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最近、水穂に元気がなかった。
地下鉄の列車が来て取り留めのない話を始めてしまった彼女に、確証のないまま踏み込むのは何だか場を荒らしてしまうだけな気がして
「おいどうした後輩」
「溝口先輩、愛しの彼女に元気がないっす。どうしたらいいっすか」
研究室でデータを打ち込み終わって解析中。演算はパソコンに任せてソファに寝転がっていたら辛気臭いと毛布を投げられ、かけられた言葉に飛びついてしまう。
「元気がない理由を取り除いてやりゃあいい」
「分からない場合は!?」
「調べるなり聞くなり、とにかく解明だろうが」
「……なるほど」
「おいこら待て研究放り出すな最近不良な後輩」
立ち上がってコートを羽織ったところで肩を掴まれ渋々振り返る。
「だって先輩。愛しの彼女ですよ!?」
「行かせてやりてーがお前じゃなきゃ演算後の解析なんぞ出来ねえだろうが期待の後輩。情報ソースはわが研究室の教授様だ」
振りほどいてドアまで噛り付いたが体力の差が出てその頃にはドアノブを捻っても引く力が尽きていた。
「溝口先輩。マジで心配なんですよ……」
「メールしろ、電話しろ。悪いが部屋からは出してやれん」
「はーい……」
再びパソコンに向き合った先輩を恨みがましく見てしまう。しょうがないんだけど。本当に今が山場だから溝口先輩じゃなかったら怒鳴られたって張り倒されたっておかしくない時期だ。しかしコートは脱いでやらない。水穂に電話をかけても反応はなかった。お昼休みは終わっていて授業だっただろうか。
会いたい、とメールを打って、打ち消して、カチカチカチカチ文章は定まらなくて。
「解析終わったぞ、頑張れ」
教えてくれた先輩に頷いて私は打ちかけのメールを、送ってしまった。
「ああ」
「何だ何だ。どうした今度は」
「打ちかけのメール送っちゃいました。うわうわうわああああああああああ」
どうして私はこんなミスを。
「落ち着け。息を大きく吸ってー」
「すううううううううううう」
「はいお手ー」
「吐かせろよ!?」
「よく分からんが困る内容なら間違いだって送っときゃいいんじゃね?」
冷静な溝口先輩はカッコいい。私もこんな余裕が欲しい。送ったメールは間違いだなんて言いたくないというか今は言ってしまったら水穂がなんて返すか怖すぎるっていうか。
「いきなりごめん、かなあ……?」
返事返せないかも、と付け足して私はもうひと頑張りすることにした。
頑張れば水穂の迎えにも行けるから話だって聞けるはずだ、うん。言い聞かせて私はディスプレイと向き合った。
「朝日が、まぶ、しい……」
「おう、俺ら、頑張ったよ……」
燃え尽きた先輩にお疲れ様でしたと言ったがもう声は届いていないようだ。ソファで受け取った毛布を投げ返して部屋を後にする。
白んだ空と時刻を比較して家に帰ってシャワーを浴びる余裕があると判断した私はよろよろと外に出た。コートを着っぱなしで良かった。着る気力なんてなかったありがとう水穂。
どんな時でも水穂は私を救ってくれる。愛してる水穂どんな時でも水穂。ダメだ頭おかしくなってるわ早く帰って寝たい。
シャワーを浴びて、着替えてベッドに横になって私はそのまま意識を手放した。
目を覚ます。何だかいい匂いがして近づこうとして、頭を打った。落ちたらしい。
そういやベッドで寝ていたんだっけ。この匂いは何だろう。
「美佳、大丈夫!?」
「なんとか……ありがとう水穂大好き愛してる水穂大好き」
「……起き抜けに何なのよ」
気付いたから。私がベッドにちゃんと着替えて眠るなんて毛布なんて掛けられないってことは分かるから。そして顔を上げれば真っ赤な顔で照れくさそうに私を支えてくれる水穂の姿がいて、視界にはテーブルの上に朝食が並んでいた。時刻的にはもう昼らしい。
「水穂がいないとつらいって身に染みていたとこ」
「はいはい、家政婦は今回限りよ」
「家政婦なんてとんでもない」
隙ありとばかりに素早く起き上がる。立ち上がろうとする肩を押し留めてキスをする。触れあった体温は面積が小さいくせに大きく鼓動を揺さぶってくるのは、毎回すごいなあと思う。
「お嫁さんでお願いします」
「さっさと顔洗ってきなさい寝坊助!!!!」
背中を叩かれて飛び起きて私は洗面所に退散した。何が悩みかわからないけれど元気が出たのは嬉しい。
元気な水穂が好きだ。あんまり時間が取れないせいで、とってこなかった私のせいで原因のわからない水穂の体調不良を何とかしたいわけで。どうにもただのダイエットって雰囲気でもない。というか痩せる必要なんてないほど彼女は華奢だしあったかい香りがして抱き心地もいい。
顏を洗い、髪を水で軽く整えてからもう一度部屋に戻る。自分が買うだけ買ってほとんど使っていない水色のエプロンは水穂にはちょっと大きめだったけれど素材がいいのでどう見ても可愛い。今度は可愛いエプロンでさらに可愛い水穂を堪能したい。
「今日も可愛いね」
なるべく抑えて褒めてみる。私はこれでも前回のホテルで言われた痴女発言を気にしているのである。慎みは大事だよね、うん。
「ありがと」
「朝ご飯おいしいよ」
「ただのあり合わせよ。もう少し自炊したら?」
「あはは、うん、わかった」
ベーコンエッグを口に入れて頷くと胡散臭そうにこちらを見る水穂に首を傾げる。
「そんな信用ないかな」
「ええ、少なくとも私は持ってないわ」
返す言葉もなくて、苦笑した。これから挽回予定だし挽回以上も狙ってはいるのだけれど云わぬが華ってやつだと判断しておく。
言動よりは行動で示した方がきっと彼女にも、伝わると思っている。
「ごちそうさま。今日は時間ある?」
「授業さえ終われば。水穂ってダイエットでもしてる?」
朝食のついでにそれとなく聞いてみても
「……何」
不機嫌そうに返されるし、朝ご飯は美味しいけど間違いなく部屋の気温が下がった。下がったね間違いなく。私にしては素早く気付けたから二回言ってみる。
座っていて私より身長の低い彼女は上目遣いになるはずなんだけど殺気立った印象が強かった。いつもは可愛いんだ、いつもは。これも大事だから二回言った。
「痩せたし……なんか悩んでるでしょ。痩せたし」
「何で二回言うのよ」
「心配なんだ。ダイエットならこれ以上痩せないでくれると私としては嬉しい……でもその反応はダイエットじゃないのか」
沈黙で返した水穂に私は声のトーンを下げないように気を付けながら言った。
「ごちそうさま。私はもう少ししたら授業行くけど水穂も来る?」
「遠慮するわ」
「じゃあ家で待ってる?それとも終わったら連絡して合流しようか?」
「……家で待っててもいい?」
水穂の意見が聞けるのは嬉しい。喜んで私は合鍵を取り出す。
「あの、やっぱりダメ?」
返答が遅かったのが悪かったのかキッチンにいる水穂は振り返ってコートを着ている私を見た。慌てて首を横に振る。
「全然。問題ない。違うこと考えてただけだから」
新婚さんみたいだなんて考えていた私は間違いなく浮かれていて不安そうな彼女にはひどく同調しきれていない。
「水穂」
「……え?ちょっ!?」
再び洗い物と向き合ってしまった彼女の顔は見えないから素早く向かっていた玄関から方向を変えて彼女を抱っこして持ち上げる。
やっぱり少し抱き心地は足りないかななんて考えてそっとキスを落とした。素早く、的確に。
真ん丸に開かれた瞼からはビー玉みたいな綺麗な瞳が私を映していて、うん、満足。もう一度頬に軽くキスをして私は抱き上げていた腕を下ろして玄関を出た。
口をパクパクさせていた彼女は玄関を出たころにはへたり込んでいた気もするけれど、うん、まあいいや。
私しか見ていなきゃだめだよ。とか、見ていてほしいとか。他のことを考えないでほしいとか。
「我侭だなあ、私」
マフラーをきちんと巻き直して大学へと歩く。
徒歩五分という好立地では大学の広いキャンパスといえども時間はかからないものでいつも研究室から駆け込むような様相の私は珍しく始業時間より前に身なりを整えて登場することができた。講義といってもあまり聞く価値のないこの授業―テストは過去問で何とかなるし教授は何を言っているのか滑舌の悪さで全く聞き取れない―は出席が命で後ろの席がこぞって埋まっていく。浮いたように前を陣取っている席に近づくと訝しむような表情で顔を合わせ私を認識すると驚いたように少し、瞬きをした。
「驚いた。今日は徹夜って聞いていたんだけど」
「誰から?隣良い?」
肯定を確認してから席に座ると同級生の内藤絵里子は佐々木教授から聞いたのよ、と言った。どうやら我が研究室の教授とは見事にすれ違ったらしい。今日は学会だと言っていたので顔を合わせることは無いだろう。
「前の席でいいの?まだ空いていると思うけど」
後ろを観察した絵里子はそう言って私を見た。
「まあね。用事があるから扉に近い方が嬉しい」
「佐々木教授が言ってたわよ。何だか研究より大切なものがあの子にはできた、だって」
「呆れてた?」
「さあ?怒ってはいない様子だったけど」
一拍おいてから絵里子は言う。
「らしくないって個人的に思ってる」
「あはは。教授じゃなくて絵里子が怒ってるって事?」
表情を窺ってから冗談交じりに問いかけてみれば彼女は深くため息をついた。
「そうよ。って言ったら」
「変わらないかな。別に」
するりと言葉は出てきて後悔は全くない、紛れもない本音だった。
「じゃあなんで聞いたのかしら?」
「水穂の友人なら少しは近い感性、なのかなと」
シャーペンがころころと転がり落ちる音を立てて足元まで来ているというのに取り落した彼女はそれに見向きもしないで私を凝視した。こちらが身動ぎするほどにはっきりとした眼光が見えるようだ。
「懐かしい名前を聞いたわ。あんたたちまだ友達だったの」
「それはどういう意味?」
「どうって……自称友達なら傷つくと思うけど言おうか?」
「いや、ごめん私が悪かった」
私と水穂は友達に見えないという悪意的解釈か好意的解釈か。おそらく前者だろうと表情からありありと読み取れた。
言わずもがな研究漬けな私のせいだろう。ため息が出そうになる。
聞きたかったことは流されてしまって掘り返すには怪しまれそうだ。せっかく講義の時間で水穂の情報を少しでも吸収しようと思ったのだけれど。
「ついに彼氏と別れたのかしら」
ぽつり、と絵里子はつぶやいた。
「……え?」
「悩んでたみたいだけどそれきり連絡無いから。悩んでるなり困ってるなら連絡来る程度には仲良いつもりだし。何か知ってる?」
「会ったけど、痩せてた」
言っていて自分のせいなのは間違いないんだろうかと悶々としてしまう。
「ふーん、そうなの」
「……うん」
一瞬だけ素知らぬふりして彼氏のせいなのかななんて聞いてみる選択肢も浮かんだけれどそれはなんて卑怯な手か。
図々しい、ふてぶてしい思考だ。一瞬でも考えてしまった自分を恨めしく思った。
「あんたまで悩んでもしょうがないんじゃない」
「まあ、そうかもしれないけど……さ」
当事者だからだとは言えない。心配で心配でたまらない。
あの日のように泣いたりはしてないか。無理して笑ったりしてないか。
講義の先生が入ってきて、授業のノートを機械的に書き取りながらぼんやりと考えてしまう。
ころころと隣から消しゴムが転がってくる。いつの間にかシャーペンを拾って使っている彼女はこちらを見て、小さいけれどこちらに分かるように口を開いた。
「心配なら直接聞きなさい」
「……ありがとう」
「えー。これらの理論はまだ確立されておりませんが、非常に有効な手段として。おっと今日はここまでかな。それでは」
時計を見て去っていく講師を見送って一番に教室を出る。
「研究さぼったりしないようにね。水穂が気に病むから」
「分かった。ありがとう絵里子」
去り際の言葉を肝に銘じながら。