好きの匂い、夢中の時間……
「男爵!これは一体どういう事ですかっ?」
パパさんことグラニール・ヴィープゲスケは痛む頭を押さえて、王都在住の、今度出来る魔導大学の理事たちの元へと向かい、さっそくこんな抗議を受けた。
「落ち着いて……落ち着いてくれワッサシク」
パパさんはその中でも特に強面で、体格の大きな男に飛び掛からんばかりの形相で詰め寄られる。
なので多少顔を青くしながらも、彼の事をなだめようとした。
「落ち着いていられるわけがないだろうが!
俺は大学の株券に対して10%の権利を持っていた。
それが8%になりますって……
どこにそんな馬鹿な話を飲む奴がいるって言うんだぁっ!」
話は昨日ホリアン2世から打診……いや命令によって、大学が新たに王から出資を受けると言う事についてである。
……なぜここまでヒートアップしているのか?
結論から言うと配当金が絡んでくるからである。
説明すると、今の総出資金は仮に100だとすると、この理事の場合10自分が出したから、大学に対して10%権利を有していると言う事になる。
当然黒字化した後の配当金も、この比率に基づいて恒常的に10%分に貰えるのである。
ところが王が出資した場合、出資金はそのままだけど、総出資金が膨大に膨れるので、自分の出資比率が8%に下がってしまう。
なので将来もらえる配当比率、配当金も当然下がる。
「話が違うじゃないか!
テメェ、男爵になって心までも腐りやがったのかっ!」
「落ち着けワッサシク、そんなつもりはない!
それにお前は私の部下だっただろうが!
おまえの面倒は見た……」
「それとこれと何の関係がある!
いいか、俺の体はお前とあのバカ王様のせいで傷まみれだ。
俺の傷は、お前たちの為に作ったんだ!
お前たちのためにだっ!
その分の報酬をもらってどこが悪いっ!
おまえが俺の面倒を見るのは当然だろうがっ!」
パパさんは身分なんてものともしない、恐ろしいほど意気軒高な理事達……むしろワッサシクを見て、途方に暮れた。
パパさんの大学の理事達は、市議会議員だったり豪商だったり、そして貴族だったりした財産に余裕がある人が中心である。
そして、その多くがかつて一緒に働いた仲間だったり、後援者だったり、そして部下だったりした人なのである。
ワッサシクと呼ばれた男もその一人で、100人斬りの悪鬼と呼ばれた男だ。
彼はもらった報酬で商売を始め、紙や蝋板などの筆記用具を扱うお店を開き、そして行商をしている。
ワッサシクのこの発言に他の理事たちも『そうだ、そうだ!』と声を上げ、パパさんは眩暈を覚えながらも、粘り強く説得を繰り返す。
そもそもまだ出資は決まった話ではないのだ、王の気分で急にひっくり返る事だって珍しくない。
その事だって説明しないといけない。
すると他の理事から「出資はあるのか、無いのかもわからないのか!」とか。
「なんのために政府と学校の間を取り次ぐ仕事があるんでしょうかねぇっ!」
等の嫌味を散々に言われるパパさん。
結局、パパさんはもし出資が行われた際は、これから学芸院が支援する学校の資材、ないし学芸院が発注する仕事を理事たちに優先的に10年間割り振る事を提案し、それで理事たちは納得をしてもらう事になった。
◇◇◇◇
「ファー、どっと疲れた!」
魔導大学の理事長室でパパさんは疲れ果てた顔でソファーに寝転がった。
ついこの前、ホリアン2世が言い出した、王が出資すると言う話をして回るパパさん。
この大学に出資をしてくれた出資者や、理事達に、まだ未確定ではあるがその可能性がある事を説明するべく王都中を飛び回る。
その結果が先の場面になったのである。
あれから理事たちはさらに議論を続けていき、今度は……
『今よりも学生が集まるのは良いと思うが、集まった生徒を教える講師の数が足りているのか?』
……と、言う議論を始め、今新たなカオスが誕生しつつある状況である。
「ああ、思い付きで言うんじゃねぇよ……」
パパさんは寝転がるソファーの上の虚空に浮かぶ、いきなり出資を言い出した幼馴染に、恨み節を散々ぶつけ続ける
まぁ“くそぉ”とか“チクショウ”とか“ふざけんな”と言った具合だ。
とはいえ本人に言える勇気もなく、パパさんは胸にそれを抱えたまま、鬱々(うつうつ)と色々な事を考えた。
そしてふと気が付いたのだが、今度はシルト大公領に作られつつある海洋大学に、出資できるかどうかの確認と、提携に向けた話し合いの相談を持ち掛けなければならない。
「はぁ……やりたくない」
それに気づいて思わず本音がこぼれ出たパパさん。
何もしたくないのだ。大変疲れている。
……海洋大学が、新たなストレスの元になるのは目に見えている。
それになのより今度の相手は大公だ。
身内ではないのである。
身内同然の連中でああなのだから、大公に持ち掛けたらなんといわれるか分かったものではない。
(どうしていつも私ばかりこんなにも振り回されなければならないのだ……)
常に襲い掛かる厄介ごとに、思わず逃げたくなるパパさん。
こんな感じでソファーに行儀悪く寝転がり、そして身じろぎ一つせずにいると、この理事長室の扉を誰かが叩いた。
慌てて飛び起きたパパさんは姿勢を整え「どうぞ」と言った。
その声に促され、女性魔導士で、現在秘書を務めるエリコと言う若い魔導士が部屋に入る。
「理事長お疲れ様です、新たに講師希望の方が参られたのですが……」
エリコは若く、そして美しいと言うよりふんわりとした雰囲気の、癒されるような可愛い女性だった。
「ああ、そうか面接か。
ではこちらにお通ししてください」
「はい分かりました」
「うん」
そう言った後パパさんは気合を入れなおし、講師の面接に臨もうとしたが、理事長室に入った女性魔導士が立ち去らず、じっと自分の顔を見ているのに気が付いた。
「どうした?」
「あ、いえ……ひどくお疲れのご様子なので」
「ああ……まぁ、気にすることは無い」
「そうですか……私にできる事なら何でも言ってくださいね」
「ああ、ありがとう。君は優しいね」
「もちろんです、男爵様……」
次にエリコはじっと熱っぽい視線を、パパさんに投げかけながら「なんでも言ってください……」と言って頭を下げて立ち去った。
その様子を見てパパさんは思った。
(これはひょっとして、ひょっとしなくても……)
パパさんの手が、エリコから握られたのはそれから2日後である。
◇◇◇◇
―時は流れて、パーティ当日。
「あ、痛た……今日も剣は握らないほうが良いな」
この前破れた掌の豆は、ますますひどく掌を傷つける。
昨日今日と剣を握らなくてよかった、両方の掌は、今や握るだけでまるで、掌が裂けそうになるくらい痛い。
俺は、手に軟膏をつけて揉み込む。こうしないと乾燥した際に、傷口から実際に裂けて出血するのだ。
こう見えてもだいぶ良くなった方である。
「そんなに痛いニャら、休めばいいニャ」
その様子を俺のベッドに寝そべりながら、ポンテスが言う。
「嫌だね!あのおっさん達に、やっぱり出来ないクソ小僧呼ばわりされるなんてまっぴらだ!」
俺はそう言うと、砂の入った袋を手甲に紐で括り付け、それを装着する。
次に手の形を、剣を握った形にして、空の素振りを始めた。
「熱心ニャね、お前……」
「げぇ―げぇー(俺はお前を応援するぞ!)」
傍にいるペッカーもそう言って俺の様子を見つめる。
部屋の中でもできる訓練、俺は熱心に切り上げで使う筋肉を体につけていく。
こうして訓練に励む俺。
しばらくして夕方が近くなると、一台の見事な馬車が庭に入って来るのが、部屋の窓から見えた。
「うわぁ……誰の馬車だろ?」
少なくとも借金まみれの我が男爵家にはないものである。
興味深く見ていると、ウチの兄貴がその馬車から、さっそうと降り立ったのでびっくりする。
「おーいゲリィ!」
懐かしいニックネームで呼ばれた俺は手を挙げてそれに応えると、砂袋のついた手甲もそのままに兄貴の元に走っていく。
廊下を駆け抜け、庭を突っ切ってたどり着く俺。
近くで見れば見る程に立派な馬車だった。
「凄いだろ、これ!」
「どうしたんですか、この馬車……
もしかして買ったの?」
「アハハ、買えたらいいが今のウチの状況だと無理だな。
おじい様(マウーリア伯爵)に借りて来たんだ!」
「へぇっ、流石伯爵様ですね」
「今日はお前はキンボワス伯爵のお嬢様を迎えに行くだろ?
だから特別に借りてきたんだ!」
そう言って得意げな表情を見せる兄貴。
俺はそんな頼れる兄貴に「兄さん、僕の兄さん……」と言ってしっかと彼に抱き着く。
「わーはっはっ、こんなの当然だろうが!」
次に彼は声を曇らせて「いいか、あのバカ姉妹には内緒にしろよ、知られたら事だぞ……」と呟いた。
何が起きるかは分からないが、ロクな事にはならないと思った俺は「はい……」と言って離れた。
「ラリー見つかる前に行ってくれ、時間が早いと言うならこの馬車の乗り心地を確かめてもいい、さぁ早く!」
こうして俺は少し早いが、ルシェルの家に向かう事になった。
なので急いでマリーの元に駆け込み、余所行き用のお召し物に着替え、そして俺は飛び乗るように馬車に乗り込む。
ドキドキ、ドキドキ……
馬車の中、俺は胸が甘い痛みでしびれ、そして逃げたくなるほど恐怖に震えている。
(うわぁ、どうしよう……会いたいけど、逃げたい)
どうしたらいいの?と思い、意味もなく馬車で寝そべったり、座りなおしたりと落ち着きがない。
こんな時あのエロ猫とペッカーがいれば気も紛れるのだが、流石に連れてきてはいない。
とにかく情緒不安に揺れる俺の体。
自分で分かっているけど制御できないのだ。
「お坊ちゃん大丈夫ですか?」
そんな俺の様子に御者の男が、声を掛けた。
「だ、大丈夫!」
慌ててそう答えた俺。
いかんいかん、他の人にも見られているのだ、しっかりとせねば。
しかもよく見ると御者の人は見た事が無い人じゃないか、おそらくマウーリア伯爵に仕える人だろう。
此処で醜態をさらしたら兄貴にも小言を言われるし、何よりあの鬼婆共に知られたら……
そう考えた瞬間背筋からブルッと震えが起き、俺は正気を急速に取り戻す。
浮かれた思いは、あの鬼婆との思い出、つまりハードな日々の記憶へと塗り替わる。
以後俺は大人しくなった。
とはいえルシェルの家に近付くとそわそわしだし、それを見て御者の人は何かを感づいたらしく、ニヤッと笑ってそのまま俺の事を見ないようにした。
邸宅にたどり着いた俺は、ルシェル家の使用人の方に迎え入れられ、この前同様に玄関に入ったところで大人しく待機する。
「ラリー!」
不意に俺を呼ぶ声がしたのでそちらの方に目を向けると、前見た時とは違うドレスを着てルシェルが現れた。
「…………」
見た瞬間、目の奥から火花が飛んだような衝撃を受け、思わず顔を背ける俺。
見る見るうちに顔が赤くなっていく。
「どうしたの?」
「あ、ううん。なんでもない……
ソレよりも伯爵様にご挨拶をしてもいい?」
俺はそう言って、兄貴から渡された贈り物を携えて伯爵様への面会を申し込んだ。
「何を持ってきたの?」
ルシェルがそう尋ねたので「遠見の術式が入った水晶だよ」と言って、ルシェルに案内され伯爵の元に向かう。
伯爵は応接室で待っていて、俺が入って来るとニコッと微笑み「いやぁ、ようこそ」と言った。
「お久しぶりです、本日はルシェル様をお預かりいたします」
「うむ、丁重にね……」
「はい」
「それはそうと手にしたものは?」
「はい、兄のヴィープゲスケ男爵より預かってってきました、お納めください」
「贈り物かな、どれどれ……
水晶が二つ?」
「遠見の術式が入っています。
距離は徒歩で2時間ほどの距離までですが、音と映像を小さな水晶で発射させて、大きな水晶で見る事が出来るんです」
「ほう!それはさすがに魔導の名門、ヴィープゲスケ家だね。
嬉しいよ、ありがたく頂戴しよう」
「はい、召し抱えの魔導士が居ましたら、渡してもらえれば使えると思います」
良かった、喜んでもらえたようで。
伯爵は「それじゃあ娘をよろしく頼む」と言って、この場を離れた。
離れる際に家の使用人が連れてきた小さな赤ん坊に、キスをしてさっそうと立ち去る。
赤ん坊はすぐにどこかに使用人に抱かれたまま連れていかれて、俺はその様子を静かに見守る。
「ラリー、こっちに来て」
俺はルシェルに呼ばれ、彼女の部屋に向かう。
部屋に入るとつぶらな瞳の“偽ポンテス3号”が文字通り猫を被った姿で俺を出迎える。
……失敗したなぁ。
なんか胸が相変わらずモヤモヤする絵だ。
「どうしたの?」
「あ、いや別に……」
「……今日ありがとうね」
「へ?いや、こっちも了承してくれてありがとう」
「うん、ねぇ、隣に座って……」
ルシェルはそう言うとベッドに座り、そして俺はその隣に座った。
もう、死にそう……ドキドキが止まらないよ。
肩を抱き寄せてもいいだろうか?
チューしてもいいだろうか?
もうそればかりを考える。
ルシェルはニマニマと笑いながらうつむきそして俺の方に目を向けると。「なんか照れるね、恥ずかしい」と言った。
「うん、あの、ルシェル……」
「えー?ルーシーで良いよ」
「うん、ルーシー。僕で良い?」
「僕?」
「あ、俺でいいの?」
「うん、まぁ。嫌いじゃないよ」
ついつい弱気になりそうになる、いかんいかん。
しかしそれにしても“嫌いじゃないよ”って。どんなお預けプレイだよ!
そこで俺は腕を伸ばして彼女の肩を取って引き寄せた。
ゆっくりするはずが結構乱暴に勢いよくだ。
……力の加減を間違えたぁ。
「……うふふ」
ルシェルは損な俺に不快な顔を見せる事もなく、俺よりも大きな背丈で俺にかぶさるように、その頭を肩に乗せた。
……もうチューしたい。
俺はそう思って彼女の顔に自分の顔を近づけようとしたが、ルシェルは「それはだめ」と言って断った。
「いいじゃん……」
「ダメ、絶対ダメ」
そんなぁ……
俺はそれでも彼女の肩の感触と、頭の匂いにメロメロになり、幸せを感じながら、彼女の頭に頬ずりをしていた。
これが噂に聞く“ムラムラ”かな?
なんて馬鹿な事を考えていると不意にルシェルが話しかけた。
「さっきの赤ちゃんね」
「うん」
「私の弟なんだ」
「かわいい?」
「うふふ、とってもかわいい……」
その後おバカな俺は友達と会話するように盛り上げる事も出来ず、ただ黙ってその後の余韻に浸るだけだった。
沈黙が甘く、重くこの部屋に満ちていく。
やがてこの家の使用人が“そろそろ時間”だと告げたので俺達は体を離し、そして玄関の前に居る、例の馬車に二人で乗り込んだ。
馬車の中では、密室ともいえない空気だからか、いつもの様に会話もできる雰囲気になった。
その空気の中でルシェルが「皆どうしてるかな?」と尋ねた。
なので、正直に「分からないなぁ」と答える。
「私達みたいなのかな?」
「ど、どうなんだろうね?」
いかん、また顔が赤くなる。
あ、もう駄目。耳まで熱くなってる。
「もう……コッチ見ないで」
そう言ってルシェルはニマニマと笑い、そして顔をそむけた。
「ええっどうしてよ?」
「なんでもない!」
良く分からないまま振り回されながら、俺は幸せだぁ……と思った。
……嫌いじゃない。
しかし言われてみると、王子様はどういう感じで、ダマト伯爵の家を訪問しているのだろう?
ここ数日頭の中は剣とルーシーでいっぱいいっぱいで、それ以外の事を全く考えていなかったと今更気が付いた。
まったく彼らの情報が頭に入っていない。
……なんか言っていたっけな?
思い返そうとしても、ここ数日彼等と何を話していたのかも覚えていないことに気が付く。
恋ってすごい、皆もこの魔力に引かれているのだろうか?
そう思うと早く再会してどんなことが起きたのか、聞き出したくてたまらなくなった。
だけどその前に……
また隣座って良い?
俺は今度こそチューしたいんだけど……