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序章

 子供の頃に見た夢を、大きくなっても覚えている人はいるだろうか。僕には忘れがたい夢がいくつもある。全て同じ女の子が出てきた夢だ。


 僕が寂しかったり悲しかったりして夢の中で泣いていると、いつの間にかその子は僕の隣にいて、「なに泣いてるの、誠児くん」なんて言いながら、僕の頭を撫でたり、僕のほっぺたを掴んでびよーんと引っ張ったりした。夢の舞台は自分の家だったり、通っていた幼稚園だったり、見覚えのない廃墟みたいな場所だったり、近所の公園だったり色々だったけれど、その子はいつも同じワンピース姿に悪戯っ子みたいな笑顔を浮かべて僕の傍にいてくれた。


 僕が物心ついた頃から弟が生まれる日まで、彼女は何度も僕の夢に出てきた。見かけは小学校に上がるくらいの年齢だろうか。小さく痩せた体は色白で、長い黒髪がさらさらと流れて、笑うと牙みたいな八重歯が覗く。何より、角度によっては赤色に見える瞳がキラキラと輝く様子が一番印象に残っている。


 起きている時にその女の子と会った記憶はない。誰かに似ているような気もしたけれど、よく思い出せなかった。


 彼女は寂しい子供時代に僕が心の中で作り上げた夢の中の友達なのだろう。

 今の僕はそう考えている。それが証拠に、弟が生まれる日に情けなく泣きはらしていた僕を叱咤激励してくれて以来、彼女は夢に出てこなくなってしまった。


 だからもう夢の中でも二度と会うことはないのだろうと僕は思っていたのだが、弟が九歳、つまり、あの女の子が夢に出なくなってから九年が経った今日、僕は久々にあの子の夢を見たのだった。



 夢の中で、僕はゴミ捨て場みたいな場所でたくさんの物に埋もれながら呻いていた。空き缶やペットボトル、生ゴミ、表面の布が破れたソファに、画面が割れたブラウン管テレビなど、多種多様なゴミが僕の上に乗っかっていた。それらのゴミのどれもが僕の体よりも数倍大きくて、圧倒的な物量感で僕を圧迫し続ける。僕はまるでゴミ捨て場に放り込まれたネズミになった気分だった。


 場面の不条理さに僕は早々にこれが夢だと気付いたのだが、何度も目を覚まそうと努めても覚醒することができなかった。しかもこの夢の中での僕は体の自由がまったくきかなくて、這い出すことはおろか、指一本動かすこともできないのだ。


 体がというよりも、心が圧迫されて苦しかった。身動きとれないストレスがじっとりと纏わりつくように僕の心を侵していく。いくつものゴミに押し潰されたまま二度とこの世界から出られないのではと嫌な想像がむくむくと湧き上がった。


――誰か助けて!


 僕は夢の中で叫んだ。


――誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か!


「助けてあげようか」


 唐突に声が聞こえた。艶やかな張りのある声なのに、どこか可愛らしい響きを含んだ声だった。


 気付くと、僕の目の前には黒のローファーがあった。目線を上げていくと、黒のハイソックス、白くて細い脚、チェックのスカート、ブレザーに白シャツにタイ、黒く輝く長い髪、そして、きっと女神がいたら、あるいは悪魔がいたらこんな顔をしているのだろうというくらい美しい造作の面立ち。その瞳は血の色を湛え、ニヤリと笑みの形を作る真っ赤な唇からは、牙みたいな八重歯が覗いている。年齢としては今の僕と同じく高校生くらいなのだろうが、いやに大人びた表情をする少女だった。


 その姿に僕は面影を見た。背筋にゾワッと来る感覚と、なんとも言えない懐かしさが込み上げる。


 もしかして、もしかして、もしかして、この子は……!


「久しぶりだね、誠児くん。いったいこれはどうしたの?」


 ああ、やっぱり彼女なんだ!


 僕は胸がいっぱいになる。でも、無様な醜態を晒している自分が恥ずかしくなって、すぐに僕は顔を伏せた。


「また何か現実世界で嫌なことがあったのかな? ママに冷たくされちゃったのかな?」


 彼女はしゃがんで僕の顔を覗き込むと、僕の頬を抓んでむにゅうと引っ張った。でも夢だから痛くない。


 悪戯っ子風に笑う彼女の言葉も行動も昔のままで、おそらく僕が今回この夢を見た理由は母親に対するストレスではなくて別の要因によるものだけれど、そんなことも弁解できずに僕は鼻の奥がツンとして目頭が熱くなるのを感じた。


「相変わらず困ったちゃんだねぇ」


 彼女は苦笑し、ブレザーのポケットから小さな紙片を取り出すと、僕の左腕をゴミの中から引きずり出して握らせた。


「わたしの連絡先が書いてあるから。困ったことがあったら連絡して」


 夢に出てくる人の連絡先……?

 僕が目を白黒させていると、彼女はニヤリと真っ赤な唇を歪め、悪魔みたいに微笑んだ。


「ふふふ。まあ、必ずしも助けになるかはわからないけどね。なにしろ、わたしは……だから」


――え?


 一部が聞き取れなくて僕は問い返そうとしたが、それより早く彼女は僕の目の前に手を翳し、三本の指を立ててみせた。


「さあ、こんな嫌な夢からは早く覚めてしまおうか。いくよ、サン、ニィ、イチ……」


 カウントダウンと共に、彼女の立っている指が三本、二本、一本と減っていく。


「ゼロ」


 その声と同時に彼女の指がパチンと鳴らされた。



 気が付くと僕はいつもの僕の部屋にいて、自分のベッドの上で布団にくるまって寝転がっていた。


「え……? な……? え……?」


 しばらくの間、僕は状況を理解することができなくて瞬きを繰り返す。なんだか今の方が現実感がないような気がして、僕は右手で頬をつねってみた。


「痛い……!」


 どうやら、夢からは完全に覚めたらしい。ホッと安心して脱力すると、体中汗まみれになっていることに気が付いた。目覚まし時計を見るといつもの起床時間よりだいぶ早かったが、僕はアラームを解除し、風呂場へ向かうためにベッドから起き上がった。


「あれ?」


 その時になって、鈍い僕はようやく異変に気が付いた。左の手のひらにある違和感。僕は左手に何かを握っていた。呪いをかけられたみたいに強く握りしめていた左手を、僕は時間をかけて恐る恐る開いていく。


「なんだ……これ……」


 そこには手汗でふやけた紙片があった。文字は滲んでいたが、流麗な細い字で03から始まる電話番号らしきものが書かれている。もちろん、こんなものを握りしめて眠りについた記憶はない。


 ガタガタと僕は震える。


 それは夢が現実に溢れてきたことに対する恐怖からなのか、それとも、あの子に現実で会えるかもしれないことに対する歓喜からなのか、僕自身にもよくわからなかった。

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