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庭を後にしたアーサー•横山•ペンドラコは日本人の感覚に困惑しながら玄関に向かっていた。すると腰にタオルだけを巻いた男性特務員が、お風呂セットの入った檜の桶を片手に続々と現れた。
「大臣、露天風呂とはやりますね」
「さすが日本通の大臣だ」
「屋敷内も本格的な旅館だし設計から凝ってますね」
「温泉の効能はなんですか?」
「さ、さぁ……」
すれ違う度に露天風呂を作った事を評価されるアーサーだが、井上文枝が所有する家を買い取り特務員が住み込む前提にトイレやお風呂を男女に分けるリフォームをしただけ、庭は一切手を加えてない。そもそも露天風呂ではなく池、カルチャーショックに腹立たしくなっていた。
「どうなってるのよ日本人は……あそこは池よ。どう見たら露天風呂になるのよ」
呟きながら玄関に入ると靴を脱ぎ、右側の廊下へと歩を進める。少し進むと左側に開放された襖の先に三○畳程の大広間、右側には台所とは思えないプロ御用達の厨房がある。井上文枝と二十代前半の女性特務員が料理を作っていた。
「アーサー、後は黒飯が炊けるのを待つだけじゃ。お風呂に入ってくるんじゃ」
「はい。お先にいただきます」
「梓も入ってくるんじゃ」
「はい」
梓と呼ばれた容姿端麗なロングヘアの女性は梅川梓。特務員の中で唯一の女性になり——アーサーの役職は大臣になるので特務員とは別——苗字に『梅』とあるのは梅田家と近しい親戚筋になるからだ。達也の監視役として座敷童管理省にいる。
アーサーと梓は廊下を進み、道なりに曲がる。二メートルほどで突き当たりになり【ゆ】と書かれた赤色の暖簾が下がった横開きの扉を前にする。梓が扉を開け、暖簾をくぐって六畳の室内に入ると左側に【女】右側に【男】と書かれた暖簾があり扉がある。二人は左側の扉を開けて脱衣所に入る——
一○人分の脱衣棚とドライヤー完備の洗面所が二台ある一○畳の脱衣所。真新しい竹細工の籠や椅子があるため仄かに竹の香りが鼻腔に届く。
アーサーと梓は服を脱ぐ、スタイルの良さは健康的なモデルを思わすアーサーが一枚も二枚も上だが梓も日本人の中では群を抜くスタイルの良さがある。
他の脱衣棚には先客のいち子としずかのカボチャパンツ、それと井上杏奈の上下白のショーツがある。アーサーの紫ショーツと梓の薄いピンクショーツと比較すると杏奈の人権が失うため割愛する。
二人は歩を進めると扉を開けて浴場に入る。すると……
「ワタキのぉぉぉぉぉぉぉぉ! 出番じゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
タイル面に俯せになった全身泡だらけのいち子が、両足で壁を蹴り、ズザァァァァァァアとタイル面をヘッドスライディングする。
「行くでありんす!」
全身泡だらけにしたしずかが片足で壁を蹴り、サーフィンのフォームをしながらいち子を追う。
アーサーと梓は急な二人の特攻に思わず道を譲るが……「あっ!」と気づいた時には遅い。いち子としずかは扉という壁がある前提で特攻しているため扉が開け放たれていては…………止まれない。
勢いよく脱衣所に突っ込むいち子としずか。
アーサーの目にはスローモーションで竹細工の椅子に突っ込むいち子と、いち子の背中を滑って脱衣棚に頭から突っ込むしずかが映る。
「いっちゃん! しずかちゃん!」
アーサーは足早に二人の元に行く。
「ゆ、油断、したで、ありんす」
「しずか、遊びはこれまで、じゃ」
「ふ、二人とも、大丈夫?」
心配するアーサーの視線の先では、いち子が竹細工の椅子に手を置きながら立ち上がり、しずかは脱衣棚から飛び降りる。
「本番はこれからじゃ」
「勝負でありんす」
いち子としずかは何事もなかったように浴場に向かう。
アーサーは二人の背中を追うように歩を進める。すると、浴場の奥で梓が両膝をついて何かをしていた。
「? ……、……杏奈ちゃん⁉︎」
梓の膝元では、濡れタオルをおでこに貼って仰向けになった杏奈。黒縁眼鏡は曇り、のぼせているというよりは疲労している。
「杏奈ちゃん。だ、大丈夫?」
「体力には、自信がありましたが…………いち子ちゃんとしずかちゃんとの入浴は、普段のしずかちゃん一人の一○倍、です」
「普段はしずかに気を使われていたようですね」
梓は納得するように頷く。
「そのようです。今は二人の観察をオススメします。体力勝負だけだと思いますが一応対応策を松田さんに聞きましょう」
杏奈はゆっくりと立ち上がると広い湯槽に入り、顔だけ出して脱力する。
「身体を洗いましょうか」
「はい」
「…………」
アーサーは眠ったように脱力した杏奈を見ても、いち子やしずかと遊びたい気持ちが湧き出ている。だが、自分にはまだ早い、と考えを改める。現在の遊びは、普段から八太に引きずり回されている程度ではないのだ。
視界の先で遊ぶいち子としずかはタイル面を滑るだけでなく、重力に逆らいながら壁を垂直に滑り、天井に頭を強打する始末。無防備な体勢で落ちるのだが、急に身体を回転させてフィギュア選手顔負けにトリプルトゥループで着地する。そんな荒技を見せられたら思わず動いた身体と精神に疲労感を与える。
アーサーと梓は檜の椅子に腰を下ろすと、備えてあるスポンジにボディーソープを垂らし身体を洗い始める。
「翔君はいつもこんな遊びをしてるのかしら?」
「私が知る限りですが……いち子としずかと巴は座敷童の中でも特別です。遊び方も特別だと思います。それをお世話する松田家と竹田家ですから対応はできるはずです」
「八童トップ三、それをお世話する松田家と竹田家。……おばあちゃんが特別と言われる理由が更に理解できたわ。梅川家にも座敷童は居るの?」
「梅川は代々梅田家の後見人を務めていますから常駐型の座敷童とは無縁です」
「常駐型とは無縁?」
「江戸時代初期までの梅田家は放浪型座敷童と共に生きる旅芸人でした。その一座に梅川や加納家……他の特務員の一族もいました。家を持たない旅芸人には常駐型とは無縁です」
「今は旅芸人でないわよね?」
「梅川は旅芸人からサーカス団に変わり、日本国内を回ってます。家はありますが年に一ヶ月もいません」
「梅田家もサーカス団に?」
「いえ、梅田家は経営なのでサーカスはしません。梅川がサーカス団の団長を務め、興行の広告などを加納家、他にも動物のお世話や調教など今いる特務員の家がやってます」
「一致団結してるわね」
「稼業ですから……それに座敷童に喜んでもらえるのはサーカスだけなので」
「梅田家が経営に入らないで…………いや、時代が進むにつれて経営は難しくなるし、専門的に経営する人間がいないとやっていけない。一箇所から動かない常駐型をお世話するより各地の座敷童を見て回る方が『人間として』は難しいわ……ね」
全身を洗い終わったアーサーがゆっくりと立ち上がると梓もそれに続く。二人は歩を進めて杏奈がいる湯槽に向かう。
「人間には普段の生活にお金が必要です。座敷童に対しての御供物も同じです。何代も前から限界だったんです」
「それで座敷童管理省、てわけね。翔君のお母さんが、梅田家を座敷童の世界から足を洗わせるのが『真心』だって言ってた理由がわかったわ。自分達の首を締めながら座敷童に尽くしても座敷童は遠慮するだけで喜ばないものね」
「はい」
浴槽を見るといち子としずかがプカプカと浮きながら息止め勝負をしていた。アーサーと梓は浴槽に入ると黒縁眼鏡を曇らせる杏奈を挟んで座る。向かって右側に梓、左側にアーサー。オセロなら黒を白で挟むことで白にできるが、豊満な二組の胸で杏奈を挟んでも微細な変化も起こらない。現在は第二次性徴期中だが期待はできない、少ない可能性だが第三次性徴期に望みをかけたい。しかし、杏奈は望みという不確定に心を惑わされない、祖母と体型が似ている以上は期待するだけ無駄と割り切る。従って豊満な二組の胸に挟まれても心情に変化はない。
「アーサーさん。浮かない顔をしてますが……どうされました?」
「梅田家の事情や特務員みんなの事情を聞くと、座敷童は好きだけじゃダメだって翔君に言われてた理由がわかった気がして……」
「固定したスポンサーがいないサーカス団で興行できるのは梅田家の経営手腕と独自の情報ルートがあってこそです。私としては、経営を担当してる梅田家が他の分野に目を向ければもっと座敷童と向き合えたと思います」
「杏奈ちゃん、知ってたの?」
「はい。当代までの確執は必ず次代の御三家にも飛び火してきますから梅田家の実状を調べました。そしたらサーカス団の幹部が梅川さんや他の特務員と同じ名前だったり、広告の指定企業も加納さんの家にたどり着きました。アーサーさんにはまだ報告する段階ではなかったので言ってませんでしたが……気になる事がありますか?」
確執とは簡単に解けないから確執になる。現在、松田翔と梅田達也が仲良くしてても不利益がお互いにあれば仲良し程度の信頼関係など一瞬で瓦解する。確執があった者同士なら尚更。
次代の御三家には信頼関係が無いに等しく、杏奈が対策を考えて緊急事態を予想の範囲内にしてもオロチなどの大元で動くのは御三家、座敷童管理省は補佐になる。そんな御三家が信頼関係なく次代にも確執を引きずるような事があれば座敷童管理省は板挟みなりかねない。実際に達也が改心する前はアーサーが板挟みになっていた。
理想は御三家と座敷童管理省が穂先を揃える事になるのだが……それには表面上の情報だけではなく、確執があっても短所を埋める長所の情報が必要になる。アーサーに報告してない時点で、杏奈の中には表面上の情報しかなく今のところは長所が無いという事になるのだが……
アーサーは、杏奈の「気になること」という言葉を履き違える事なく、梅田家の表面上を聞く事にする。
「負債は?」
負債という二文字の言葉に含まれる問いには、経営者としての表面上の梅田家を意味する。第一印象に頭髪や服装などを見る面接官と一緒で、負債とは資産運用という経営者としての顔がわかる。
「細かな数字は省きます」
杏奈は一言添えてから淡々と繋げる。
「サーカス団と広告会社は赤字。しかし、グループ会社の一つにサーカス団や広告会社などの荷を運ぶ運送会社があり、その運送会社が大手企業のショッピングモールや大中小問わない企業との業務提携で赤字を補ってます。この企業の中には一部の閣僚へのお金……天下り先になってるので梅田家と政治家には密接な関係があると思われます。話は逸れましたが、梅田家の経営で作る負債の方は、銀行からの融資を得て広告会社からのブランディングに力を入れサーカス団を宣伝すれば黒字を出せます。それだけの集客力を持つサーカス団という事です。ですが……」
黒縁眼鏡が曇ったため水面にレンズを浸して曇りを取る。
「どうしたの?」
アーサーは黒縁眼鏡が曇ったから杏奈は言葉を濁らしたとは思わない。
【ブランディング】……CMや広告などで広い範囲に自社のブランド力を伝えて集客数を増やす企業戦略の一つ。
広告会社がグループにあるならCMは別としても広告や雑誌でのブランディングには事欠かない、アーサーが疑うのは政治家が絡む以上の……
「広告会社がゴースト企業なの?」
「……いえ、」
杏奈は古い体制の企業と政治家の癒着に疑いを向けたアーサーに対して意外感を顔に出す。いや、もしかしたら今だにゴースト企業を使う政治家がいるのか? とアーサーに対しての意外感ではなく政治家に対しての意外感だ。
「ゴースト企業ではなく、経営戦略への疑いです」
「経営戦略?」
「はい。サーカス団としてのマーケティングと広告会社からのブランディングを最低限にして集客数を抑えている傾向があります。私の予測ですが……サーカス団に遊びにくる座敷童と遊ぶ時間を増やすためにワザとそういう経営をしているように思えます」
杏奈の言う事を簡単に説明すると、三ヶ月前から○○県にサーカス団が来ると雑誌やCMで宣伝すると、その宣伝力分の集客数が期待できる。この三ヶ月前からというのと宣伝力が重大で、一ヶ月前なら一ヶ月分の集客数しかなく、一週間前なら一週間分の集客数しかない。宣伝力に関したら雑誌のページの端に載せても効果は然程ない。長ければいいというものではないし派手に雑誌に掲載してもいいというワケではないが、杏奈の調べた現状の結果では梅田家は故意に宣伝力を減らしている疑いがあるのだ。
アーサーは開いた口が塞がらなくなり、嘆息を漏らす。
「…………何してるの梅田家」
「グループ各社に社長を置いてないワンマン経営者にありがちなパターンですね。私の予想が正しければ、会社が大きくなれば自分の遊ぶ時間がなくなると思って……」
「いえ」
杏奈の言葉に被せて否定したのは梓、表情を暗くさせて言葉を繋げる。
「社長……いえ、梅田家当主は我々のために御自分の時間を削り、現場の我々に座敷童と深く関わらせようとしているのです。結果を出せない我々が不甲斐ないのです」
「なるほど……。梅田さんしか知らないので梅田さんを前提に考えてました。梅田家当主は聡明な方なのですね。失礼な発言でした。申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず。達也の素行の悪さも…………」
「「ぶふぁぁぁぁぁぁぁぁ!」」
息止め勝負をしていたいち子としずかは同時に顔を上げる。
「ぶはっぶはぁ……互角でありんす」
「わ、ワタキは、ぶはぁ、まだ余裕じゃ……はぁはぁ」
会話が途切れたものの二人の遊びに微笑ましくなるアーサーと梓。杏奈はふと先ほど感じた違和感を思い出し、いち子と再勝負を始めようとするしずかを呼ぶ。
「しずかちゃん?」
「?」
しずかが疑問符を浮かべて杏奈を見る中、いち子は水面に顔を付けて一人息止めを始める。
「なんでありんす?」
「龍馬さんと八慶君が金鶏山に行くって言ってた時に八太君が元気なかったから……何かあったのかなって」
「金鶏山には八太の妻子が眠ってるでありんす」
「「ぶっ⁉︎」」……アーサーと梓は吹き出す。
杏奈は吹き出しそうになったのを寸前のところで止め、水面に顔を付けようとするしずかに手を伸ばして止める。
「なんでありんす?」
「し、質問がいっぱいある、かな……」
あの八太君に妻子が……? 座敷童として幾年も生きて少年青年と姿を変えるなら妻子がいても……。と脳裏に過ったものの、杏奈が見てきた悪ガキ八太からでは妻子持ちの想像ができなく戸惑うばかり、しかしこのままでは話が進まないため補足する。
「八太君に、妻子って事は、あの八太君が結婚してるって事だよね?」
補足なのだが疑いを込めた質問になってしまったのは動揺するが故。
しずかはそんな杏奈の動揺を気にすることなく返答する。
「わっちの親友の【さと】でありんす。八太には勿体無い女でありんす」
「さと? さとと言えば……たしか金鶏山の麓にある千手堂境内に源義経の正室郷御前のお墓があったけど関係ある?」
「さとでありんす」
「それだと八太君が源義経って事になるんだけど?」
「八太は八太になる前は遮那でありんす。中二病が悪化して遮那王と自分で言ってたでありんす。源義経は、さとと八慶と一緒に平泉に遊びに行く途中、さとの家主の子供、頼朝に会いに行った時に意気投合して八太と頼朝は兄弟盃を交わしたでありんす。その時に、中二病の頼朝と八太は源義経という名前と設定を作ったでありんす」
「八太君があの源義経……頼朝と会った時期もだけど人間側の歴史と全然違う……」
「さとは常盤の家の常駐型座敷童でありんしたが、常盤は頼朝の中二病を心配して様子を見に行ってくれと頼んだでありんす。親バカでありんす」
「常盤御前は慈愛に満ちたイメージがあるから親バカでも納得だけど……源頼朝のイメージが……私の偉人ランキング二位の源頼朝が……でも中二病は時期的なものだし……」
坂本龍馬のイメージを座敷童龍馬にぶち壊された時と同じく、動揺と困惑が生まれる。龍馬のように偉人ランキングが下降しないのは実際に見たか見ないかの違いしかない。これ以上、源頼朝のイメージを落としたくないため話を変える……が……
「八慶君も一緒ぉ……慶? もしかして弁慶⁉︎」
杏奈には珍しく声を挙げる。
「八慶の八童になる前の名前は弁慶でありんす」
「……、……しずかちゃんは?」
八慶が弁慶、八太が源義経、杏奈が予想するまでもなく……
「わっちは八童を辞めて八重からしずかになったでありんす」
「し、静御前?」
「御前ではないでありんすが御前と呼ばれてたでありんす」
「源義経、弁慶、静御前が座敷童……確かに歴史的にもこの三人は不明な点が多い。源義経は人間とは思えない跳躍で船から船に飛んだり。弁慶は言葉とおりの一騎当千。静御前は日照り続きの都に雨を降らしたりと……でも郷御前は出生から確かなものが……」
「頼朝が設定に拘って物語を書いてたでありんす。勝者が歴史を書き換える時代でありんすが、頼朝は中二病全開に設定や名前ごと書き換えてたでありんす」
「徳川家康が見本にした鎌倉幕府を立ち上げ……現代でもその英智の影響力が高い源頼朝が中二病…………」
いや、違う。と内心で否定する。何故なら、あくまでもしずかから見ての源頼朝だからだ。杏奈は龍馬のように源頼朝を偉人ランキングから下降させず、
「しずかちゃん。源頼朝は中二病でなく創造性がある人物だよ。たとえ人間側の歴史が設定で作られた物語でも、現代にまで影響力があるんだから」
杏奈は人間側の歴史から結果論でしずかに対抗する。その杏奈の対抗に、しずかの悪戯心が湧き上がり、口の端を吊り上げ悪い顔を作る。
「八太とさとの出会いも座敷童側と人間側で違うでありんす」
「二人の出会い?」
「頼朝は人間側の設定とは別に、座敷童側に物語として実録を残してるでありんす。わっちの部屋にありんすが……聞きたいでありんすか?」
「……、……き、聞きたい、かな」
笑いを堪えるしずかの表情に杏奈は息が詰まる。それはアーサーや梓も同じ。
しずかはそんな三人の表情を楽しむように、白拍子さながらに物語を謳う。
「題目は『遮那の一目惚れ』————」
いつも、いつも、人に迷惑をかける鞍馬寺の遮那は、友達が一人もいませんでした。
遮那は今日も、夜な夜なお寺を出て五条大橋に遊びに行きました。
人から刀を奪うため。
人からお金を巻き上げるため。
遮那は悪戯と思っていても、悪い悪い蛮行。人々は遮那を嫌い、座敷童も遮那を嫌いました。
だから今日の五条大橋は誰も通りません。誰も遮那に会いたくないから。
深夜になり、誰も訪れないから遮那は帰ろうと思いました。
すると、何処からともなく笛の音色が耳に届き、遮那は誘われるように音色の方へと振り向きました。
短く刻む音色は、悪童を叱るように心を締め付け。
長く伸びる音色は、悪童を優しく包むように心を和ませる。
まるで、父親のように厳しく、母親のように優しく……
遮那が笛の音色に聞き入っていると、笛の音色は静かに止まりました。
「悪童遮那とはお主かえ?」
「…………」
彼女の言葉に遮那は応えらませんでした。
彼女が美しすぎて。彼女の美しい瞳に心を奪われて。
「悪童遮那とはお主かえ?」
彼女は先ほどと同じ言葉を言いました。
……ですが、遮那は何も応えません。
「悪童かえ? 遮那かえ? 悪童かえ? 遮那かえ?」
何も応えない遮那の脛を彼女は蹴りました。
「…………」
痛くはない。痛くはないのに彼女の一生懸命な一蹴り一蹴りが遮那の心に響きました。笛の音色のように……
「やめろ。そんな蹴りは痛くも痒くもない」
「悪童なら怒るはずなのじゃ。お主は悪童遮那ではないのかえ?」
「遮那王、だ」
「遮那王? 悪童遮那は悪童遮那王かえ?」
「そうだ」
「妾はさとじゃ。今日から妾が遮那王の家主じゃ。妾を守ってたもれ」
彼女の美しい瞳が不安で不安で曇りました。
遮那は、彼女の不安で曇る瞳に胸が締め付けられました。戸惑いました。でも、どうして戸惑っているのかわかりません。初めての経験だから……
「……、誰かに狙われているのか?」
「妾は都から出た事がないのじゃ。外は危険が危ないと聞いているのじゃ。妾を守ってたもれ」
「危険が危ないんじゃなく危ないから危険なんだ」
「 ……? ……! 危ないのかえ! 危険かえ! 遮那王とどっちが危ないのが危険かえ⁉︎」
世間知らずな……さと。
言葉がおかしい……さと。
そんなさとに遮那は呆れながらも大笑いして答えました。
「わかった。わかった。お前は何も心配するな。俺が好きな場所に連れて行ってやる」
「遮那王の方が危険かえ?」
「俺が一番危険だ!」
ガオッとさとを脅かすように言いました。でも、さとはケラケラと笑い、遮那に眩い笑顔を向けました。
「それなら安心じゃ」
「!」
遮那はさとの美しすぎる瞳に、眩い笑顔に——
顔が真っ赤に……
服も真っ赤に……
瞳も真っ赤に……
——全身が茹で上がるように真っ赤な湯気が出ました。
さとは真っ赤っかになった遮那に言いました。
「遠い遠い北の地に黄金に輝く街があるのじゃ。そこには雌雄一対の金の鶏がおるみたいじゃ」
「ひ……、ひら、平泉の、事か?」
「遮那王は行った事があるのかえ⁉︎」
「昔、兄者と、一緒に、な」
「兄者? 遮那王の兄様かえ?」
「弁慶、兄様、だ。今は、比叡山に、いる」
真っ赤っかの遮那とさとは、五条大橋に朝霧が立ち込めるまで時間を忘れたように話してました。
遮那はずっと真っ赤っかでした。
「——でありんす」
「それって五条大橋の牛若丸と弁慶の……?」
杏奈は『遮那の一目惚れ』よりも人間側に伝わる歴史の真実が気になった。しかし、その答えは杏奈の期待を裏切るモノでしかなかった。
「人間側のは、八慶(弁慶)に怒られた頼朝と八太(義経)が物語の中だけでも八慶に勝ちたいから作ったでありんす」
「日本伝統の歌舞伎の題材になってるのに……」
「遮那の一目惚れは、八太が頑なに二人の出会いを話さないでありんすから、頼朝とわっちが金箔料理を餌にさとから聞いて書いたでありんす。せっかくでありんすから、わっちといち子は鞍馬寺と都で八太が迷惑をかけた人々や座敷童に遮那王日記として配って回ったでありんす。続編の『さとの崖下りに義経てんてこ舞い』と『溺れたさとを助けるために船から船へと』も大好評でありんした」
しずかは笑い話のように喋っているが、どれも……
「杏奈ちゃん……一ノ谷の戦いと壇ノ浦の戦いよね?」
アーサーは動揺しながら杏奈に聞く。
「……はい。義経伝説が……形成逆転した義経伝説が……戦ではなかった可能性が……」
偉人ランキングが……と黒縁眼鏡のレンズだけではなく全身が真っ白になる杏奈。比喩なのだが、精神的ダメージが大きいようだ。そこに追い打ちがくる。
「平安時代は座敷童が見える側の人間が多かったでありんす。そこに、オロチの蘇りが活発でありんしたから戦どころではないでありんす」
「ふぁさ〜…………」
杏奈は真っ白な灰になり湯と一体化した。もちろん比喩である。
「むっ!」
杏奈の落ち込みを楽しんでいたしずかはブクブクブクと水面に浮く泡と異様な気配を感じ取り、視線を水面に顔を付けるいち子に向けると、間髪入れず水面に顔を付ける。
「ぶはぁ!」
いち子は水面から顔を出し、バッとしずかの方を向く。
「むっ⁉︎ ……」
チラッチラッとアーサーと梓を見て、何かを訴えるように目力を強めると、そぉっと水面に顔を付ける。
「これはアレかしら……」
「見なかった事にすれ、という事ですね」
「ぶはぁ!」
しずかはワザとらしく水面から顔を出し、勝ち誇った顔を作るといち子の方を見る。
「なっ! ……」
ジッと何かを訴えるようにアーサーと梓を見る。二人が目を泳がせて明後日の方向を向くと、ゆっくりと顔を水面に近づける……が。
「ぶははぁ!」
いち子が顔を出す。
「⁉︎」
「しずか。ワタキの勝ちじゃな」
「い、いち子は一回顔を出したでありんす」
「なんでワタキが顔を出したのを知ってるんじゃ?」
「見てたからでありんす」
「顔を出してないと見れないからワタキの勝ちじゃ」
「……。いち子、勝負でありんす!」
「ご飯の時間じゃ。去年、翔の修学旅行で東北に来た時は『金の雌雄は約束を守る』しか話してないからのぉ……今日は『遮那の一目惚れ』じゃな」
「‼︎」
動揺するしずか。
「き、聞こえて、いたで、ありんす、か?」
「何をじゃ? しずかはワタキ『等』と一緒に息止め勝負をしてたんじゃろ?」
湯槽から上がるいち子は小さな身体ながらも普段とは違う威圧感を感じさせる。
「……そうでありんすな。息止め『も』わっちの負けでありんすな」
表情を曇らせながらも口元だけ微笑を浮かべるしずかも湯槽から上がる。
そんな二人、特に普段とは違ういち子の雰囲気に……
「アーサーさん。しずかちゃんの見た目年齢とは反した口達者といち子ちゃんの今の雰囲気は『やはり』見た目相応なフリをしていた可能性がありましたね。『二人に関して』は……ですけど」
「ザッとだけど推定年齢は三歳から二十歳前後ね。それとは別に、早風呂の杏奈ちゃんが今の今まで湯槽に浸かっていられる……食事だけでなく座敷童が触れるモノが全て良薬になる可能性も出たわ」
「松田さんはこの可能性に気づいてませんでした。もちろん梅田さんも。加納さんや特務員から報告を受けていたとおりになったのは驚きましたが……」
「御三家では何故、世話役に教えないのか? ですね」
梓は、杏奈とアーサーの補足に『答えた』。
「竹田家を見てからになりますが『この答え』を次代の御三家に突き付けて『貸し』を作る事にしましょう」
杏奈はレンズが曇る黒縁眼鏡を右手中指で押し上げて更に繋げる。
「それが『梅田家当主』と『松田家当主』の策であり、次代の御三家が揃った時に現御三家が座敷童管理省の資質を見る課題だと私は思いますから。梅川さん……梅田家の後見人としての『答え』は?」
「大臣は二人が二十歳前後と言いましたが、いち子が口の軽いしずかを楽しんでました。私達に話してるのを楽しんでる時点で遊びです。松田さんや達也に『私達から』言っても信じないとわかっているから『遊んでいる』のです。座敷童管理省の言葉はまだまだ御三家には届かない、と私には思いました」
「次代御三家が知らない事の、情報提供は、餌に……なり、ますか?」
長湯ができない杏奈はいち子としずかが上がって身体的に限界になっていた。
「……、上がりましょうか」
「そうね」
梓とアーサーは杏奈を湯槽から上げるとそのまま脱衣所に向かう。
「梅川、さん。餌になり、ますか?」
杏奈は息絶え絶えに言う。
「梅田家当主が言うには『次代竹田家は次代松田家には負けるだろうが……座敷童に成れるに相応しい人間だ』です。即ち、子々孫々の御三家後見人に選ばれたお濃様と同じだ……と社長……いえ、現梅田家当主のあの方が言っていると私は受け止めてます」
「そうですか……。アーサーさん……人間としての、生がある内は、座敷童管理省は『やはり』……松田さんに賭けるしか、無いようです」
ぐったりと脱力して杏奈は気絶する。
「特務員梅川? 次代松田家には負ける、というのは?」
「私は世話役にお会いできて光栄です。達也は松田家当主から電話が来る度に加納や私に電話してきて自慢してました」
「松田家どんだけよ」
「わかりやすく言えば、神童いち子がお世話されたいのが松田家です。一般の座敷童でさえ見向きもされない我々から見れば世話役でさえ高貴に見えます」
「あの白髪しか特徴のない天パが高貴ぃいぃぃいぃ?」
「…………」




