今夜、トゥナイト?
……この日、気が付くと屋敷は葬式が在ったかのようだった。
天使ちゃんな俺の姉貴は「パパが裏切った」と言って部屋から出て来ず。
俺はソレを生まれた時からの付き合いである、メイドのマリーから聞く。
そして、くだんの叔父さんは、ママさんの頼みで、しばらく屋敷に滞在する事が決まった。
このまま我が家の問題を調停するつもりなのだろう。
俺はソレもマリーから聞く。
こうして漂う様になった家の暗い雰囲気は、鈍感で楽観的な俺にも、大変なことが起きているんだと悟らせるのに十分であり、こんな雰囲気に初めて飲み込まれた俺は、これからどうしたらいいのか判らず、兄貴から与えられた宿題を、黙々とこなすしかなかった。
夕方、パパさんは未だに宮殿から帰宅せず、職場に逃げ込むかのように“残業が在る”と、使いの者にメッセージを授けてママさんに送った。
……ああ、男って奴は。
そしてそんな我が家事情に気がついたのだろう、叔父さんが連れて来た従士の人が、渋い顔で庭先をうろつき始める。
おれは昼の頃から、勉強の合間に、部屋の窓から下の庭を散策する従士を見ていた。
屋敷同様、俺の部屋も暗く、淀んだ空気が漂い、そこから目をそむけたかったのかもしれない。
やがて時が過ぎて夕刻となり、庭ではマリーが従士の人に近づき、水を差しだしていた。
……うん?マリーさん、顔が真っ赤ですよ。
見た事が無いほど、頬が赤いっすよ?
従士の人はソレを優しく受け止めて……
やだ、この人達、修羅場の中で何やってるの!
マリーさん、マリーさん、ソレ雌の顔。
女の顔だから……って、まぁいいか。
出会いが在ったんだろな、マリーももう18歳、そう言う年だよな。
初めて会った時から5年、月日はマリーをなかなかの美人さんに育てていた。
男もまぁ見れる顔立ちだが、何よりも修羅場を潜り抜けて来たのか、落ち着き払った渋い顔つきをしている。
頼れる兄貴と言った印象だ。
俺はそんな二人の様子をよくよく見る。
すると、だんだんとお似合いのカップルじゃないかと思い始めて来た、なので静かにソレを認める事にした。
マリーは俺のもう一人の肉親なのだ。
彼女はクソメイド亡き後、俺の元に現れたもう一人の姉貴なのだ。
いや、まぁアイツはまだ死んではいないが。
……て、言うか今すぐ死んで欲しいが。
とにもかくにもマリーは俺に良くしてくれた。そんな彼女が出会いも無く、若い時間を無為に過ごすのはかわいそうだ。
出会いが無いと嘆いていた彼女にやっと現れた出会いの日が今日なのだろう。
それなら祝福してやろうじゃないか……
◇◇◇◇
その日、家族はいつもの様に夕食をとる事は出来なかった。
なので食事はそれぞれの部屋で取ったのだが、従士の人とマリーも誘って、俺は夕食を取った。
気を使ってやったのだ。
感謝はいらねぇゼ、マリー……
そう思っていた時もありましたが。
結果、俺は大きく後悔した。何故なら……
「おいしい!もしかして君が作ったの?」
ウチが提供した夕飯を食べて従士は言う。
……んな訳無いだろ。
で、ソレを聞いたマリーが答えた。
「い、いえ私では無く料理長が作ったんですよ」
「そうか、でも君も料理は作るのかい?」
「ええ、一人暮らしなので……」
あ、この男彼氏がいるのかどうか、さらっと確かめようとしてる。
「そうなのか、悪い事を聞いたね。
他の人は君の料理は食べないのかい?」
「食べてくれる相手も居ませんから……」
「ウソだ、こんなに魅力的なのに……」
この従士、やりおるわ……
この葬式場みたいな家の空気に惑わされず、ナンパしてやがる。
マリーもまんざらではない顔で「今度ご招待いたします……」と。
もしかして友達も呼ばないで、こいつだけを部屋に上げたりしないよね?
まだ今日初めて会ったんですよ、おじさんは許しませんからね!
精神年齢が前世と今世の通算で、30歳を超える俺は、心ではやる二人をたしなめる。
まぁ、声では言えないんだけどね。
……とにかくだ、まぁこいつらは俺を無視してやけに楽しそうにはしゃいでいる。
て、言うか不謹慎だろ、こいつら。
もうね俺を無視して二人の世界が広がる。
……繰り返し言う。俺は後悔していた。なんだろ、意味も無く腹が立つ!
そんな物見て楽しい筈も無い。
話しかけても、存在が全くない物と扱われる俺!
……つまらん、ものすごく夕食がつまらん。
俺は思った。
(こいつら死ねばいいのに!)と。
従士の名前はホークランと言った。
アレからしばらく経ち……放っておくといつか熱いベーゼを交換しそうだったこの二人を追い出した俺。
……まったくとんでもない物を見た。
俺は面白くも無いので、体を動かしてこのくさくさした気持ちを追い払おうと決めた。
夜もふけ、使用人たちの多くが屋敷から退出した時刻。
俺は動きやすい服装に着替え、松脂が入った革袋を持ち出すと、屋敷の外へとこっそり向かう。
実は、生まれてからこのかた、俺には一つ熱中している趣味の様な習いごとがある。
崖を腕の力で登るボルダリングと、家の高い所を登ったり、飛び移ったりするパルクールである。
昔見た動画サイトの記憶を頼りに、日々屋敷の壁や屋根を使って訓練をしている。
当たり前だが、5歳児にソレを教える奴はいない。
……もし自分の息子がこんな事をしていたら、俺は必ず辞めさせるだろうな。
ともかくコソコソと誰も居ない事を確認し、やがて屋敷のさびれた一角に辿り着いた。
俺はそこで誰も居ない事を確認し、そしていつものように白い松脂の粉を手に塗ると、壁にあるわずかなでっぱりに指を掛け、体を上へ、上へと持ち上げる。
間もなく下は目もくれる高さになり、そして指の掛かる所に手ごろなでっぱりが途絶える。
何度も登った壁である、ルートはもう判っていて。俺は指を壁の出っ張りに合わせ横に、横にとずらし、壁に沿ってに移動を開始する、体が動くにつれ、指が悲鳴を上げて震え始める。
「うっ、ハァ……ハァっ!」
落ちたら骨折では済まない。下には馬の飼料用の干し草が丸められて大量にある。
見た目とは違い、丸められた干し草は非常に硬く、そこに落ちればただでは済まないだろう。
それでも俺は息を荒げ、汗を幾筋も垂らし、日課となった修練に挑む。
壁の端から次の壁の端、そして四隅の曲がりに足を掛けて次の壁へ……
体が悲鳴を上げる、それにもめげず、一人で修練を続ける。
鉛管を握り、広めの縁で休み、握力が落ちた手を振りながら次の場所を目指す。
俺以外でこんな5歳児はいないだろう。
俺は思う。子供の内から握力や腕の筋肉を鍛え、体も柔らかくなるように柔軟体操を続けていれば、きっと俺の将来に役立つ日が来るんじゃないかと。
だから今、ソレをする必要がある筈なんだと……
俺には魔法は無く、貰ったチートも判らない。
だから何か他の人にはできない特技が欲しかった。
なので肉体だけでも、子供のころから頑強に鍛えておきたかった。
それに、何も特筆すべき才能も無い俺は、このままだときっと何者にもなれずに、終わってしまうだろう。
……それはある種の恐怖を、小さな俺の心に授ける。
折角の転生である、俺はしが無い何者かには絶対になりたくなかった!
俺は何者かになりたい。
……その思いが修練に挑む俺の原動力となっている。
それに理由がもう一つある。
パパさんがいつも俺に言い聞かせるように、俺はいつかこの家を出て、自分で自分の道を切り開かなければならない。
魔法が使えない俺には、この肉体しか頼る者はないのだ。
子供の頃は想像もできないが、本当の勝負は大人になってから始まる。
そして、大人になった時、その時自分を支えるのは、子供のころからの遺産なのだ。
その為にもボルダリングやパルクールと言った、ムービーでしか見た事が無い物に取り組む。
正直これが正解なのか、なんなのかは分からない。
でも、とにかく今は、トレーニングの効果で少しずつ変わる自分自身の体に、俺は確かな手ごたえを感じていた。
ちなみに、数あるトレーニングの中で、この危険極まりない技術を持とうと思ったのは、あのクソメイド。
そう、アイツとの戦いの中で、強い肉体の必要性に気がついたからだ。
だからアイツが居無くなってからも、俺はこっそり、小さな頃から高い所に登ったり、懸垂に精を出したりと、ずっと鍛えていた。
ただ、まぁ人に見つかると……
と、言うかママさんに見つかると、また高速言語で怒鳴りだすと思われるので、この趣味というか、訓練と言うかは内緒だね。
今では家の塀を自力で乗り越えたり、壁を伝って下の階から屋根まで登れるのである。
結構この体は優秀だ、100円ショップの店長だった頃では想像もつかない運動神経である。
がんばればできると言うのは、本当の事なんだな。
星が明るく歌う頃、俺はやっと屋根に辿り着く、掛かる時間は数か月前よりも短くなったことを確認する。
俺は荒げる息の下で、その結果に満足し、静かに汗だくの額を袖でぬぐった。
◇◇◇◇
さて、あれから叔父さんがウチに滞在してから二日たった。
パパさんは流石にずっと王宮に籠もる訳にも行かず、しぶしぶと言うか、いやいやと言うか、とにかく重い足取りで我が家に帰ってきた。
ソレを見た俺は不登校児童がたまに学校に来た日がこんな感じだったと思いだす。
居心地が悪そうな僕のパパさん。
早速パパさんの部屋で二人っきり面談する、聖騎士の叔父さん。
正直どっちがこの家の主か判らない空気だ。
部屋の外からこの様子を伺う、家族や使用人達。漏れ伝わる二人の声音の雰囲気。
叔父さんは流石に怒鳴る事はしなかった。
だが全身の筋肉から威厳を醸し出す叔父さんの静かな語り口は、十分パパさんを追い詰めるのに効果が在った様で、パパさんは観念したかのようにあの女と手を切ると約束した。
……ところがこれで万々歳と行かないのが世の常である。
パパさん、変身魔法を使って、夜な夜な外にお出かけし始めたのである。
夜誰も見ていない時刻、俺は壁を登ったり、屋根から屋根に音も無く飛び移ったりと。いつもの様にパルクールもどきの秘密特訓をしていたのだが、その最中にソレを発見してしまったのだ。
眼下で顔を変えたパパが外にこっそり出て行く所を……
おいおい、マジかよ。
パパさんのアレは一度死ななきゃ治らないね……
そう言えばウチの社長も、奥さん居るけど銀座によく行っていたもんな……
やがてしばらくすると、今度は入れ替わりに、従士ホークランと、メイドのマリーが屋敷に……
お前等もか?お前等もなのか!
ホークラン、仕事が早いな!
そしてマリー、お前はチョロすぎっ。
もう出来ていたのかよ、あの二人……
屋根にしがみつく俺の眼下で、マリーは自宅に、ホークランは屋敷の叔父さんの居る所にそれぞれ戻っていく。
ワォ、今夜トゥナイトだ。
今夜誰も知らぬ間にラブスポーツのナイトゲームが、密かに盛り上がって居るやん……
そして、ソレを見ている俺は何をしているんだろう?