騎士ボグマスの事情(前)
「いってらっしゃいませ、ア・ナ・タ♡」
「うむ、行ってくるよハニー」
ゲラルド達が居る、アルバルヴェ王国の王都セルティナにある、ちょっとしたお屋敷の主は、昔からこの国を支えている名門貴族のうちの一つ、ルシナン伯爵に仕える騎士で、名をボグマスと言った。
今年で30歳、12歳年下の若い妻と9カ月前に結婚し、今も熱い愛を降り注いでいる。
若い妻は膨らんだおなかをさすりながら、幸せそうに「見て、赤ちゃんもパパ行ってらっしゃいって、今おなかを蹴ったのよ!」と、言った。
「本当かい?それじゃあパパは頑張っちゃおうかなッ」
そう言うなり彼は出かけ始めた足をそのままくるりと返すと妻を抱きしめ、そのままおなかに耳を当てた。
「あっ本当だ、赤ん坊が蹴ってる蹴ってる!」
見ようによっちゃあ、おなかに当てたパパの顔を、嫌だから蹴り倒してるとも言えるが、とにかくおなかの赤ちゃんは、盛んに騎士ボグマスに自分のことをアピールしていた。
ソレを感じながら騎士ボグマスは言う。
「ハニー……」
「なぁに?」
「俺……君と居れて幸せだぁ」
「え?もう、馬鹿な事言ってないで仕事に行きなさい」
若い妻は嬉しそうに笑いながら彼に仕事に行くよう促し、ボグマスもそれに応えて渋々、離れがたい我が家を離れて行った。
その背中に妻が「あなた、早く帰ってきてね」と言い。騎士ボグマスはその言葉に手を振ってこたえた。
……これが騎士ボグマスの最近の朝“だった”のである。
彼が若い二人の従者を引き連れ、伯爵の屋敷に参上しようとしたとき、入れ替わりに一人の男が「やってられるか!クソがぁっ」と叫びながら伯爵の屋敷を飛び出してきた。
その男が知り合いだったのでボグマスは「エドワース、一体どうした?」と聞いた。
普通の雰囲気ではないからだ。
エドワースは入れ違いに屋敷に入ろうとするボグマスに気安く手を挙げながら「よう、ボグマス」と返事をする。
そしてそのまま足取りを弱めることなく、エドワース「今夜飲まないか?」と聞いた。
ボグマスも何かあったのだろうと思い「分かった、今夜ウチに来いよ」と答えた。
エドワースはコクリとうなずくと、その場を足早に立ち去る。
その後姿を眺めながら騎士ボグマスは「何があった?」と、自分の従者二人に尋ねた。
従者二人も「分かりません……」と、互いに顔を見合わせながら答えるのみである。
◇◇◇◇
「ええっ!魔導士エドワースはやめた?」
驚愕の事実を知ったのは、屋敷に入って間もなくである。
廊下ですれ違った家宰を務めるボグマスの上役が、苦々しげにエドワースが辞めたことを告げた。
「何故です……何があったのです?」
家宰は「……スゥ」と、ことさら音を立てて息を吸うと、無表情になってこう言った。
「そのことなんだが、伯爵様は重要な仕事をエドワースにお命じなった。
だがエドワースはそれを……
まぁ、言うなればだ。
……お諫めしたようだ」
「諫めたんですか……」
まぁぶっちゃけて言うと『無理です!』と、伯爵に言い放った。
結果、当然のことだけど……
「まぁ、それであいつは。
この家を辞去したということだ」
話を聞いた、ボグマスはクラクラと眩暈に襲われてたじろぐ。
「だ、だいじょうぶか?」
「大丈夫です、眩暈が起きただけです」
ついでに、(あいつは首かぁ……)と思った。
「そうか、それでエドワースが居なくなったので、今度はお前が伯爵に呼ばれている」
「私がっ?」
「お前だ……」
「なぜ……エドワース(あいつ)は文官で、私は武官ですよ?」
「それについては伯爵から聞くと良い。
さぁ、主がお待ちだすぐに行ってくれ」
ボグマスは家宰に促されるまま、伯爵の元へと向かった。
さてこれから騎士ボグマスが会う、ガストン・ルシナン伯爵だが……
騎士ボグマスは親子2代に渡ってこのルシナン伯爵に仕えていた。
ルシナン伯爵はアルバルヴェ王のホリアン2世の学友を務めていた事もある、有力な諸侯の一人である。
だが今は王から特別な親しみを与えられることもなく、学友であった経歴を生かすことができない貴族の一人だった。
その所領はこの30年拡大もしていない。
……それはこの国の貴族にとって由々しき問題だ。
何故なら、アルバルヴェ王国の英主ホリアン2世はマウリア半島を統一した王である。
と、言うことは。王国は長きにわたり拡大を続けていたということだ。
当然増えた領土を管理するために、多くの貴族の所領も手柄に応じて増やしてもいる。
一例をあげるなら、パパさんことグラニール・ヴィープゲスケも、家格を騎士から男爵へと大きく引き上げた一人だし。他にも、この激動の時代に大きく成長し、王から引き揚げてもらった者は多い。
……こうした情勢に置いて、新たに所領をもらうことがなかった伯爵家と言うのは、周りから手柄を立てられなかった臆病者だと思われ、そして兵士もそれほど強くないとみなされる。
当然伯爵の力量だって疑われた。
……そして11年前、マウリア半島は統一され、領土拡大の戦争は消滅した。
伯爵家は手柄を立てるチャンスを失い、汚名を挽回する時を失って久しい。
成長しない家、成長しない部門と言うのは、どこか淀んだ空気が流れ、そして給料が増える見込みがないことを悟った雇用人は、急速にその思想を事なかれ的なものにする。
ルシナン伯爵家もまた例外ではない。中で働く者は挑戦をせず、仕事を増やしたがらず、効率をよくして、面倒を嫌うようになった。
こうして出来た閉塞感のある組織を嫌って、伯爵家を去る者も多く、ほかの貴族家にも名前が知られた騎士がこの家を去って、別の貴族に雇われることも珍しくない。
こうして、現在。この伯爵家は、人材不足に陥っていた。
そのことが、若妻をもらったばかりの彼に、嫌な仕事がやってくる原因になる。
◇◇◇◇
扉を叩き、礼儀正しい挨拶と共に伯爵の執務室に入ったボグマスが見たのは、明らかに不機嫌そうなルシナン伯爵の姿だった。
「伯爵様、ただいま参上いたしました」
ボグマスがそう声をかけると、伯爵は「ああ」と低く唸るような声を上げた。
自分よりも年上の、王と同じ年齢の、壮年の男である彼の不機嫌そうな声を聴いたとき、ボグマスは先ほど出て行ったエドワースが残した忘れ形見が、この重い空気だと思った。
「ボグマス……エドワースの件は聞いているか?」
「ハイ……」
「ならば話が早い、お前に仕事を命じる」
ボグマスは(きた……)と思った。
「かしこまりました、どのような仕事か伺ってもよろしいでしょうか」
胸が重くなるのを感じながら尋ねるボグマス。
伯爵は「お前は身分を隠し、ダレムに行け」と言った。
「ダレムですか?」
ダレムは王の所領の一つで、王家が好んで使う避暑地だ。
今はまだ春なので寒いが、あの地は現在狩猟の季節なので、これまでもそれを目当てに王が行くことはあった。
「ボグマス、今年の春は多くの貴族が王に伺候(同行)してダレムの山荘や周りの別荘に行くことになった」
「そうですか……」
「今回はそこでフィラン王子の、ご学友を作るおつもりらしい」
「王子様ですか、もう大きいので?」
「うむ、今年で6歳におなりだ」
ついこの前生まれたばかりだと思っていた、王子の年齢に、思わず随分と年月が経ったのだと思ったボグマス。
伯爵は言葉を続け「そして当家にもお声がかかり、ラーシドが行くことになった」と言った。
ラーシドと言うのはガストン・ルシナン伯爵の3男である。
フィラン王子やゲラルドよりも2歳年上で、好戦的な子供である、しかしそれだけに貴族らしい子供だと周囲からみなされていた。
仕える主が、再び王とお近づきになるチャンスを得たと思ったボグマスは喜び勇んで「おめでとうございます!」と言った。
王に気いられ、出世した暁には、伯爵家はその所領を大きくする可能性がある。
主家の領地大きくなれば自分だって、所領が増えるかもしれない。そう思うとボグマスの心も明るい。
そんなボグマスに伯爵は、少し明るくなった声で言った。
「うむ、そこでお前はラーシドに同行して……」
「護衛ならお任せください!」
早合点し、主の言葉を遮ってでも勢いよく答えたボグマス。
そんなボグマスの様子に伯爵は少し気を悪くしながら言葉を続けてこう言った。
「いやそうではない、身分を隠して侵入するのだ」
「はい?」
護衛の仕事なら身分を隠す必要はない、伯爵の言葉に嫌な予感を覚えるボグマスに伯爵は告げる。
「グラニール・ヴィープゲスケ男爵の面目を潰してまいれ」
「…………」
言葉を失ったボグマス。思わず口ごもる。
表情を変えたボグマスの様子を見ながら伯爵は、ことさら威厳を備えた声で言った。
「これは重要な命令である……
ああそうだボグマスよ。お前も子供が今度生まれるそうだな。
子供と言うのはこれからお金がかかる、愚かなエドワースはそれが分からなかった。
騎士は主がなければただの無職の男。
それはチンピラ、いやロクデナシにすぎん。
嫁も子供も大変であろう、エドワースの家族哀れだと思わぬか、ボグマスよ……」
「え、ええ。それはもちろん……」
一瞬早口でこの男は何を言うのか?と思ったボグマス。
いきなり飛び出た恫喝めいた口上に戸惑う。
そんなボグマスに伯爵は、ふんぞり返りながら言った。
「分かればよい、騎士ボグマス。
騎士であり続けるのは大変なことだ、ぜひとも頑張るのだ」
この時ボグマスは、伯爵が言外に伝えた意味を正確に理解した。
……すなわち断ることは許されない。
断ったらエドワース同様、どうやら首になる。
ボグマスは鉛のようなつばを飲み込むと「分かりました……」と言って命令を受諾するしかなかった。
◇◇◇◇
しばらくして伯爵の元を去ったボグマス。
彼は伯爵家に仕える者でダレムの事に詳しい人間に話を聞き、仕事に役立ちそうな情報をかき集めた。
そんなボグマスが家に帰ったのはいつも通り夕方になってからだ。
ただし今日はいつもなら自分から離れず、様々な面倒を見る従者の二人には4日ほどの暇を与えた。
騎士になる為の修行中の従者は、通常休みは無い。使える主に常につきっきりで様々なことを学ぶものである。
従者の二人も、主の様子がおかしいことを理解したのか、何も言わずにこれを受け入れ、ボグマスの元を辞した。
だから彼が家に帰った時、珍しく一人で帰ってきたので奥さんは心底驚いた表情を見せる。
夕焼けが赤くした玄関先で再会したボグマスと、事情も分からず驚く若い妻。
ボグマスはそんな妻の体を抱きしめながら「ハニー、明日からしばらく留守にすることになった」と告げた。
「そうなんですか?もうすぐ子供が生まれるのに……」
「すまない、騎士の家の妻の定めだ。
申し訳ない、ハニーの傍にずっと居たいがそれはできないんだ」
「分かりました、一人でもきちんと元気な子供を産んで見せます」
「ああ、ハニー。君と離れるなんて耐えられないよ」
「私もよ、あなた……」
「愛してるよ、ハニー……
必ずこの幸せを守って見せるから」
万感の思いを込めてボグマスはそう妻に告げた、事情が分からない妻はニコニコとほほ笑みながら首をかしげるばかり。
ボグマスはそんな様子に気をとめず「後でエドワースが来るから、そうしたら私の執務室に連れてきてくれ……」と、妻に告げた。
妻は「分かりました」と答え、彼を部屋に入れた。
◇◇◇◇
そんな問題のエドワースがやってきたのは、陽がとっぷりと落ち切ってからだ。
妻に連れられて執務室に入ったエドワースは、ネズミみたいな狡賢そうな顔に、愛想の良い笑みを浮かべながら「やぁ」と声を上げる。
それを見ながらボグマスは重々しく溜息を吐き、答える。
「まぁ、座れ。酒と料理はすぐに持ってくる。
今日はたっぷり話し合うことにしよう」
「おお怖ッ……お手柔らかに頼むよ」