恐怖と安堵の狭間——カサカサという救難信号
見上げる蒼穹は随分高いところにあった。
涼やかに蒼く澄んだそこは遥か遠く、手を伸ばしても届きそうにはない。
上空を、声もなく鳥が飛んでいく。
いつまでここにいればいいのだろう。
いや、この言い方は正確ではないな。いつになったら助けは来るのだろう。
じわりと下から感じる地面の冷気に、思わず身震いしてしまう。
自分は、運が良かったのか、悪かったのか。
初秋のハイキング。友人に『一見の価値がある景色だから』と誘われ、隣街に遊びに行くような気楽さで参加した。
緩やかな山道は歩きやすく、途中いくつかある休憩地点からの景色もなかなかのもの。
目的地まで、まだ距離はあるようだが、これなら余裕かと完全に山を舐めていた。
この季節、寒くもなく暑くもなく、程よく汗ばむ程度。だが、当然のように喉は乾く。後ろ手にザックからペットボトルを取り出し、キャップを緩める。
——ゴクリ。
静かな山道に、自分の喉が鳴る音が妙に大きく響く。ぬるい水が乾いた粘膜を潤していく。
一度に飲んでしまうと、最後まで水が持たない。これぐらいにしておこうと、キャップを閉め——
あっ、と思った時にはペットボトルは傾きすぎていた。
しっかり締めたつもりでいたキャップは実はそうではなく、噛み合わせがずれていた。傾いたペットボトルから、水がドボドボと無常にこぼれ落ちていく。
水は足元の土を、そして積み上がった枯葉を濡らした。
「しまっ——」
焦って足を踏み出した先は、濡れて滑りやすくなった腐葉土の上だった。
息苦しさに意識が呼び戻され、薄く目を開けようとすると何かが瞼を押さえている。
まだはっきりしない体感は、それでも自分が今仰向けの状態だと告げている。だが、視界がはっきりしない今、本当にそうなのか自分の感覚を疑ってしまう。
顔面の不快感と違和感に頭を振ろうとするが、何故か上手く顔が左右に振れない。
少しカビ臭いような、土と枯葉の湿った匂いが、強く鼻腔をつく。
——手は、動く。
痛みで強張る腕をなんとか使い、顔の上にあるものを払いのけてみた。
——ばさり。
じっとりと湿った何かを払いのけると、蒼い空と遥か見上げるような崖が目に飛び込んできた。
あの上から落ちたのか。
自分は運よく枯葉や腐葉土が溜まった上に落ちたようだ。
腕だけでなく、身体のあちこちが悲鳴のような痛みを訴えてくる。それでも、なんとか上半身を起こし、ひとまず斜面に背中を預けた。
ほんの少し姿勢を変えただけだが、それでも冷静さが僅かに戻ってきたのだろう。
遠くから、微かに、友人たちが自分を探す声を、耳が拾いあげた。
「おーい!」「どこだー!」
だが、幾ばくか気を失っていたのだろう。自分を探す声は、すでに通り過ぎ、遠ざかりつつあった。
「おーい、ここだ! ここにいるぞー!」
喉がちぎれんばかりに大声を張り上げてみた。だが、声はここの湿った空気に吸い込まれ、崖の上には届かない。友人たちの声は、無情にも小さくなっていく。
スマホは……ダメだ。ベキッと折れている。ズボンのポケットに癖で入れていたのがマズかった。
スマホがあればどうにかなると、準備も下調べもせずに友人たちについてきた。地形も地理も何もまったくわからない。頼りになる情報が何もない。
詰んだ。
頭を垂れ、自分の愚かさに打ちのめされているうちに、山の短い秋の日は、あっさりと暮れていった。
初秋の山。初心者向けのハイキングコースであろうと、山は山である。
日が当たらない窪地、思った以上に尻の下から冷えてくる。おまけに歩き続けた後で、汗もかいている。
このまま外で夜露に濡れれば体力が持たない。
痛む足を庇いながら立ち上がり、辺りを探る。
少し先に横穴?
斜面にぽっかりと穿たれた横穴が目に入った。
近づいてよく観察してみると、奥まで入れるようだ。
外で風に吹き付けられているよりマシだろう。捜索の手が伸びるまで、ここで少し休むことに決めた。
穴の中は広いとまではいかないが、そこそこの広さがある。ただ天井は低く、湿気を帯びている。
何かの住処だったのではと、一瞬頭に浮かんだが、動物臭は感じない。枯葉と土の湿った独特の匂いがするだけだ。
横穴の中で一息つけば、いつの間にか外は夕闇になっていた。
これは、今日の救助は難しいかもしれない。だが、友人たちが捜索依頼を出しているはずだ。スマホが繋がらない状態から、いろいろ察して動いてくれそうな気がするのだが。
——リーン、リーン。
いつの間にか、眠っていたらしい。
穴の外は先ほどの夕闇より一層濃い闇色。自分の周りも闇に包まれ、何も見えない。
その代わりというわけでもなかろうが、耳を澄ませずとも、虫の声の大合唱だ。
幽霊話は信じないほうだが、ここまでの暗闇は勘弁してほしい。何かが出てきそうで、不安がじわじわと増してくる。
特に、この音。
虫の声に交じってさっきから妙に気に障る。
綺麗な虫の音とは違う。カサカサ、カサカサと、乾いた何かが擦れ合うような不快な音。背中を冷たい指でつっと下から上へと触れられるような嫌な気持ちにさせる音だ。
視界がきかない分、耳がその音を過剰に拾ってしまう。
カサカサ、カサカサカサ、カサカサカサカサ。
いや、気のせいではない。確実に近づいている。
乾いた音が擦れ合う。それに、なんだ、どこか湿り気を帯びた粘り気のあるものが、じっとりと這いずるような不快感が首筋を撫でまわしている気がする。
カサリ。
足元の分厚いデニムの上を何かが今……
「 い、 った」
遠くで、今、人の声がした気がした。
だが、その希望を打ち消すように、不快な乾いた音が爆発的に増していく。
カサカサ、カサカサカサ、カサカサカサカサ、カサカサカサカサカサ、カサカサカサカサカサカサ。
それに先ほど何かが自分に触れた気がする。
今、自分の周りの闇すべてに、無数に、それが蠢いている気配がする。この音の主は一体何なのだ。脳裏に最悪な生物の姿がよぎる。
パニックになりかけたその時。
ガサッ、ザッ、ザッ、ガサリ。
穴の外から、もっとハッキリした大きな音が聞こえる。これは、人の足音だ。
「おい、無事か! 探知機に反応あり、この穴の中だ!」
こちらを確認する、救助隊らしき大きな声。
「はい! ここです!」
自分で思っているよりも大きな声が出た。
「よし、お前ら、よくやった!」
どうやら自分をみつけてくれた何か(犬とかいたか?)を、外にいる隊員が褒めているようだ。
そして、その声に「ああ、助かったんだ」と実感がわいてくる。
「そこから出られるか? 今照らすぞ!」
心配そうな声と共に、強烈なライトの光が、真っ暗だった穴の内部を真っ直ぐに照射した。暗闇に馴染んだ視界が、一瞬白く染まる。
光が、足元、そして自分の身体の上に広がる影を剥き出しにした。
それは、数え切れないほどの、油ぎった黒い背中。
細長い触角が狂ったように空間を掻き回し、トゲの生えた無数の細い足が蠢いている。
その背には、小さな電子基板と、赤く明滅するアンテナが見えた。
数千、数万の『それ』が、何かに反応するように一瞬動きを止める——そして、自分を凝視する無数の複眼。
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ。
一斉に電子音のような翅の音を立てながら、自分の頭から、服の上から、津波のようにカサカサカサッと不気味な速さで這い出し、外へと這い戻っていく——
「よし、救助用サイボーグ虫部隊、全機回収!」
——あれが、自分を助けてくれた、最先端の技術。
彼らは自分を見つけるために、この穴に送り込まれ、自分の体中を這いまわっていたのだ。
限界だった。
呼吸すら凍り付き、意識は闇に飲み込まれていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本作は、以前『あるかなの戯言』で書いたものをリライトしたものとなります。
当時よりも、さらに「音」の生々しさやホラー色を強めてお届けできたかなと思っておりますが、楽しんでいただけたでしょうか?
また、『ヴィルディステの物語』という異世界ファンタジーも書いております。
こちらはナギサという少女が主人公の物語です。
本作とはまたガラリと雰囲気が変わりますが、よろしければぜひ、あわせて読んでいただけると嬉しいです!
https://ncode.syosetu.com/n0331jd/




