ジャック・ザ・ホッパー
「……星空がきれいだな」
その夜、土方にあてがわれた宿舎を抜け出した俺は独りで空を見上げていた。
既に深夜。月が高く昇っており人の行き交う姿は見えない。
電気もないこの世界では、夜はほとんど完全な闇に包まれる。
土方の言っていた、魔法国イースキールによる農業国アグリア侵攻計画。あれはひどい衝撃だった。
アグリアがイースキールを侵略することは考えていても、逆に攻撃されることは想定していなかった。これは俺だけではなく、ケイトやイザベラにとっても同様だろう。
最も豊かな国アグリアと呼ばれていることが知らず驕りになっていたのかもしれない。ルドウィジア最強の国家である自分たちは常に上に立っているという慢心があった。
考えてみれば、ポル・ポトという個人にあれだけの大苦戦を強いられたにもかかわらず、だ。
個人の強さが前世よりも大幅に向上している可能性がある今、組織化した軍事力がどこまで効果を持つのかも疑わしい。
俺とイザベラがいない今のアグリアでは、土方歳三とチャールズ・カフリン、そしてそれに準ずる戦力が充分に揃っていれば鎧袖一触に蹴散らされることはありうる。
長期戦に持ち込めたとしても、カフリンは魔法による持久戦を挑むことができるのでやはりアグリアは分が悪い。
「これは……想定とは大分違ってきたな」
俺は頭を抱えた。
いっそ、こんなことになるならあの場でカフリンを斬っておくのが正解だったと思うくらいだ。あんな千載一遇の機会はそうそう訪れないだろう。
「ノーぉリっ」
いきなり背後から抱きつく影に、身体をびくりと震わせた。
「なんだ、イザベラか」
「びっくりさせちゃった?」
イザベラは後ろから身体を押し付けるようにして、ぎゅーっと俺を抱きしめた。
「ちょっとな。考え事をしていた」
「さっきの、土方さんのこと?」
「ああ」
俺は目頭を揉みながら言う。
「どうしようかと思ってな」
できれば、アグリアへ一度帰還したい。
しかし、土方から戦争の可能性を聞かされた直後にアグリアへ帰国すると申し出るのは流石に無理筋だ。
加えて、山国であるイースキールは道が限られており、どこを通って出国しようにも関所のチェックを受ける。
平和的な方法でイースキールを出るのは現状、かなり難しいといっていいだろう。
「イザベラはどう思う?」
「うーん……現実的な問題として、イースキールがアグリアに侵攻するって話が、どこまで本気なのか」
俺の背中にくっついたままでイザベラは言う。
「話が出ているだけで、本気で侵攻することを考えていないかもしれないじゃない? 最高権力者をカフリンと仮定して、本人がどう考えているのかという問題がある」
「うん。鋭いな、イザベラは」
「えへへぇ。知ってた。あたしが鋭いの、知ってた」
肩の上で、イザベラはてれてれと笑う。
「とはいえ、ルドウィジアでは軍事的な行動速度がとにかく速いのよね。何故なら、個人の持てる戦闘力が莫大だから」
「それが問題なんだよな……」
極論を言うのならば、俺がこの場で抜刀するだけでイースキールに対してそれなりの損害を与えることができる。
「明日思い立ってイースキールがアグリアに侵攻を開始することだって可能だ。兵糧の確保や徴兵などの兆候から、進軍を気取ることができないのが危険過ぎる」
「あたしとしては、この状況を一国も速くアグリアに伝えるべきだと思う。二人じゃこの情報は手に余る」
「……だな」
その考えは俺にもあった。ただし問題も存在する。
「ただ、このタイミングでアグリアに帰国するのは不自然過ぎるだろ。易々と帰してくれるとは思わないな。とくに才蔵さんはさ。これだけ重要な情報をもらしてしまったんだから」
当初の予定のように、イザベラ独りを帰らせるというのも難しいだろう。
「せめて伝書鳩とか、そういうのがあればいいんだけどな」
後世には電話というもっと便利なものもあるのは知っているが、この世界では望むべくもない。
「だったら」
と、イザベラは俺の耳元で、
「この闇にまぎれて、今のうちに逃げちゃいましょう?」
「……!」
「土方さんに別れを告げずにイースキールを去るのは心残りかもしれないけれど、今のあたしたちを大事に思ってくれるのならば」
「……そうだな。そうしよう」
イザベラの言う通り、心のどこかでセンチメンタルな部分があったのかもしれない。
本来ならば、ここで全て全てを打ち捨ててアグリアへ戻るのが普通の判断のはずだった。
「よし。すぐに動こう」
イースキールから脱出するルートは、一本しかない。
追手が放たれたら、追いつかれるのは時間の問題だ。それを防ぐためには、すぐに行動を起こすしかない。
「おっけー。朝までにイースキールを出たいね」
二人で外套に身を包むと、すぐに村の外へと出た。
「意外にも……あっさり出られたね」
一本きりの道を早足に進みながら、イザベラは囁いた。
「出入国の管理は関所がしているだろうからな。本題はそっちだろう」
「そうだね……」
関所をスムースに抜けられればいいのだが、それは希望的観測というものだろう。
一応、関所を抜ける腹案はあるが、確率は五分五分程度。
関所でトラブルを発生させてしまった場合、その後の展開にもあとを引く影響を与えてしまうので、できれば音便に済ませた良い。
「もし、ご両人」
今後のことばかり考えながら歩いていると、不意に背後から声をかけられて、びくりと身体を震わせた。
「こんな深夜にどこへ行こうというのだね」
「……あなたは?」
振り返ると、そこには小柄な男が一人いた。
矮軀で華奢な骨格はまるで少年だが、声の深さからすると大人の男のようだ。
俺たちに後ろから声をかけてきたという以上、追いつく形で声をかけたということになる。
「僕の名前はバネ脚ジャック。ロンドンを震撼させた怪人だよ」
そう笑った男は、口を耳まで裂けそうなほど歪ませて笑い、ナイフを構えた。
「イースキールから逃げようという不信心者には制裁を与えないといけないねえ」
「……イザベラ。サポートを頼む」
俺は抜刀して構えを取る。
「アグリア帝国でイースキールの情報が手に入らない理由がこれでわかったな。一度イースキールに入った人間は、生きては帰さないというわけだ」




