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北海道苫小牧市、蕎麦処松田。
集客数三○人の蕎麦屋の内装は、四人用のテーブル席が四台と奥のカウンターに四席、そして座敷のテーブル席が四台。一席一席に余裕ある空間を提供し、天井の梁や柱を見せた開放感ある和の雰囲気は居心地が良い。
集客数三◯人とは居心地良くするための抗弁なだけで、座敷の端に重なった座布団やカウンター横にある予備の椅子から、実際は五◯人は集客できそうだ。
しかし、この店には幾つか融通の利かない面がある。その一つが【蕎麦一日一五◯食限り】で大盛り無し。
メニューはもりそば、ざるそば、鴨南蛮、各種天ぷらとジュースのみ。お持ち帰りメニューに、いち子の小豆飯おにぎり(完全予約制)が別メニューにあるだけ。
口コミで評判を聞き付けて内情を知らずに来店したお客さんは残念な思いをする。が、蕎麦一五◯食限りはあくまでも店主がその日に提供する数。白髪天パの少年がカウンター裏にいる時は、文句を言いながらも蕎麦を打ってくれる。
しかし、ここ数日、カウンター裏に白髪天パの少年はいない。
カウンターへお会計に来たお客さんに対応しているのは、クマのアップリケがあるエプロンを付けたロングヘアの少女、高田彩乃。松田翔の幼馴染。普段はどこかの無愛想な座敷童のように美人な顔立ちを無表情で固めているのだが、お客さんにお釣りを渡す際はここぞとばかりに笑顔を作る。世間体、その時その場に合わして表情を作っている節がありそうだ。
そしてもう一人、店内に松田翔の幼馴染がいる。
出入口に近いテーブル席で向かい合う二人は推定交際期間三年、社会的な立ち位置も安定しそろそろ結婚しそうな感じだ。その二人から注文を受ける高身長の少年は、メイドさんが装備するようなエプロンを付け、短髪にバンダナを巻いている。茅野健。彼の裏表ない清々しい笑顔と慣れた接客対応、伝票にボールペンを走らせる仕草も含めてイケメンという言語をぶち込める。
「もりそばと彼女さんが鴨南蛮。二人で一五◯食完売ですよ。ラッキーだったすね」
慣れた接客というよりは馴れ馴れしい言葉を並べた健だが。
そんな対応をされても気にした様子がないプロポーズのサプライズを考え中であろう男性客は常連客なのだろう。向かい側にいる彼女にコップを渡しながら、
「普段は仕事帰りの閉店ギリギリにしか来れなからな。ここ何日かは翔がいないから食べられなかったんだ。今日はデートのシメにって思って来たけど……運が良かった。翔は何してんだ?」
「なにしてんすかね。俺と彩乃も担任の先生から連絡きて、ママさんに事情を聞いてくれって言われたから来たんすよ。何故か働かされてますけどね」
「行方不明とかじゃないよな? ママさんはなんて言ってた?」
「翔ちゃんは反抗期なのぉ」
ママさんの物真似なのかおっとりしたトロくさい口調で言うと、健は更に繋げる。
「って感じで通常運転。たぶん、いち子と遊び回ってんじゃないっすかね」
「俺もいち子が見えていたら仕事そっちのけで遊んじまうかもな」
常連客は一拍の間を空け、でも、と加えると、
「ママさんが反抗期だって言う余裕があるなら大丈夫だと思うけど、ガキの頃みたいに山で遭難したとかじゃないといいな」
「翔といち子が遭難した時かぁ……懐かしいっすね。でも、あの時のママさんも通常運転だった記憶しかないですよ」
「そういえばそうだ。ママさんが警察と自衛隊に、ショウちゃんはそう簡単には見つかりません、ってドヤ顔で自慢してた記憶がある」
「ママさん的にはいち子がいれば大丈夫って事っすね」
笑いながら軽い返答して踵を返すと、厨房へと歩を進める。コップの水滴をナプキンで拭き取る彩乃を横目に、厨房の出入口へ顔を突っ込むと、
「ママさん。鴨南蛮ともりそば。一五◯食完売したから暖簾を下げてくるなぁ……、……んっ?」
厨房の奥、いつもなら湯気が上がるドカン鍋の前にある調理台で、蕎麦つゆの研究をしているママさんはいない。
蕎麦処松田の調理人はママさんのみ、たまに、極たまに翔の父親が調理する姿は見かけるが、厨房には人影がない。健は視線を厨房内にあるガラス窓へ——厨房と併設された蕎麦打ち場——に向けるが、やはり誰もいない。
「どこに行ったんだ?」
「?」
カウンター裏でコップの水滴を拭き取っていた彩乃は、厨房の中をキョロキョロと見ている健を怪訝になり、
「どうした?」
「ママさんがいない」
「…………、」
彩乃は健の身体をどかして厨房を見渡し、中に入る。ママさんが隠れそうな調理台の隙間を確認し、蕎麦打ち場の扉を開けて隅々まで探す。厨房に戻り、調理台を中心に手掛かりがないか周囲を見回す。ふと、業務用冷蔵庫にマグネットで貼られてある紙に視線が止まると、
「健、受けた注文は?」
「鴨南蛮ともりそば」
「ママさんは……」
業務用冷蔵庫に貼られた紙を取り、健に向ける。
健は紙に書いてある文章に視点を合わせると、読んでいく。
「タケちゃん。アヤちゃん。ママは実家に帰らしてもらいます。お店は任せました…………っておい! 実家はここだろ!」
「コレは仕事をしないというママさんの意思表示だ」
「意思表示って、注文は受けてんだぞ」
「それがママさんだ。とりあえず健、」
湯気が上がるドカン鍋を指差し、
「蕎麦を茹でろ。私は、」
湯気が上がるドカン鍋から調理台を挟んで反対側、ガス代に乗ったドカン鍋と小さな鍋を指差し、
「私は鴨南蛮の汁をドカン鍋から小さな鍋に移し、温めて器に入れる」
「蕎麦を茹でろとか簡単に言うなよ。蕎麦処松田では打った蕎麦のデキから、温かい蕎麦か冷たい蕎麦で茹で時間を調整しないとならないんだ。茹で上がった後の水で締める加減も適当じゃないんだぞ」
「それでも、母親が経営するファミレスでチョコレートパフェさえ作らしてもらえない娘がやるより、父親が経営する寿司屋でガリを作ることを許された息子の方がマシだ」
「それはそうだけどよ」
ため息を吐きながら、現状では自分がやるしかないとわかっているため、バンダナを締め直す。袖をまくり、手から肘までを丁寧に洗い、ナプキンで水滴を拭き取る。調理台に視線をやり、茹でる前の蕎麦が入った箱を見て、深呼吸する。
彩乃は携帯情報端末を片手に、指先で画面をタッチしながら、
「健。蕎麦はちょうど二人分しかないから失敗はできないぞ」
「プレッシャーをかけるな」
何度か見た蕎麦処松田の厨房風景を思い出す。
健は、翔が蕎麦を茹でる姿を思い出しながら、バッと二人分の蕎麦を取り、湯気が上がるドカン鍋に投入。視線を横にやり、蕎麦を洗う場にあるザルとさえ箸を取ると、さえ箸を右手にお湯の中で蕎麦を泳がせる。
彩乃は携帯情報端末を耳に付けながら、健の横からドカン鍋を覗くと、
「健。見よう見まねとは思えないぞ。職人みたいだ」
「静かにしてくれ。俺は今、さえ箸から伝わる蕎麦の声を聞いている」
ドカン鍋の中を泳ぐ蕎麦を真剣な表情で見る。そんな健の邪魔をしないように、彩乃は携帯情報端末を耳に付けながら、
「?」
誰かに発信していたのか応答が無かったらしく疑問符を浮かべる。額から一滴の汗を流し、二滴三滴と汗は増え、健に声をかけようとするが、数秒前に注意を受けたばかり。焦りが表情に表れ、キョロキョロしながら困ったように携帯情報端の画面をタッチしスライドし始める。
健は背後で落ち着きのない彩乃が気になり……いや、携帯情報端末を耳に付けていた時点で、翔に連絡しアドバイスをもらおうとしていた、と長い付き合いからわかっていた。今現在、挙動不審になりながら携帯情報端末の画面と向き合っているのは、翔とは繋がらないという予定外にパフェを作れない彩乃は困惑し、ネットで鴨南蛮の情報を調べているという感じだろう、と健は考察する。汁を温めるだけだろ、という呆れる気持ちをため息と一緒に吐くと、
「彩乃。黙られながら背後で挙動不審になられると、それはそれでプレッシャーがある」
「健。鴨南蛮の汁は蕎麦を入れた後と前、どっちだ? ネットでは六対四で前という結果だが、こんな微妙な世間の声ではどちらが正解か判断しかねる」
「蕎麦処松田では、湯どうししてから器に蕎麦を入れて汁を入れる。とりあえず、小さい鍋に鴨南蛮の汁を入れて温めろ。沸騰させるなよ」
「沸騰させるな、とは九九度でとどめておくという事か? 無茶を言うな!」
「今のは俺が悪かった。鍋に汁を入れたら弱火でそのままにしておいてくれ」
鴨南蛮には他にも後入れの素材がある。だが、鍋に汁を入れて弱火で温める以外の事を、パフェを作れない彩乃にはやらせられないと長い付き合いから健は思い、大半の行程を自分がやる事にする。
「弱火だな。わかった」
彩乃は携帯情報端末を調理台に置くと、手を洗いながら、
「ところで、さっきは温かい蕎麦か冷たい蕎麦で茹で時間を調整しないとならないと言ってたのに、二人分を一緒に入れてもいいのか?」
「うおっ!」
蕎麦を茹でるだけ、鴨南蛮の汁を器に入れるだけ、言葉にすれば悪戦苦闘とは大袈裟かもしれない。しかし、それがお手軽なインスタントではなくお客様に提供するこだわりの一品、お金をいただく商品になれば高校生には重責になる。蕎麦の調理経験がない二人では尚更、けして悪戦苦闘と言っても過言ではないだろう。
蕎麦を茹でた茅野健と鴨南蛮の汁を器に入れた高田彩乃は、数分という短い時間、精神的には長い時間を葛藤しながら作った。その葛藤した商品、もりそばと鴨南蛮を食べる常連客を見る……いや、見やる。
母親が経営するファミレスでさえパフェを作らしてもらえない彩乃としては、自分が作った商品をお客さんに提供するのは初めての経験になる。
「健や翔はお客さんに商品を提供するたびに、こんな緊張感を抱えているのか?」
「ガリの場合は、提供する前に味を確かめられる。蕎麦の場合は……いや、翔の場合は自分で打った蕎麦を自分で茹で、水で締めている。鴨南蛮の汁は別として、一から十までを乗り越えた一品を翔は提供している」
緊張からの汗がバンダナを濡らし、翔の偉業に動揺しながら、更に内心を吐露する。
「茹でて締めただけの俺や、ましてや出来上がった汁を器に入れただけの彩乃とは抱える緊張感は別格だ」
「汁を入れるのは後か前か。そして、汁の量、肉の量、ネギの量の黄金比を翔に聞こうと携帯を握り、電源の届かない場所と言われた時の焦燥感。めげずにネット画像から調べた苦労。汁を入れただけとは言われたくないな」
「それは悪かった。次いでに一つ聞きたいんだが。俺達が作った物なのにお金を貰っていいのか?」
「ファミレスのチョコレートパフェは私以外のアルバイトやパートが作っている。問題ない」
「俺達はアルバイトでもパートでもなく、近所のガキだ。従業員でもないし、調理に関したら翔みたいに店主のママさんに認められているわけでもない」
「ママさんは仕事放棄して私達に任した。それは認められたと言っても過言ではない」
「そこに罪悪感は?」
「ある。それも、翔がいない事で仕事帰りの蕎麦を数日間食べられなく、デートの締めに蕎麦を選び、やっと食べられたと思ったら蕎麦の調理経験がない私達が作った蕎麦だからな」
淡々と言ってはいるが、内心では初提供からの緊張感で喉が渇き始めていた。
健は、失敗したガリを作った時に『こんなもん客に出せるか!』と父親に怒鳴られた時を思い出し、
「俺、兄さんに真実を伝えてくる」
「待て」
間髪入れず止める。けして初提供した商品の感想を聞きたいからではない。
「お兄は、味に不自然さがあれば何か言ってくる……はずだ」
「いや、兄さんは遠慮する日本人の典型だし、優しいから言ってこないだろ」
「お兄は昔、私等と会うたびに、新聞配達で稼いだお金で駄菓子を買ってくれていたな。だからこそ、最終確認として、お会計の時に満足したかを聞いてからでも遅くない」
言葉をいくら並べても二人の中にある罪悪感は消えない。
小学生の時に中学生だったお兄さんに駄菓子を買ってもらった思い出が、健と彩乃に重くのしかかる。
真実を打ち明けた方が良いと思う気持ちが湧き上がり、二人がデートのシメに食べる蕎麦の一啜り一啜りが重圧になる。
これが昔の恩を返せない自分達と翔の差だと苦悩し、ママさんがいなくなったと知った時に、何故、真実を言わなかったと悔やまれてならない。
カウンター裏、二人の前にある電話が、先ほどからピロピロピロピロとお気楽な着信音を鳴らしていても、緊張感と罪悪感から健と彩乃の耳には届かない。
常連客改め常連お兄さんは、額から大量の汗を流しながら顔を引き攣らしている二人に視線を向け、
「おぉい。電話が鳴ってるぞぉ」
「「申し訳ございません!」」
同時にバッと頭を下げる。
「?」
急な二人からの謝罪に疑問符を浮かべつつ、
「電話電話。さっきから鳴ってるよ」
「電話? ……電話……」
健は緊張感と罪悪感から電話に焦点が合わない。
一足早く焦点が合った彩乃が受話器を取ると、
「お電話ありがとうございます。蕎麦処松田です」
彩乃が電話の受話器を取り、なにやら慣れ親しんだように「おばあちゃん?」と言って話し始めると、食べ終わった常連お兄さんと彼女がお会計をするためにカウンターへと歩を進める。
健は、常連お兄さんに伝票を出され、ここでやっと焦点が合い、
「あ、あ、あ、不味かったすか⁉︎」
「んっ、いや、美味かったぞ」
「お、お、俺が茹でたんす!」
「そうなのか!」
常連お兄さんは目を見開く。その表情はどこか嬉しそうだが、健は罪悪感からその表情を見られない。
「お金は受け取れないす!」
「いやいや、それはダメだろ。なんか不安そうに見てたから何かなぁって思ってたけど、そんな事か。充分美味かったぞ。今度は健が打った蕎麦を食べさせてくれ」
血のつながりはないが、弟と思っている健の成長が嬉しくなり、満足していた気持ちが更に満足した。健の肩を軽く二、三度叩くと、財布から千円札を二枚出し、
「少ないけど、おつりでジュースでも飲んでくれ。また来るよ」
常連お兄さんが踵を返すと、彼女は健に笑顔で会釈し、二人は店を後にした。
ポカーンとした表情で二人の背中を見送り、扉が閉まるのを確認すると、深呼吸するように息を吸い、
「だぁぁぁぁ」
吸った分を声と一緒に吐き、カウンター裏にある冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。栓抜きを跳ね上げて蓋を取っぱらい、いち子オススメの甘酸っぱいオレンジジュース(裏メニュー)を喉に流し込む。
「だぁぁぁぁうめぇ! これが仕事から解き放たれた後に飲む一杯かぁ! 親父の気持ちがわかる! 彩乃、お前も飲め!」
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して彩乃に向ける。
「電話中か……んっ?」
電話中の彩乃の表情は、慣れ親しんだ相手に向ける時の顔だが……
彩乃は、幼少期からその時その場に合わして表情を作っている節がある。その彩乃の表情に、健は違和感を感じた。もしも松田翔がこの場にいたら、彩乃が通話相手の言葉に納得していない事を健と同じく感じただろう。
彩乃は受話器を置くと健の手にあるオレンジジュースを取り、栓抜きで蓋を取ると、喉に流し込む。
「彩乃。なしたんだ?」
「ばあちゃんからだった」
「井上のばあさんか?」
「翔といち子が昼過ぎの飛行機で帰ってるから今頃着くんじゃないかって」
「携帯の電源が切れてたんだろ?」
彩乃の表情に違和感を感じていた健は、余計な会話は不要だと視線に含ませて話の核心を求める。
彩乃はオレンジジュースの瓶をカウンターに置くと、
「飛行機に乗った時、携帯の電源を切ったから今もそのまま……と普通なら考える。だが、私達は『土日を越えて月曜と火曜も休むかも』と言い残して岩手県へ行った翔が『不定期の休みになる』という不吉極まりないメッセージを私や健にではなく担任の留守録に残した経緯を知っている」
「ストレスから解放された女教師が、休日の朝に留守電で不吉なメッセージを聞き、胃痛に苦しみながら翔に連絡したが不通。女教師クミちゃんは、俺に連絡をよこし『不定期で休む理由を親御さんに直接聞きに行ってぇぇ……あと救急車』と血を吐きそうな声で言ってきた」
「ママさんは、ショウちゃんは反抗期なの、と相変わらずだった。たしかに担任クミちゃんの胃に穴を空けるという意味では着々と反抗期ルートを歩いている」
そんなことより、と脱線した話を切ると、健のエプロンに引っ掛けてあるボールペンを取り、
「修学旅行の時、翔はいち子の小豆飯おにぎりを持っていた。今回も持っているはずだが、それは数日分。電話がばあちゃんからきたって事は何か訳あって秘密にしている。日数的に、今現在の時点でいち子の小豆飯を切らしている可能性があり、更に、おばあちゃんのバックアップがない事になる。ママさんもあの反応から翔といち子の行方を岩手県ということ以外は知らない。いち子の小豆飯が無い状況で、不定期の休みとは翔らしくないな。健、私の予測をどう思う?」
「同意見だな。一つ加えるとしたら、翔は反抗期になってもいち子を巻き込まない、というのは俺だけの見解か?」
「私の見解は、反抗期にいち子を巻き込んだとしても翔ならいち子に対応しようとする、だな。……だが……」
「いち子の世話をばあさんのサポートなく、ママさんなしに不定期とは……挑みすぎだな」
ところで、と言いながらバンダナを締め直すと、
「彩乃、いち子に不便をさせる行動を翔がする時は?」
「私達にも言えない何かがあって……いや、私達に連絡するのを忘れるぐらい冷静さを失う事が起きた。携帯の電源を切らなければならない状況という事から、現状、翔は切羽詰まってるな。その可能性を高めているのが、ママさんは兎も角、おばあちゃんに嘘を言ってまで北海道に帰った事にしている事だ。おそらく、おばあちゃんが知らないなら、おばあちゃんの孫や座敷童管理省にも秘密にしてる。携帯の電源を切ってるのは孫や座敷童管理省……いや、おばあちゃんに知られたくない事……あまり考えたくはないけど……」
「東北で何か……いや、何かではなくオロチだな。気になるのは、不定期の休みにしているのを秘密にしているって事だな。平泉にいるならオロチが蘇った瞬間にバレるし、秘密にしていたら余計な被害を生むから『北海道へ帰った事にする必要はない』はず。なんで秘密にしてると思う?」
「あくまでも予測だが。ママさんは、座敷童管理省特務員と学生という二足の草鞋に嫌気がさした翔が反抗期になり、風来坊にジョブチェンジしたと考えているだろう。私としては、おばあちゃんや座敷童管理省には言えないような、翔が切羽詰まるぐらいの何かが起こった……だな。だが、今ここで話ていても予想に予想を加えるだけだ」
カウンターに置いてある携帯譲歩端末を取り、画面を何度かスライドさせると、
「フェリーや青函よりも明日朝一の飛行機だな」
「彩乃。飛行機とか簡単に言ってるけどお金はどうするんだ?」
「レジの中にあるだろ」
ボールペンで精算機を差す。その表情に迷いはない。蕎麦処松田一日分の売上を使っていち子の御立腹を防げるなら、安いもの。大事の前の小事と思っている。
健は彩乃の売上金着服という意見、強行に対して、
「気持ちはわからんでもない。だが、不安ネタがスリーカード揃っていても、何かあったというのは『まだ』俺等の予想でしかないだろ」
「こっちがスリーカードだと思っていたら、大問題というジョーカー付きのファイブカードだったというのがあのバ……翔だ」
「あのバカって言えばいいだろ」
「そして、厄介事のスリーカードを全て捨て、勝負に出た結果、ワンペアにするのがいち子だ。私は、私というロイヤルストレートフレッシュにバイト代をベットする」
彩乃は翔といち子をポーカーゲームで例えると、自分が全てを解決すると言わんばかりに精算機へと手を伸ばす。
健はため息を吐きながら精算機に向かう彩乃の手を払いのけ、
「三時間ぐらい働いて飛行機代になる収入ってどこの高所得者だって話だ。……仕方ない。ばあさんの家に行くぞ」
「おばあちゃんは平泉にいる」
「合鍵もあるしセキュリティのパスワードも知ってる。仏間にある金庫に金が入ってるから取りに行くぞ」
「それこそ犯罪だ。合鍵、セキュリティのパスワード、金庫のダイヤルナンバーはどうやって手に入れた?」
「合鍵とセキュリティパスワードは、ばあさんのいない日にジョンの世話をするバイトをしていたから。金庫のダイヤルナンバーは、解鍵したら中身はくれてやるって言われてる」
「明日の朝までに解鍵できるのか?」
「解鍵してないと中に金が入っているなんて言えないだろ。解鍵した時は大金に悶絶して手を出そうとは思えなかったけど……まぁ、今は背に腹はかえられぬってな感じだ」
オレンジジュースの残りを飲み干し、井上家という宝庫へトレジャーハントに行く意思を固める。
「ば、ばあちゃんに聞いてからにしよう」
健の犯罪性の高い発言に動揺する。
「なんだその動揺は。売上に手を出すのは良くて、解鍵したら中身をくれてやると言われてる金庫はダメなんだ。それに、ばあさんから電話を受けた後に、俺等が金庫の金が欲しいなんて言ったら、勘のいいばあさんなら翔に何かあったんじゃないかって怪しむだろ」
「ダメだ。口約束でもお金の譲渡は本人の許可を得てからだ」
「レジの金をかっぱらおうとしたヤツの発言ではないな」
「何がかっぱらうだ。翔が後から返す事にすればいいんだ。ママさんなら、レジの中にこの紙を、」
業務用冷蔵庫に貼られていた紙の裏に【借用書。松田翔はレジのお金が必要になり、健に取りに行かせました。売上金は責任を持って返します。健が連帯保証人です】とボールペンで書くと、
「これを入れたら大丈夫だ。拇印はここ、捨て印はここだ」
適当に書いた借用書を健に向ける。
「お前さ、たまに俺と翔を罠にかけるような事をするよな」
彩乃から借用書を取りあげ、ビリビリと細かく破きながら、
「翔が後から返す事にするなら、ママさんに直接借りたらいいだけじゃねぇか。なにより、いち子の小豆飯を用意してもらいたいし」
「翔はママさんにも秘密にしてる」
「秘密にしてるってより……俺等にさえ言ってないんだから翔は話していないと思うぞ」
「……、……一理ある」
ボールペンを健のエプロンに引っ掛け、カウンターに置いあるオレンジジュースの瓶を取ると、中身を飲み干し、空き瓶を足元にある瓶ケースに入れる。
「健。店を閉めて、片付けるぞ。レジの締めは私がやっとくから健は片付けをしてくれ」
「わかった」
健は常連お兄さんの伝票にボールペンを走らせ、オレンジジュース『T』と正の字の数えで書き、先ほど受け取った千円札二枚を彩乃に渡す。
「釣りは【いち子の小遣い箱】に入れとけ」
トレイを片手に出入口近くのテーブルに歩を進め、蒸篭や器を片付けに行く。
「ついでに食器も洗ってくれ。私は、お金を袋に入れたら、洗った食器を拭く」
「いや、彩乃は量産品の割れにくいコップ以外は触るな」
「健。ファミレス経営者の娘は食器拭きから仕込まれるのを忘れているようだな」
「そのファミレス経営者の娘が拭かせてもらえているのは割れにくいコップのみだろ。そして、蕎麦処松田にある蕎麦猪口や器はファミレスで使う量産品ではなく、市場に出せばそれなりの値段で取引されている【伊庭】の作品。そして、ファミレス経営者の娘が割った作品はすでに……働いた分の給料をくれと言えるレベルではない。何よりも明日の営業に響く」
健は彩乃と会話しながら器や蒸篭をトレイにのせてテーブルを拭く。彩乃を一瞥しため息を一つ吐くと、厨房へ歩を進めながら、
「ファミレス経営者の娘は割れにくい量産品のコップだけを拭いていろ」
「ガリを作らしてもらえる寿司屋経営者の息子は言うことが違うな。だが、その目は節穴だ。一方、ファミレス経営者の娘は陶器を見る目がある。伊庭氏の真骨頂が出ていない作品など見るに堪えなくなり、割ったのだ」
「なんだその上から目線は」
呆れながら厨房へと入り、陶器の残骸が大量に入っているゴミ箱を見て、
「少しは反省しろ」
「反省するのは伊庭氏だ」
反省しないファミレス経営者の娘、彩乃はカウンターの下から売り上げ金を入れる袋を取り、精算機を開く。
健から受け取った伝票を精算し千円札二枚を納めると、小銭を数枚取り、踵を返す。
カウンター裏の棚には【いち子の小遣い箱】と筆字で書かれている木箱がある。形状は大きめの賽銭箱。彩乃は小銭を入れる。
因みに、いち子の小遣い箱の目的は募金や賽銭ではない。
翔と健と彩乃が小学生の頃、夏休みの工作に悩んでいると、いち子が神社の賽銭箱が欲しいと言い出し、これは一興だと苫小牧市の某神社の賽銭箱を参考に作った。しかし、賽銭箱の裏側や細かな細工など、好奇心旺盛な小学生でも座敷童ぐらい図太くないと覗き見するのは憚れる。結果、お金の取り出し口も無ければ楽器としての機能もなく『開かずの大貯金箱か。いち子は貯金が好きなんだな』と小遣い箱の大きさと取り出し口とは知らなかった三人のミスを担任が評価し、金賞を与えられた。たまに常連客や近所の人達がお金を入れていく。
彩乃は精算機にある小銭を袋に入れると、五千円札と千円札を輪ゴムで纏めて袋に入れる。小銭を入れる部分を取り出して一万円札を取り出そうとすると、底に【アヤちゃんとタケちゃんへ】と書いてある封筒があった。
「バイト代?」
蕎麦猪口や器を大量に割っても上から目線でいられる、心臓に毛が生えたズウズウしい彩乃は封筒を取り出し、中を開く。
「なるほど、これはバイト代ではないな」
彩乃に弁償代という概念はない。もしも封筒の中に弁償代という請求書が入っていても、一緒にいた健と働く原因を作った翔に弁償代と自分のバイト代を請求する。
そんな彩乃が見ている用紙は弁償代を請求するでもなければ、封筒の中に入っているお金もバイト代ではない。
「ママさんは担任から連絡が来た時点で理解していた……ということか」
手紙を黙読して関心する彩乃が手にしている用紙には【ショウちゃんは反抗期なのでアヤちゃんとタケちゃんが必要です。いち子ちゃんの小豆飯おにぎりは冷蔵庫に入ってます。プリプリママより】と書かれ、封筒には一万円札三◯枚が入っていた。




