裏野ハイツ
次の日、浩介はあの集合住宅へと向かった。
近付かなくなって久しい通りを歩くと、浩介は懐かしさを覚えた。
築二十年以上は経っていると思われる古ぼけた集合住宅。
影が見えた窓を確認する。二階、三つある内の左側の窓。
その窓を眺めながらとうとう建物の前までやって来た。
裏野ハイツ
それがこの集合住宅の名前らしい。
近くで見ると汚れや錆が目立ち、なお一層古そうに見える。
『もしかすると三十年位経ってるかもな』
浩介はハイツの二階に上がってみる。階段も錆が酷く、今にも抜けそうだ。
『この部屋……だな』
階段を上がったすぐの部屋。二○一号室。表札が出ていない。だが、郵便受けの封筒には『望月』の文字が見えた。
『だがどうする?』
浩介は悩んだ。
呼鈴を鳴らしてみようかという考えが浮かんだが、止めた。
ドアにそっと耳を近付けてみる。
何の音もしない。
浩介はそっとドアノブに手を伸ばす。が、直前で手を止める。
『俺は……何してんだ?』
もしこれでドアが開いていたらどうするつもりなのか?
浩介は自分自身に問い質すが答えは返ってこない。
暫く扉の前で悩んだ、浩介は結局何もせずにその場を去った。
それからまた何事も無い日々が続いた。これにも浩介は違和感を感じていた。
『何故、現れない』
あの影は浩介のマンションまで解っているのだ。だったらもっとアクションを起こしてくるのが普通ではないのか。
別に現れて欲しい訳じゃないが何か腑に落ちなかった。
「どうした? 調子悪いのか?」
養成所の練習後、隆幸にそう声をかけられた。
練習中、浩介はずっと怒鳴られっぱなしだったからだ。
「まぁな、……大丈夫だよ」
バイト先でもミスを頻発させている浩介はあまり良い言い訳が思い付かなかった。
「浩介くん、大丈夫じゃない奴は皆そう言うのだよ。どうだい? 酒でも飲みながらお兄さんに相談してごらん」
「う~ん、そうだなあ……」
浩介は悩んだ。あんな事誰に相談出来るだろうか。
それに、正直何が問題なのかも分かっていない。
影が見えた。だがそれが誰の影なのか分からない。目的も分からない。
不気味は不気味だが危険かどうかも分からない。
アレからあの影が現れないと言う事はもう終わったのかもしれない。それなら。
「たまには飲みに行くのも良いか」
「任せろ! 俺がどんな悩みも一発解決だ! その代わり飲み代は頼むぞ」
「何でだよ。悪いが給料日前でそんな金はないぞ」
「俺も給料日前だが相談に乗ってやるんだぞ? だったらその分のペイは発生するでしょうが」
隆幸は親指と人差し指で輪を作るとニッコリ浩介に微笑んだ。
「あっそ、じゃあこの話は無かった事で」
「分かった分かった。七三で良いから」
「いえ、間に合ってますんで。それじゃあ」
「ちょちょちょ! 分かりました。もう、お兄さんも商売上手だなぁ。分かりましたよっ! 割り勘で手を打ちましょう」
隆幸はどうですかと言わんばかりに両手を差し出した。
「……そのキャラ、イラッとするな」
「それは俺の演技力の賜物かな」
「残念ながら性格上の問題だな」
隆幸は横目で浩介を見る。浩介はそれに笑顔で答える。
「俺はね、お前の事が心配でこうやって誘っているのにだよ。もう少し誉めちぎっても良いんじゃないかね?」
「もう少しで誉めちぎる程、誉めてたつもりは無いけどな。それにな、心配してる奴に普通はおごらせようとしないモンだからな」
「誉めてよ~。俺は今猛烈に誉めに飢えてんだよ!ギブミー誉めレート!ギブミー誉めねーと!」
「分かった!先ず飲みに行こう!飲まないとお前のテンションにはついてけねーから」
その日、二人は終電まで飲み明かした。