にちゃんと自分は向き合わなくては、と寺坂は下腹部に力を込め、まなじりを決した。(つづく)


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