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2-1 僕の家族

 僕の弟の龍児くんに一人で留守番をさせてしまったお詫びに絵本を買って帰ると、いたく気に入ってくれたようで、彼はいつものソファに座って繰り返し繰り返し読み返していた。なんだか兄として嬉しくなってニヤけながらその姿を見ていたのも束の間、龍児くんがその絵本に夢中になりすぎてしまって僕は困ることになる。


「龍児くん、夕飯できたよ。早く食べよう。もう本は終わりだよ!」

「うー、うー、うー!」


 絵本を取り上げようとすると言葉にならない声で抗議し、龍児くんは絵本を抱きかかえてソファに張りついてしまう。こうなるとこの弟はテコでも動かないことを、僕は嫌というほど知っていた。龍児くんが絵本を手放したのはそれから三時間後のことだった。


「せっかく揚げたてだったのに……」


 温め直したことで湿り気を帯びた鶏の唐揚げを口に運びながら、僕は溜め息をついた。ダイニングテーブルで僕の正面に座った龍児くんはいつものごとく無表情で、全部のおかずを一気に平らげた後に味噌汁を飲み干し、最後に残ったお茶碗一杯分のお米を口に運ぶという毎食のルーティンを淡々とこなした。


「はあ……」


 僕はもう一度溜め息をついた。



 龍児くんが風呂と歯磨きを済ませて自室のベッドに寝転んだのを確認し、僕もようやく自分の部屋に戻る。その瞬間、スマートフォンが振動して着信を知らせた。


「誠児くん、ママだよー」


 電話口から聞こえてきた甘え声は、僕の母親である小野寺和泉のものだった。


「ねえねえ、誠児く~ん、お願いがあるのぉ」

「お母さん? また酔っぱらってるの?」

「そぉなのー」


 お母さんはくすぐったそうにクスクスと笑う。


「ねえねえ、誠児くん。ママ、お願いがあるんだけどぉ」

「お金のこと……?」

「そうなの~。もう今月のお金なくてぇ。明日から遊びに行けなくなっちゃうー」

「……お友達は?」


 お母さんのお友達――お母さんに宿泊先を短期的に提供している男友達のことだ。


「今のお友達はあまりお金のない人でぇ」

「ふーん……」

「誠児くんだけが頼りなのー! お願い、お金ちょうだい! 来月はちゃんとするからぁ」


 ごくまれにウチに様子を見に来る父親は、お母さんの素行については見て見ぬフリをしているようだった。その父親の振る舞いやお母さんの愚痴から推測するに、正妻との家庭を壊すつもりのない父親には、お母さんに対するある種の良心の呵責や負い目のようなものがあるようだった。


 その代わり、父親は家計についてはお母さんではなく僕に任せるようになった。キャッシュカード類は僕が管理し、お母さんへのお小遣いは僕が毎月振り込まれるお金の中でやりくりするルールだ。それでも、僕は父親から振り込まれる金額の大部分をお母さんに渡してしまっているのだけれど――。


「わかったよ……今月は食費を節約したから、少しだけど明日お母さんの口座に振り込んでおくね」

「やったぁ! 誠児くん大好き~!」


 耳元でチュッという音が響いて、僕は苦笑いを浮かべた。お母さんがそのまま「じゃあ、またねー」と電話を切ろうとしたので、僕は慌てて引き留める。


「あ、待って! お母さん、ちょっと相談があって……」

「なあにー?」

「龍児くんのことで」

「龍児くんのこと……?」


 明るかったお母さんの声が急に冷え込んだ。僕は心が凍りつくような反発の気持ちを覚える反面、弟に対するどうしようもない優越感も同時に覚えた。それはいつものことで、そして、毎回、自己嫌悪が湧き出すのも同じ。


 僕は頭を振って邪念を飛ばし、会話に集中し直した。


「この前、龍児くんが学校からサマーキャンプの案内をもらってきたんだ。今度の夏休みにね、ボランティアの人達が龍児くんみたいな子達をキャンプに連れて行ってくれるんだって。保護者はなしで。普段体験できないことすることで成長につながるって書いてあるんだけど、龍児くんは慣れないこととか知らない場所は苦手だし、今まで僕のいない場所で眠ることなんてほとんどなかったし心配で。どうすればいいかなって……」

「ふーん……」


 生返事みたいな声だった。数秒の沈黙の後、お母さんが口を開く。


「好きにすればいいよー」

「え?」

「龍児くんのことは誠児くんの方がわかってるしさぁ。誠児くんが決めてよ。ママ難しいことはわかんないしー」

「でも……!」

「あ、ちょっと、ダメだよー」

「え?」

「あ、こっちのことだから気にしないで、誠児くん。ちょっと、コラァ。そんなとこ触っちゃダメだってー。今、可愛い息子とお話してる最中なんだからぁ」


 電話口からクスクス笑うお母さんの声が聞こえた。


「お母さ……」

「もう、マサトくんは悪い子ねー。ふふふ」


 僕と話す時以上に甘えたお母さんの口調に、僕の心はスゥッと冷たく凍り付いた。


「マサトくんたら、息子なんかに嫉妬しないでいいのにぃ。あ、誠児くん、また電話するね。じゃあね~!」


 あっさりと通話は切られた。僕のスマートフォンから母親の番号表示が消える。しばらくホーム画面を覗いていた僕は、それをベッドの上に投げ捨てて、突っ伏した。


 忘れよう。忘れよう。忘れよう。忘れよう。忘れよう。忘れよう。忘れよう。忘れよう。

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