仕事にも野球にも一生懸命になりたい
12月14日になった。赤穂浪士の吉良邸への討ち入りの日であった。あの事件があったのは、元禄15年、すなわち1702年のことだから、まだ、300年ちょっとぐらいしか経っていない。
寺坂はいつも思うのだ、この江戸時代・元禄期の討ち入りや、昭和初期の太平洋戦争時の特攻隊員の敵艦突撃。これらの時代に、命を賭けた若い者たちの決意のすごさを。
自分には、そんな覚悟はとてもできないと思う。彼らの覚悟の重さと比較すれば、今の自分の決意などは、はるかに軽いと思われる。
しかし、かといっても、今日こそ海外に行くかどうか、決意しなくてはならなかった。力がないことは、自分自身が一番わかっている。自分には野球のことがわからない。アスリートの肉体や精神のケアについての知識がない。英会話ができない。ないないづくしの自分に何ができるだろうか。しかし、寺坂は宮本選手のために何かできないだろうかと考えた。そして、宮本選手を支えることで、間接的に球団事務所の職員の皆さんの助けになりたいと願った。何もわからない海外の生活で苦労することにより、再び国内に帰ったとき、自分は何らかの精神的な成長ができるのではないかと思えてきた。
祖父は広島県からこの地に移住してきた。幼心にも、寺坂は祖父のささくれ立った指先、ゴツゴツとした手のひらを覚えている。
『治郎や、若い時は買ってでも苦労をせにゃだめだぞ』
小学生のとき、寺坂は祖父にそんなことを言われたように記憶している。
宮本選手のために、球団事務所のみんなのために、母のために、寺坂は清水の舞台から飛び降りたいと思う、目をつぶってでも……。
朝、事務所に着く。自分の席に座る。寺坂は落ち着かない。貧乏ゆすりみたいに、膝下の足を動かしている。目を閉じる。たぶん、自分は自分の能力以上のことに挑戦しようとしている。それは、やはり無謀ではないか、と考えている。心が震える。思わず、目を開けた。その時、吉田局長が部屋に入ってきた。
寺坂は思わず、立ち上がった。すると、局長は手で制し、そばに寄ると、「101号の会議室に、先に行っておいてくれ」と言われた。
寺坂は、101号室へ行く。鍵はかかっていなかった。椅子に坐って、局長を待つ。
(本当に、俺でいいんだろうか?)
寺坂は、まだ迷っていた。
「お待たせ」
局長が入ってきた。
「おはようございます」
寺坂は立ち上がって頭を下げる。母のためなら、宮本選手のためなら、吉田局長や松尾主任のためなら、頭が下げられそうな気がした。
「まぁ、座りなさい」
局長の言葉で、寺坂は少し落ち着きながら、椅子に座る。
「で、このあいだの返事だよな」
寺坂は、局長の目を見た。いつになく不安そうな目の色をされているように見えた。あまり心配をかけてはいけないな、と寺坂は思う。
「私でよければ、お引き受けしたいと思います」
思ったよりも、声は出た。でも、か細い声量だなと、寺坂は自分のことを情けなく思う。
「そうかそうか。よかった、よかった」
局長の目尻が下がり、頬がほころんでいる。寺坂はホッとした。
「まあ、大変な仕事だ。あとは、向こうで何か困ったことがあったら、メールでも電話でも何でもいいから、私か松尾君に連絡してくれ。ちゃんとおまえの願いが叶うようにするから」
昼休みになった。また、寺坂は松尾主任と外に出た。ハンバーガー・ショップに入る。ここは、コーヒーの量が半端でなく多い。パン生地の味は寺坂にとっては今一つなのだが、ハンバーグの味は気に入っている。
「おまえ、承諾したらしいな」
松尾が口元に赤いケチャップをつけながら言う。が、目の感じは真面目そうに見える。
「はい」
「よかった。俺は行けない。まだ二人の子供が保育園に通っている。俺がイクメンしないことには、女房のやつは倒れてしまうだろう。俺の分までがんばってくれ」
「はい。精一杯やります。色々と、向こうに行ってからもよろしくお願いします」
「ああ、それは任せろ」
寺坂は、食うことに集中する。もう少し間に挟んであるレタスの量が多いといいのになと思いながら、バーガーを齧る。
食べることは終わった。寺坂は大きな紙コップに入ったホットコーヒーを飲む。
「それからな、本社から球団への出資金の増額が決まった。いわゆるボール・パーク(=新球場建設と周辺アミューズメント施設の整備)の整備への支援ということだ。そのほかに、何んと驚いたことに、ボール・パークの調査・研究費の補助金もあった。おまえの方で何か入用なものがあれば、そこから支出されることになる。本社肝入りの補助金だ」
松尾主任の顔がいやに真剣だった。コーラをちびちびと飲んでいる。
「どうして、そんなに?」
寺坂には、増資はともかく、補助金の意味合いがよくわからない。
「何でも、うちのオーナーである、本社の社長が、あちらに行っても、宮本選手の面倒をしっかり見てやってくれ、と指示をされたらしい」
「本社の社長が直々に? 社長というか、うちのオーナーは、そんなに宮本選手を買っておられるんですか?」
「俺は、吉田局長の口からしか聞いていないが。ともかく、うちのオーナーはかなりの宮本ファンみたいなんだ。それに、局長の話によれば、『球団の職員を簡単にリストラするな。選手を消耗品として見るな』というのがオーナーの口癖らしい。それに、オーナーは酒席の場では、よく、昔の、京都商業から職業野球の東京巨人軍に入り、そこのエースになった、沢村栄治という投手の話をされるらしい。日米野球では、ベーブルースから三振を取った男らしいのだが。その人は、プロ野球に入ってから、三度のノーヒットノーランを達成されているし、完投完封型の投手として活躍されたらしい。しかし、日中戦争へ徴兵され、手榴弾の投げすぎで肩を痛められたらしい。その後プロ野球界に復帰されたが、肩を毀していて、以前のような成績が上らなくなった。行き場がなくなったのかどうか、ともかく、太平洋戦争のとき、再びフィリッピンの戦場に向かわれることになってね。その途中なんだが、たまたま乗っておられた輸送船が敵に攻撃され、沢村栄治さんは亡くなったということなんだ。うちのオーナーは、そういう悲劇は二度と見たくないと言われているらしい。何で、沢村氏を再び戦場へ送り出したのか。戦争のために肩を壊したんだから、プロ野球界全体として、沢村投手をピッチングコーチなど指導者として残すことはできなかったのか。何で最後まで面倒をみてあげなかったのか、とうちのオーナーは、酒の勢いもあってか、よく感情を露わにされるらしい。まぁ、オーナーの気持ちもわからんではないが。その当時、プロ野球界だって、はじまってまもなくだろぉ。組織として未成熟だよ。オーナーの言うように、すんなりとは、沢村栄治氏の救済措置が取れなかったのではと、俺は思うけどね」
「そんな昔のエピソードを知っておられるなんて、うちのオーナーは野球通なんですね」
「そうかもしれん。セ・リーグのオーナーの中には、会社経営の方針の会議以上に、球団フロント側主催のスカウト会議で、『あの高校生は、打撃もいい、足も速い、肩もいい、是非うちに欲しい』などと、熱心に意見を述べられる方もおられるそうだ。俺が勝手に思うんだが、会社経営に熱心な社主は、球団経営にも熱心ということが言えるかもしれんな。まぁ、うちの局長でも、そうだろう?。仕事も一生懸命だが、所内の親善ソフトボール大会だって、一生懸命なんだから。おまえもけっこう、昼休みに局長のキャッチボールの相手をさせられただろう?」
寺坂は、局長が本当にうれしそうに、ボールを投げ、ボールをグラブで受けられていたことを思い出した。
そして、試合になると、吉田局長も松尾主任も一生懸命ベンチで声を出して、味方の選手を応援していた。野球でも、仕事でも、何でも一生懸命になることはいいことだと寺坂は思う。(つづく)




