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水の学校

作者: 霜月希侑
掲載日:2026/02/07


封筒は、朝のポストにひっそりと紛れていた。白い封筒に、黒いインクで書かれた私の名前——「内田春奈様」。差出人の記載はない。封を切ると、中には一枚の便箋。簡潔な文面が、まるで命令のように並んでいた。


期間限定の特別な学校へのご招待

日時:〇月〇日、午前九時

場所:旧桜ヶ丘小学校

詳細は現地にて


「学校?」

私は首をかしげた。二十四歳の今、大学を卒業し、フリーのライターとして細々と暮らしている私に、学校なんて無縁だ。それに、桜ヶ丘小学校という名前には聞き覚えがない。地元でもない、縁もゆかりもない場所。なのに、なぜか胸の奥がざわついた。まるで、ずっと忘れていた何かを呼び起こすような感覚。


好奇心と、ほんの少しの不安に押されるように、私はその日、指定された時間に古びた校舎の前に立っていた。校門は錆びつき、看板の文字は剥げ落ちて読めない。まるで時間が止まったような場所だった。校庭には誰もおらず、ただ風が雑草を揺らす音だけが響く。


校舎の玄関をくぐると、薄暗い廊下に懐かしい匂いが漂っていた。木の床、黒板のチョーク、子供の頃の記憶。だが、どこか違う。空気が重く、湿ったような感触が肌にまとわりつく。


教室のドアを開けると、そこには十人ほどの子供たちがいた。みんな、まるで入学式のようなよそ行きの服を着ている。男の子が多い気がした。白いシャツに紺のズボン、女の子はセーラー服やワンピース。年齢は7歳から十歳くらいだろうか。笑い声もなければ、騒がしさもない。ただ静かに、こちらをじっと見つめている。


「内田春奈さん、ですよね?」

突然、背後から声がした。振り返ると、若い女性が立っていた。黒いスーツに、胸にはカタカナで「キム・ソヨン」と書かれた名札。彼女は微笑んだが、目が笑っていない。

「ようこそ。こちらでお待ちください。先生たちがもうすぐ来ます」


教室の前には黒板があり、そこに4人の名前が書かれていた。

「キム・ソヨン」「パク・ジウン」「チェ・ミンホ」「イ・ハナ」。

カタカナの名前が、妙に頭に残る。韓国人なのか、それとも偽名? なぜかそんな考えがよぎった。


やがて、四人の先生が次々と教室に入ってきた。一人目、二人目の先生が自己紹介を始める前に、黒板の名前を指さして首をかしげた。

「これ、間違ってますね」

キムと名乗る女性がチョークを手に取り、黒板の名前をサラサラと書き直した。「キム・ソヨン」から「キム・ソユン」へ。「パク・ジウン」も「パク・ジュン」に。

「これでいいね」

彼女は笑ったが、私は違和感を拭えなかった。名札の名前も、微妙に違う気がする。ソユン? ソヨン? そんな小さな違いが、なぜか気になって仕方なかった。


そして、4人目の先生が前に立った瞬間、私の心臓が跳ねた。

「イ・ハナ」と名乗ったその女性——どこかで見た顔。いや、知っている。中学校の同級生、葵だ。彼女のはずだ。ショートカットの髪、鋭い目つき、左眉の小さな傷まで、すべてがあの頃のまま。なのに、彼女は私に気づいていないように振る舞い、淡々と自己紹介を続けた。


「みなさん、よろしくね。この学校は、特別な学びの場よ」

彼女の声は穏やかだったが、どこか冷たく、遠い。

葵、なぜここにいるの? あなた、本当に葵なの?


その時、教室の床に小さな水音が響いた。見ると、くるぶしほどの水が床に広がっている。小さな魚が、キラキラと光りながら泳いでいた。子供たちが一斉に歓声を上げた。私はただ立ち尽くし、水の冷たさが足首にまとわりつくのを感じていた。


この学校は何だ? なぜ私はここに呼ばれた?

黒板の名前の間違い、葵の存在、水と魚——すべてが、まるで夢のように曖昧で、しかし確実に何かを隠している。

私は知らず知らずのうちに、教室の後ろのロッカーに目をやった。そこには、くすんだプレートに「桜山学院」と刻まれていた。

この学校の秘密は、ここに隠されているのかもしれない。


教室の空気が、湿気を帯びて重くなっていた。子供たちの笑い声が響く中、私はまだ黒板の前に立つ「イ・ハナ」——いや、葵を見つめていた。彼女の視線は私を避けるように教室の隅に流れ、まるで私の存在を無視しているようだった。だが、彼女の左眉の小さな傷は、中学時代に体育館の裏で彼女が転んだときにできたものだと、私ははっきりと覚えている。あの傷は、葵その人だ。


「さあ、みなさん、今日は特別な活動をしましょう。」

キム・ソユンと名乗る先生が手を叩き、子供たちの注意を引きつけた。彼女の声は明るいが、どこか作り物めいた響きがあった。

「この学校では、自由に学ぶことが大切。好きなことをやってみて」


子供たちが一斉に動き出したその瞬間、教室の床に小さな水音が響いた。見ると、透明な水面に、銀色の小さな魚がキラキラと光りながら泳いでいた。どこから現れたのか、まるで魔法のように。

「わあ、魚だ!」

男の子の一人が叫び、子供たちは無邪気に水をかき分けて魚を追いかけ始めた。笑い声と水しぶきが教室に響き、まるで夏の水遊びのようだった。だが、私は動けなかった。水の冷たさが足首にまとわりつき、背筋に冷たいものが走る。


この水はどこから来たんだ?

教室の床はコンクリートだ。こんな量の水が、突然現れるはずがない。窓は閉まっているし、雨の気配もない。ふと、床下に何か隠されているのではないかという考えが頭をよぎった。古い校舎だ。配管が壊れている? それとも、もっと別の何か——。


「春奈さん、参加しないの?」

葵の声にハッと我に返った。彼女は私のすぐそばに立っていて、初めて私の名前を呼んだ。その声には、どこか懐かしさと冷たさが混じっている。

「葵…あなた、葵でしょ? 中学のときの——」

言葉を遮るように、彼女は微笑んだ。だが、その笑顔はまるで仮面のようだった。

「イ・ハナよ。間違えないでね」

彼女はそう言うと、子供たちの方へ歩いていった。彼女の背中を見ながら、私は胸のざわめきを抑えきれなかった。なぜ葵はここで偽名を使っている? そして、なぜ私をここに呼んだ?


ふと、教室の後ろに視線をやると、ロッカーの上にくすんだ金属のプレートが貼られているのが目に入った。そこには「桜山学院」と刻まれていた。名門校の名前だ。だが、この古びた校舎がそんな名門と関係があるとは思えない。プレートは古く、錆びついた縁が剥がれかけている。まるで、別の場所から無理やり持ってきたかのように場違いだった。


「桜山学院…?」

私が呟くと、近くにいた女の子が振り返った。彼女は小さな手を水の中で揺らし、魚を追いながら言った。

「それ、昔の名前だよ。誰も気にしないけど」

「昔の名前? この学校のこと?」

女の子は答えず、笑いながら水をかき分けて走り去った。彼女の言葉が、頭の中で反響する。誰も気にしない? なら、なぜこんなプレートがここに?


私はロッカーに近づき、プレートを指でなぞった。冷たい金属の感触が、妙に現実的だった。ロッカーの扉を開けようとした瞬間、キム・ソユンの声が響いた。

「内田さん、ロッカーは触らないでくださいね。そこは生徒さんの私物が入っているんです」

彼女の声は穏やかだったが、目には鋭い光があった。私は手を引っ込め、誤魔化すように微笑んだ。

「すみませんでした、ただ気になって」

だが、心の中では確信していた。このロッカーの奥に、何かがある。

水の音が、ますます大きく聞こえてくる。魚が跳ねるたびに、水面が揺れ、教室の空気がさらに重くなった。子供たちの笑い声は、まるで遠くのエコーのように聞こえ始めた。


「ねえ、先生、この学校って何で有名なんですか?」

突然、一人の男の子が手を挙げて言った。先生たちの動きが一瞬止まった。キム・ソユンが振り返り、微笑みながら答えた。

「いい質問ね。この学校は、特別な学びの場。知りたいことがあれば、自分で探してみて」

その答えは曖昧で、まるで質問をはぐらかすようだった。私は男の子の顔を見た。彼は少し不満そうに唇を尖らせたが、それ以上何も言わなかった。


私は再びロッカーに目をやった。桜山学院のプレート、水と魚、葵の偽名——すべてが繋がっている気がした。この学校は、ただの学び舎じゃない。何かを隠している。そして、私はその秘密に近づいている。

だが同時に、誰かに見られているような感覚が背中にまとわりついていた。教室の隅で、葵が私をじっと見つめている。彼女の目は、まるで私の心の奥を覗くようだった。


教室の空気はますます重くなり、水の匂いが鼻をついた。子供たちはまだ魚を追いかけて笑い声を上げているが、その無邪気さが逆に不気味に感じられた。葵——いや、イ・ハナと名乗る彼女の視線が、私の背中に突き刺さるように感じる。彼女は私の動きを監視している。だが、私はもう引き返せなかった。ロッカーの「桜山学院」のプレート、名前の不一致、この学校の不自然な雰囲気——すべてが、私を何かに導いている気がした。


「さあ、自由時間にしましょう。好きなことをして過ごしてください。」

キム・ソユンの声が教室に響いた。彼女の笑顔は完璧すぎるほど整っていて、まるで人形のようだった。子供たちは一斉に動き出し、魚を追いかけたり、黒板に落書きを始めたりした。私はその隙を狙い、教室の後ろのロッカーに近づいた。

誰も気づかないように、ゆっくりとロッカーの扉に手を伸ばす。錆びついた取っ手は冷たく、指先にざらりとした感触が残った。だが、扉は固く閉ざされ、動かない。鍵がかかっているわけではないのに、まるで何かに抵抗されているようだった。


ふと、足元の水音が大きくなった気がした。見ると、くるぶしほどの水が私の靴を濡らし、小さな魚が足の周りを泳いでいる。水はどこから来ているんだ? 教室の床はコンクリートなのに、こんな量の水が湧くはずがない。私はしゃがみ込み、床を指でなぞった。冷たい水が指先にまとわりつき、かすかに振動しているような感覚があった。

床下だ。

何かがある。


私は周囲を確認し、子供たちが騒がしく動き回る中、ロッカーの裏に手を伸ばした。ロッカーの隙間から、湿った空気が流れ出している。指先が何かに触れた——金属の輪。取っ手だ。ロッカーを少しずらすと、床に小さな鉄の蓋が現れた。古びたハッチで、錆と水垢で汚れている。

これが水の出どころ?


心臓が早鐘を打つ。私はハッチに手をかけ、力を込めて引っ張った。重い音とともに蓋が開き、暗い穴が現れた。冷たい空気が吹き上がり、鼻をつくカビの匂いとともに、かすかな水の流れる音が聞こえてきた。地下室への入り口だ。

一瞬、背後に気配を感じて振り返った。葵が教室の反対側で子供たちに話しかけているが、彼女の視線が一瞬こちらを向いた気がした。私は息を殺し、ハッチをそっと閉めた。まだ見に行くのは早い。もっと情報が必要だ。


だが、好奇心は抑えきれなかった。私は再びロッカーの裏を調べ、隙間に手を差し込んだ。そこには、濡れた紙の束があった。古いノートだ。表紙には「桜ヶ丘小学校」と書かれているが、ページは水で滲み、文字がほとんど読めない。かろうじて読める部分に、こんな言葉が目に入った。

「…実験…失敗…水…隠さなければならない…」

実験? 何の実験? この学校の過去に何が?


ノートを手に持った瞬間、背後で足音がした。振り返ると、さっき魚を追いかけていた女の子が立っていた。彼女は無表情で、私の手元のノートを見つめている。

「それ、見ちゃダメだよ。」

彼女の声は小さく、まるで警告のようだった。

「どうして? これ、何?」

私が尋ねると、彼女は首を振って走り去った。だが、彼女の目には、子供らしからぬ何か——恐怖か、諦めか——が宿っているように見えた。


私はノートをバッグに隠し、ロッカーを元に戻した。地下室への入り口。滲んだノート。桜山学院のプレート。この学校は、ただの学び舎ではない。過去に何かがあった。隠された何か。そして、葵がここにいる理由も、その秘密と繋がっているはずだ。


「内田さん、何してるの?」

突然、葵の声がすぐ近くで響いた。私は心臓が止まりそうになりながら振り返った。彼女は微笑んでいるが、その目は鋭く、私の動きをすべて見透かしているようだった。

「ただ、ちょっと気になって…ロッカーのプレートが」

私は誤魔化すように言ったが、葵は一歩近づいてきた。

「この学校には、触れちゃいけないものがあるの。春奈、覚えておいて」

彼女が私の名前を呼んだ瞬間、中学時代の記憶がフラッシュバックした。体育館の裏、葵と二人で交わした秘密の約束。あのとき、彼女は何を隠していた? そして、今、彼女は何を守ろうとしている?


水の音が、教室の静寂を破るように響いた。魚が跳ねるたびに、水面が揺れ、地下室の存在が私の頭の中で膨らんでいく。この学校の過去が、すぐそこに隠されている。

私は決めた。今夜、みんなが寝静まった後、地下室へ行く。


夜の校舎は、昼間とは別世界のように静まり返っていた。子供たちの笑い声も、水のチャプチャプという音も消え、ただ私の足音だけが古い廊下に響く。手に持った懐中電灯の光が、薄暗い教室の床を照らし出す。ロッカーの裏、鉄のハッチ。その先に何があるのか、知らずにはいられなかった。


私はハッチの取っ手に手をかけ、力を込めて引き上げた。ギイッと重い音が夜の静寂を切り裂き、冷たい空気が地下から吹き上がってきた。カビと湿気、そして何か生臭い匂いが鼻をつく。階段が暗闇に吸い込まれるように続いている。私は一瞬ためらったが、葵の冷たい目と、ノートに書かれた「実験…失敗」という言葉が頭をよぎり、足を踏み出した。


地下室は、思った以上に広かった。懐中電灯の光が、コンクリートの壁や錆びついたパイプを照らし出す。水が滴る音が、どこからともなく響いてくる。床には薄く水が溜まり、くるぶしを濡らす。昼間の教室と同じだ。だが、ここでは魚はいない。代わりに、空気が重く、まるで誰かの視線に刺されているような感覚がまとわりついた。


部屋の奥に、古い木製の机と棚が放置されていた。棚には埃をかぶったファイルや書類が積まれ、床には濡れた紙が散乱している。私は一番近くのファイルを手に取った。表紙には「桜ヶ丘特別教育プログラム」と書かれている。ページを開くと、水で滲んだ文字がかろうじて読めた。

「…選ばれた子供たち…記憶の操作…水槽実験…失敗…一九八五年…」

一九八五年? そんな昔の話だ。だが、ファイルの端に貼られた写真に目が留まり、心臓が止まりそうになった。そこには、子供たちのグループが写っていた。白いシャツに紺のズボン、セーラー服。まるで昼間の教室にいた子供たちと同じ服装。そして、その中に、見覚えのある顔があった。

葵だ。

中学生の葵ではない。もっと幼い、十歳くらいの彼女。左眉の傷が、はっきりと写っている。彼女はこの学校にいたのか? だが、一九八五年なら、葵はまだ生まれてもいないはずだ。どういうことだ?


さらにページをめくると、別の写真が挟まれていた。今度は、私自身が写っている。十二歳くらいの私。体育館の裏、葵と二人で立っている写真だ。私の手には、濡れた紙切れが握られている。記憶がフラッシュバックした。あの夏、葵と交わした秘密の約束。「絶対に誰にも言わない」と誓ったこと。でも、何を誓ったのか、なぜか思い出せない。

私はこの学校と、過去に何か関わりがあったのか?


ファイルの最後に、赤いインクで書かれたメモがあった。

「実験失敗。対象者の記憶封鎖必要。内田春奈、観察継続」

私の名前。私の名前がここに。

頭がクラクラした。実験? 記憶封鎖? 私はこの学校に、子供の頃に来ていた? だが、そんな記憶はない。なのに、なぜか胸の奥が締め付けられるような感覚があった。まるで、忘れていた傷が疼くように。


その時、背後で水音が響いた。振り返ると、地下室の隅に小さな水たまりができている。そこに、銀色の魚が一匹、泳いでいた。昼間の教室で見たのと同じ魚だ。だが、その魚は水面でピタリと止まり、私をじっと見つめているように見えた。

「誰…?」

思わず声が漏れた。魚の目は、まるで人間のもののように、私の心の奥を覗き込むようだった。


突然、階段の方から足音が響いた。懐中電灯を向けると、葵が立っていた。彼女の顔は青白く、目は怒りと恐怖が混じった光を帯びている。

「春奈、言ったよね。触れちゃいけないものがあるって。」

彼女の声は低く、震えていた。

「葵、これは何? 私、昔ここにいたの? あなたは知ってるんでしょ?」

私はファイルを握りしめ、彼女に詰め寄った。だが、葵は一歩後ずさり、目を逸らした。

「覚えてちゃダメなの。あなたのためよ。」

「私のため? 何を隠してるの? この学校、何なの?」

葵は答えず、ただ唇を噛んだ。彼女の目には、過去の記憶と何かを守ろうとする決意が宿っていた。

その瞬間、水音が大きくなり、地下室全体が揺れた気がした。水たまりが広がり、魚が何匹も現れ、私の周りを泳ぎ始めた。まるで、私を閉じ込めようとするように。


「春奈、逃げて」

葵が囁いた。その声は、まるで中学時代の彼女に戻ったようだった。だが、彼女が何から逃げろと言っているのか、私にはわからなかった。

地下室の暗闇が、私を飲み込もうとしている。だが、私はまだ知りたい。この学校の秘密、私の過去、そして葵が隠している真実を。



地下室の暗闇が、私を飲み込もうとしていた。水たまりが広がり、銀色の魚が私の周りを泳ぐ。その目は、まるで私の記憶を覗き込むように、じっと私を見つめていた。葵の声が耳に残る。「逃げて」彼女の警告は、恐怖と懇願が混じったものだった。だが、私は逃げない。この学校の秘密、私の過去、そして葵が隠しているものを、すべて知るまでは。


手に握ったファイルは濡れて重い。「桜ヶ丘特別教育プログラム」と書かれた表紙、一九八五年の写真、赤いインクで書かれた「内田春奈、観察継続」の文字。これが私の過去だ。子供の頃、この学校で何かに巻き込まれた。記憶が封鎖された理由、葵が偽名を使う理由、すべてがこのファイルに隠されている。


階段の足音が近づいてきた。葵だ。彼女は青白い顔で、懐中電灯の光に照らされている。

「春奈、ファイルを置いて。ここにいるべきじゃない」

彼女の声は震えていたが、私は一歩も引かなかった。

「葵、あなたも知ってるよね? この学校で何が起きたか。私がここにいたこと。教えてよ、全部!」


葵の目が揺れた。一瞬、彼女は中学時代のあの葵に戻ったようだった。体育館の裏、夏の夕暮れ、私たちが交わした約束。「絶対に誰にも言わない」と誓ったこと。でも、何を? その答えが、今、私の手の中にある。

「私も…被害者だった」

葵がつぶやいた。

「あの夏、私たちは実験の一部だった。記憶を操作する実験。子供たちの可能性を引き出すって言われたけど…失敗した。水槽が壊れて、地下室が水没して…何人かの子供が…」

彼女の声が途切れ、涙がこぼれた。私は息を呑んだ。

「私、覚えてない。どうして?」

「あなたは、生き残ったから。記憶を封鎖されたの。私も…でも、私は逃げきれなかった」


葵の言葉が、頭の中で断片的な記憶を呼び起こした。水の音、叫び声、冷たいコンクリートの感触。十歳の私が、地下室で何かに怯えていた。あの夏、私はこの学校にいた。そして、葵と一緒に、何かを隠すと誓ったのだ。


突然、地下室の水がうねり始めた。魚たちが一斉に跳ね、水面に子供たちの顔が映った。昼間の教室で見た子供たち——いや、違う。あの子供たちは、本物の子供ではなかった。過去の実験の犠牲者たちの幻影だ。

「春奈、行って! ファイルを持って、外に出て!」

葵が叫び、私を階段の方へ押しやった。彼女の目は、決意と後悔に満ちていた。


私はファイルを抱え、階段を駆け上がった。背後で水音が大きくなり、まるで地下室全体が崩れ落ちるような振動が響いた。教室に戻ると、子供たちの姿は消えていた。水も魚も、まるで夢だったかのように跡形もない。ただ、ロッカーの「桜山学院」のプレートだけが、静かに光っていた。




夜が明け、私は近くの警察署にファイルを持ち込んだ。そこには、一九八五年の「水槽実験」の詳細が記されていた。名門校の裏で、子供たちの記憶を操作し、特定の能力を引き出す実験が行われていたが、水槽の破損による水害で失敗に終わり、数人の子供が犠牲になった。学校は隠蔽され、表向きは閉鎖されたが、秘密を守るために「期間限定の学校」として再利用されていた。私の名前がファイルにあったのは、私が生き残った被験者だったからだ。


数日後、ニュースが流れた。桜ヶ丘小学校の地下施設が摘発され、関係者が逮捕された。子供たち——いや、幻影だった彼らは、解放されたように消えた。葵は姿を消し、彼女がどこへ行ったのか、誰も知らない。私は、彼女が自分の過去と向き合うために旅立ったのだと信じたかった。


私はアパートの窓辺に立ち、ファイルに挟まれていた写真を見つめた。十二歳の私と葵、体育館の裏で笑い合っている。あの夏、私たちは何を隠したかったのか。たぶん、怖かったんだ。真実を知るのが、向き合うのが。

でも、今、私は決意した。自分の過去と向き合い、記憶の欠片を一つずつ取り戻すことを。もう逃げない。


桜ヶ丘小学校は閉鎖され、校舎は静かに取り壊された。水の音も、魚の影も、もうそこにはない。だが、私の心には、葵の声と、あの夏の約束が静かに響いている。



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