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場所は奈良県、東大寺。
大仏殿の裏には木々と芝が茂った講堂跡があり、その西側には大仏池がある。
大仏池は二ツ池とも呼ばれ、八○センチ前後の石柱に鉄パイプを通した柵が池の外周を囲う。東側を見れば大仏殿の屋根が見える。
昼間には鴨が悠々と泳ぎ、鹿が我が物顔で歩き回り、時にイノシシなどもいる大仏池も、夜の一九時にもなれば静まり返り虫の鳴き声しかない。
その中に、提灯が吊るされた細い棒を持ちながら大仏池を眺める人影。
吉法師。
視線の先は提灯で照らした位置でなく、池の中心。
手入れが行き届いた風景と吉法師の凛々しく整った顔立ちは見る者に風情を感じさせるが、その目はやはり陰鬱。吉法師の口が力なく動く。
「座敷童になり、人の世を捨てておきながら、このような形で足を踏み入れる時が来るとは……」
周りには誰もいない。独り言に返答する者はさぁと吹く夜風のみ。吉法師には陰鬱な雰囲気はあるが、風の音色に癒されている姿は、絵になる。
吉法師が視線を向ける池の中心に不自然な波紋が生まれると、人の顔が浮かび上がり、吉法師の元に泳いでくる。
暗がりで顔は見えないが、吉法師に近づくにつれて提灯の明かりがその少年の顔を照らす。
「吉法師。悪い予感が的中ぜよ」
ザバァと池から上がった開口一番に土佐訛りを出すトランクス一丁の少年。
アフロと勘違いしてしまう頑固な癖毛は水に濡れても形を残し、笑顔で出来上がった清々しい顔立ちは少年の性格を表す。だが、神妙な面持ちなのは眉間に寄せたシワから伺える。
吉法師は袈裟からタオルを出し、頑固な癖毛頭の少年に向ける。
「龍馬、松の字は動くと思うか?」
「らしくないぜよ」
龍馬と呼ばれた頑固な癖毛頭の少年はタオルを受け取り、頭の水気を取りながら、
「八重……今はしずかじゃが、あの跳ねっ返りが八慶と八太を連れて行ったんじゃ。松田家は九分九厘動かんぜよ」
「そうだといいがな」
「天正元年九月。東大寺に戦の火、人のしがらみを入れないために、来世に残した織田信長の仕事ぜよ。ワシは知らんが当時も松田を謀ったんじゃろ? 八慶と八太を助けるために」
「現代の松の字の当主も当時と同じならば動かないが……あの者は梅の字を快く思ってない」
「その為にワシがしずかを近畿に呼んでお主が東大寺に押し掛けたんじゃ。今頃、翔に『吉法師が悪い子になったでありんす』とか言うとるぜよ」
「八慶と八太を先に追い出せば八重が松田家と東大寺に押し掛けるが……三人まとめて追い出せば『三人に原因がある』と考えて時間を稼げる。気づいた時には我の用事は終わっているが、松の字の当主がどう動くか」
「梅田が座敷童管理省いうもんを作ったおかげで松田の当主はカンカンじゃき。梅田家の役目じゃあ言うて動かん。問題は翔じゃ」
「翔ならば我の意図に気づく。翔が当主であったなら我の策は机上の空論に終わっていたところだ。松の字は良い跡取りに恵まれた。……達也が気づかないのは残念だがな」
「社会勉強じゃ。若い内は冒険させるもんじゃ。お主が珍しく目を掛けてる人間じゃき、ワシも期待しとるが……まだまだトゲのない金平糖じゃ」
「ふっ……、ゆっくりと成長していけばいいのだ。その成長する場所を我やお主のような『座敷童になった人間』が作るのだ」
「……、ほんに人を育てるのが好きなやっちゃな。まぁええわい。明日はウワバミ退治じゃ。達也はワシに任せて吉法師は休んどき」
「うむ」
吉法師と龍馬が視線を向ける先は暗がりの大仏池、龍馬が最初に顔を出した中心辺り。
その水中では、紅い光が心臓の鼓動を思わすようにドクン……ドクン……と鈍く点滅している。