眠り姫は起こしてはなりません。絶対に。
『眠り姫を起こしてならない』という戒めが、わがヴァルデック伯爵家に伝わるようになったのはいつからだったか。
「……アル、助けてくれ……」
執務室のドアが細く開いて、長兄のライナー兄様が顔をのぞかせた。伯爵家の嫡男であり、学園を首席で卒業した頭脳の持ち主とは思えない情けない顔だ。
「どうなさったのです、ライナー兄様。書類の計算なら終わらせましたよ」
「そうじゃない。……お姉様が、王宮の夜会のための支度の途中で落ちた(・・)」
「落ちた」
僕は作業の手を止め、天を仰いだ。
わが家の長女、エレノア姉様。国中の貴族が羨む完璧な美貌を持ち、幼少期から第二王子殿下の婚約者に内定している伯爵家の誇り——にして、この家の絶対権力者である。
ただし、彼女には致命的な……いや、ある意味で無敵の癖があった。
無類の、睡眠好き。
それもただの怠惰ではない。どれだけ大切な儀式の最中であっても、己の睡眠欲が限界に達した瞬間、突如として深い眠りに落ちてしまうのだ。人はそれを親愛と敬意(と恐怖)を込めて『眠り姫』と呼ぶ。
「……現在のお姉様の状態は?」
「ドレスのコルセットを締めている最中に落ちたらしくてな。侍女たちが起こそうと肩を揺らした瞬間……」
ライナー兄様は思い出すのも恐ろしいという風に身震いした。
「……侍女二人が飛んだ。反撃の無意識拳だ。一人は壁に刺さり、一人は天井のシャンデリアに引っかかっている」
「なるほど。無意識の防衛本能(物理)ですね」
エレノア姉様の恐ろしいところは、メンタルが鋼どころかアダマンタイト級に強靭なうえ、なぜか武芸の達人をも圧倒する肉体言語の持ち主である点だ。
以前、熟睡中の姉様を襲おうとした愚かな暗殺者がいたが、翌朝発見された暗殺者は全身の骨を綺麗に折られ、姉様の「抱き枕」として収穫されていた。本人は一睡も目を覚まさないまま、ただ「邪魔な障害物」として処理したらしい。
「アル、お前ならなんとか……っ!」
「無理です。兄様、幼少期の教訓をお忘れですか? 起こそうとした僕が庭の池まで投げ飛ばされたあの夏を」
「だが今夜は第二王子殿下との大切な夜会なんだ! 行かなければ婚約破棄されかねない!」
「殿下もそろそろ諦めて受け入れるべきだと思うのですが……」
溜め息をつきながら、僕は立ち上がった。兄と姉という強烈すぎる二人の狭間で育ったおかげで、僕には「危機回避能力」と「眠り姫の取り扱い心得」が完璧に叩き込まれている。
『眠り姫を起こしてならない』。
正解は「起こす」のではなく、「寝たまま移動させる」か「自発的に起きる誘導を仕掛ける」の二択だ。
僕とライナー兄様は、エレノア姉様の部屋の前に到着した。ドアの隙間から、穏やかで美しい寝息が聞こえてくる。
「兄様、作戦を変更します。物理で起こすのは死を意味します」
「だ、だな……。ではどうする?」
「香りと聴覚です。……シェフ、例のものを」
控えていた料理長に合図を出す。運ばれてきたのは、エレノア姉様が大好物である特製高級ローストビーフと、焼き立ての極上焼き菓子。香ばしい肉汁と甘いバターの香りが廊下に満ちる。
さらに僕は、弦楽器を手に取り、ゆっくりと「あるメロディ」を奏で始めた。かつて姉様が「この曲を聴くと小腹が空いて目が覚める」と言っていた、宮廷舞踏会の食事の合図の曲だ。
部屋の中の寝息が、ふっと止まった。
(……きた!)
ドアが内側から静かに開き、乱れたドレス姿の美しい女神——エレノア姉様がぬっと姿を現した。瞳はうっすらと開いているが、明らかに意識は夢と現実の狭間だ。この状態で下手に話しかければ、音速の正拳突きが飛んでくる。
姉様は鼻をピクピクと動かすと、吸い寄せられるようにワゴンへ近づき、ローストビーフを一口でパクリと平らげた。
「……ん……ふあぁ……」
小さく優雅な欠伸。そして、青い瞳にハッキリと知性の光が宿った。
「……あら? アルフレッド、ライナー。どうしてわたくしの部屋の前にいるの?」
覚醒完了だ。
「お召し替えの途中で眠っておられました、お姉様。もうすぐ夜会の時間です」
僕が完璧な笑みで礼を執ると、エレノア姉様は自分の姿を見下ろし、「まあ」と優雅にほほ笑んだ。
「いけないわね。あまりに心地よい気候だったから、つい……。ライナー、何をガタガタ震えているの? 伯爵家の嫡男でしょう、しっかりしなさい」
「ひ、ひぃっ! す、すみませんお姉様……!」
メンタルを直接削られたライナー兄様が悲鳴を上げて縮み上がる。無自覚な圧だけで弟を恐怖のどん底に叩き落とす、相変わらずの破壊力だ。
侍女たちが恐る恐る部屋の壁や天井から脱出し、手早く姉様のドレスを整えていく。わずか十分後には、誰もが見とれる完璧で気品あふれる『眠り姫』が完成していた。
馬車へ乗り込む際、エレノア姉様はふと僕を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「アルフレッド。今夜の夜会、第二王子殿下がまた退屈な話をし始めたら……わたくし、遠慮なく眠らせていただくわね」
「殿下のメンタルが保つことを祈っておきます、お姉様」
僕は恭しく見送りの礼をした。
第二王子殿下、どうかお気をつけください。
あなたの婚約者は美しく、そして……誰よりも強固で、決して起こしてはならない『姫君』なのですから。




