第9話「存在の多層性、あるいは真実の臨界」
白い部屋。
彼の、あの時の表情が、脳裏に焼き付いている。「お前は……一体、何なんだ?」
そして、彼の背後に見えた、もう一人の雨理くんの影。あれは幻ではなかった。わたしの「観測」が、彼という存在の多層性を捉え始めたのだ。
そして、教室。朝のHR前。
「……あれ? 君、誰だっけ?」
雨理くんの声に、今回は明らかに**「逡巡」**が混じっていた。彼は、わたしを「知らない」と言いながら、その実、何かを思い出しかけている。彼の琥珀色の瞳の奥に、既視感の波紋が広がっているのが見て取れる。
わたしは、まっすぐ彼の目を見つめ返した。彼の戸惑いが、わたしの心臓を締め付ける。この一見変わらない日常の中で、彼だけが、わたしの「観測」によって、確実に変容し始めている。
HRが始まり、黒川先生の声が響く。わたしはノートの端に、今までのループで得た**「確定」**した情報を書き連ねる。
「彼」の多層性: わたしの「観測」が深まるにつれて、彼の中に「忘却」された過去の記憶の層が浮かび上がり、「もう一人の彼」として視覚化される。これは、彼が無意識に多重世界を経験している可能性を示唆する。
「嘘」の持つ意味: 彼の嘘は、他者への優しさからくるものだが、同時に彼の本心を覆い隠す「壁」でもある。この「壁」がわたしの「観測」によって揺さぶられるとき、世界がリセットされる。
ループの目的: わたしの「死」は、彼がわたしという存在を、そして彼の「嘘」の真実を「観測」し、**「確定」させるためのトリガー。このループは、彼が真実に到達するための強制的な「学習プロセス」**なのかもしれない。
昼休み、わたしは躊躇なく雨理くんの元へ向かった。
彼は、窓の外を眺めながら、どこかぼんやりとしていた。普段の彼にはない、瞑想的な横顔。
「海隠くん」
わたしの声に、彼はゆっくりと振り返った。その瞳に宿る光は、すでに「初対面」のそれではない。
「斎咲さん……」
彼の口から、わたしの名前が、まるで当然のように紡がれた。彼の表情には、微かな驚きと、どこか安堵のような色が浮かんでいる。
「もしかして、また、変な夢を見てた?」
わたしは、彼の心の中を覗き込むように尋ねた。
彼の体が、びくりと反応した。
「……うん。見た。今回は、もっとはっきり。誰かが、俺に話しかけてるんだ。『嘘つき』って」
わたしの心臓が、激しく高鳴る。
彼が「観測」した「夢」の内容が、より具体的になっている。そして、その夢の中に、わたしが彼に投げかけた「嘘」というキーワードが、鮮明に響いているのだ。
これは、彼の無意識の領域で、わたしの言葉が、そしてわたしの「観測」が、確かな**「現実」**として認識され始めた証拠だ。
「その『誰か』って、もしかして、私だった?」
わたしは、彼の目を見つめた。
彼は、大きく目を見開いた。驚愕と、何かを悟ったような表情が、彼の顔を支配する。
「なんで……なんで、それを……?」
彼の背後に、またしてももう一人の雨理くんの影が揺らめいた。
今度は、より鮮明に。その影は、悲しげに微笑んで、わたしを見つめていた。
それは、過去のループで彼がわたしを忘れるたびに、彼の中に置き去りにされた、**「もう一人の彼」**の残滓なのかもしれない。
「わたしは、知ってるの。海隠くんが、誰かのために嘘をつくこと。そして、その嘘が、この世界を歪めていること」
わたしは、彼の「嘘」と、この「ループ」の関連性を、直接彼に突きつけた。
彼の顔から、血の気が引く。彼は、わたしの言葉が「ありえない真実」であることを、その瞳で物語っていた。
そして、世界が歪み始める。
激しい目眩。視界を白く侵食する光。
わたしは、もう意識を失うまいと、彼の目を真っ直ぐに見つめ続けた。
意識が途切れる寸前、わたしは、彼が、その口元で、何かを紡ぐのを見た。
それは、今までで最もはっきりと、彼の唇が形作る言葉だった。
『――知ってる』
それは、彼が初めて、わたしの「観測」を受け入れ、わたしと共に真実を「観測」し始めた、決定的な言葉だった。
わたしは、また静かな白い部屋にいた。
「記録」は、また一つ、新たな情報が加わった。
彼が、わたしの存在を、わたしの言葉を、そして彼自身の「嘘」と世界の「歪み」を、ついに**「観測」し、「知る」**ことを選んだ。
わたしは、彼に恋をする。
何度でも。
この世界が、わたしたちの記憶を、どれだけバラバラに引き裂こうとも。
そして、今度こそ、この終わらないループの真実を、彼と共に解き明かすために。