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お待たせしました。
時は、もう冬。
一大イベントが差し迫っている。
部屋には機械音と耳を済ませれば聞こえてくる呼吸音だけだ。
かたかたとキーボードに打ち込んでいた指を止めて、一通りの内容を確認すると息を吐いた。
これで、できたはずだ。
先輩たちを音を立てて起こさないように部屋の扉を開ければ、ピリッとした冷たい空気が耳をピクリと動かした。
冬だ。数週間前に感じたことをそのまま反芻するようにそう、思った。
上着を取りに行くのも億劫で、季節外れのサンダルを履いて、教授のいる棟に向かう。
出迎えてくれた教授はいつも通りにこやかに微笑んで、論文を受け取った。
「お疲れ様、平川君」
一通り目を通してからそう言うと続けざまに窓を見て言った。
「雪が降るかもしれないね、風邪をひかないように。よいお年を」
「はい。教授も、よいお年をお迎えください」
外は昼間だというのに暗くて、確かに雪でも振るのかもしれない。
研究室で上着を持って、最近買った革靴を履く。
叶野先輩たちがひらひらと振った手にハイタッチをして部屋を出た。
「よっしゃ」
小さな声で喜びを表して駆け出す。
今日は傘を持っていないので、早めに帰るべきだから。
家に着いた時刻はまだ昼を少し過ぎたあたり。
図書館にでも寄って資料を確認して、それから大学に向かおう。
いつもだったら寝てしまう疲労感が今は心地よいくらいの疲労感にしか感じない。
調子が良い、なんて考えは彼女に怒られそうな気がして、念のためにマフラーを巻いた。
図書館はとても空いていた。すぐに用事も終わり、彼女の大学の入り口に立つ。
しばらく待っていると彼女と友人らしき集団が見えて、まだこちらには気付いていないようだった。
遠目で表情は分からないが、はしゃいでいる空気が分かる。
確か今日は、定期試験の日だったはずだ。終わった解放感に浸っているのだろう。
そんなことを考えて待っていると一人が私に目を向けた。
すると全員の視線がこちらに向いて、その中で目を丸くしているであろう水穂が目に浮かぶ。
友人たちに何かを言ったのかこちらに駆けてきてすぐさま腕を掴まれる。
そのまま駅の方角へと引っ張られていく。
「なんで来てるの!?」
「え?え?駄目だった?」
「足を動かす!!」
言われたとおりに引っ張られている状態から隣に並走するように並ぶ。
段々と早歩きになり、その頃には駅が目前と言ったところだった。
お互い帰宅部にしては、いい運動量だったのかもしれない。
息を切らしている水穂の背中をそっと擦ると弾かれる。お気に召さない様子だった。
「なんで、来てるの?」
「論文終わって、会えるかなあと思って寄った」
息切れとは別の溜息が聞こえる。
「来るときは連絡してって言ったわよね?」
「今日、定期試験だったよね?携帯で連絡付かないじゃないか」
私は規則で携帯を回収されることを指摘する。
「……」
黙りこくった彼女に苦笑してしまう。
きっと水穂の予定を把握している驚きと、私の論文が予定より早く終わったこと両方に戸惑っているのが分かる。
あ、加えて目の前に現れているのだから尚更なのかもしれない。
頑張ったのを褒めてほしい、なんて言うのは我が儘が過ぎるのだろうけど。
「わざわざ来なくていいって言ってるの」
感情を抑えたような震えた声だった。
「迷惑?」
「そうよ。油売ってる暇あったら次の資料集めでも――」
「終わらせてある。やることはやってから水穂に会いに来てるよ。それでも迷惑かな?」
息を切らしていて、頬が紅潮していて、白い息が見えては、消える。
「来なくていい」
頑とした言葉だった。
表情は見えないけれど、それが彼女の気持ちなのだろう。
「分かった。これからは連絡する。ごめんね」
「……ええ、そうして」
手を握る。彼女の手が少し震える。私の体温はそれだけで上がったように感じる。
「じゃ、デートしよっか」
「はいはい」
彼女は少し顔を赤くして、駅の時刻表に目を向ける。少しだけ表情が動いたけれど、それだけだった。
「どうかした?」
「何でもない。電車、もう来るみたいよ」
それから色々と下調べをしたデートコースを進んでいく。
新しくできた、スイーツに評判のあるカフェ
水族館
スケートを解放している公園
彼女は寒いと言っていたので、少し失敗だったかもしれない。
運動もそう得意な方ではない彼女には、ネット通りの情報では上手くいかないことばかりだ。
「……ありがと」
「どういたしまして」
彼女は笑う。文句なんて言われたのは別れてからの小言が初めてだ。
やっぱり彼女は上手く笑って、でもやっぱり少し経過すると眉の角度は意外とそうでも無くて。
「みーくん?」
怪訝な顔をする水穂も可愛い。
「何?」
「デートコース、考えてくれてたの?」
「そりゃあ、ね」
高校生時代はその場その場で遊んでしまっていたけれど、大学生にもなれば経済の余裕も出てくるわけで、
選択肢は気付いたら増えているものだ。
進学して、あるいは就職して、もしかしたら出世して、そうやって、広がっていくのだろう。
――彼氏と、結婚と、子供、とか。
よぎった思考に気付いた様子は無い。表情は変わっていない。
「ありがと、みーくん」
彼女は、綺麗だ。
人に気を遣って笑えるし、見た目だって悪くない。可愛くて華奢なその姿は庇護欲だって湧くだろう。
「どういたしまして」
こんなに寒いデートだっていうのに彼女が寒いと言ったのは一言だけで、それだけだ。
「冷えてきたね、帰ろうか」
手を伸ばす。返事を聞かずに私は彼女の手を握った。
震える彼女の手は、いつも通りだった。
でもすごく、冷たい手だった。
大学に着くと、浮いたように前を陣取っている席に近づく。
訝しむような表情で顔を合わせ私を認識する。言葉は無く、彼女はノートに目を落とした。
「今日はどんなご用件?」
「水穂について。もう一度仲良くなりたいんだ」
席に座ると同級生の絵里子は興味深そうにこちらを見た。
「本人に言えば?」
至極真っ当な答えに私はそれもそうだねと頷いて鞄から教科書を取り出す。
「あの子の好きな物とか趣味とか、高校の頃とそう変わってはいないわ。誰かさんが仲良くしていた時と同じよ」
「そっか」
「めぼしい情報が無くてがっかり?」
「いや、いい情報だった」
彼女はノートから目を離さずに答え、それだけ忙しい時期なのだな、と思う。
私もそこにいるはずなのに、不思議な感傷だな、と思う。
早く終わった講義だというのに、家について、ベッドに仰向けに転がると
すぐに眠気がやってくる。ぼんやりと考え事をしていると微睡がやってくるのだ。
教育者になりたいと思ったのは、高校2年の冬だった。
進路希望票とにらめっこをして、よく分からないハウツー本を買い、
自分がどんな人生を歩みたいのかを考えていた。
人にものを教えるのが好きか、と問われると私はそうでもない、と答えるだろう。
人に説明するとき、分からなかった”それ”が紐解かれることは好きだ。
学者、とは突き詰めれば人に理解してもらわなければならないし、紐解いてあげなければならない。
人に勉強を教えて、分かってもらえるのが嬉しかった。
そうやって理解を深めるのが、分からなかったと気付けなかったことを紐解いていくのが楽しいと思った。
だから勉強をして、良い成績をとって、大学に入って、いい研究室と呼ばれる場所で指導を受けて。
選択が間違っているとは思わない、と断言できなくなってしまった。
自分の夢のためだ。
自分の人生のためだ。
―「私ね、優しい彼氏といちゃいちゃして、結婚して、子供つくって幸せになるのが夢なの。悪い?」
悪くなんかない。
彼女の夢のためだ。
彼女の人生のためだ。
自分と何も変わらない。
彼女の夢は、望む人生は自分が望んでいたものを水穂に押し付けていた時の以前の自分と、何も変わらない。
悪いことだとも思わない。
それは悪いと責められるものではない筈だ。
「……くん、みー、くん?」
微睡の中で、彼女の声がする。
いつの間にか重くなった瞼を持ち上げるとうっすらと視界が広がって、こちらを見下ろしている水穂が見える。
「タオルケットくらい、かけなさい」
「あー、う……」
掠れた声ではまともな返事は出来なくて、辺りにあったタオルケットらしきものを掴んで、包まる。
「あーもう……」
呆れた声、妙にリアルだと思うけれど意識はすぐに眠りの中へ落ちていった。
起きると汗だくで毛布に包まっていた。
タオルケットだと思ったものは毛布だったらしい。
時計を見て、とっくに9時を超えた時計と、辺りの暗さに顔をしかめる。
日付は12/25
世間様ではクリスマスと呼ばれる日である。
そんな日に私は水穂に何もせずにグータラと寝こけていたのだから笑い草だ。
「笑えないわ、ほんと」
喉も掠れていて、髪の毛はぼさぼさで、汗だくである私はどう見ても会いに行ける風貌ではない。
時間も、今からどこに行けばいいのかと言った時間帯だ。
心よりもすぐに何とかなりそうな身体を優先することにして
痛む喉を何とかしようと冷蔵庫を開けて、水を取り出そうとする。
対して物の無い冷蔵庫の一角を何かが占めていて、霞んだ寝起き特有の目を凝らして
見覚えの無い、ラッピングされたケーキが目に入った。
「……もしもし」
「なに?」
「水穂、ケーキ有難う」
「よく眠れた?」
「えっと、うん、ぐっすりと……ごめん」
「別に。約束して連絡も無しにすっぽかされた去年よりは随分マシ」
「去年と合わせまして重ね重ね申し訳ありませんでした……」
藪蛇だったと思いながらも前科は思い返せばいくらでもあるのだから私ってやつは始末に負えない。
「あーあ、世間は聖なる夜だってよ?みーくん」
「ごめん、ほんと、埋め合わせさせて……」
身体が縮こまっていくのが分かる。目の前にあるケーキは二つのまま、手は付けられていない。
「明日」
「明日?」
「空いてるから、ちょっと付き合って」
くすりと、少しだけ彼女は笑ったのだと思う。
「あともう一つ」
玄関のドアノブが回る音、扉の開く音。
「少しだけ、クリスマスしよっか」
電話を切った彼女は、私の目の前で両耳の鼓膜に訴えてきた。
白い息が一瞬だけ私たちの間を横切っていく。
「よ、喜んで」
「何それ。ほら、顔洗ってきて」
洗面台に向かう時には彼女が台所でお皿を取り出している音が聞こえていた。