第三話 最初の来訪者
開店間際、微かな足音が聞こえてきた。
慎太郎は息をひそめ、耳を澄ます。
それは、風の音でも、小動物の足音でもなかった。
まるで、誰かがゆっくりと、しかし確実にこの喫茶店「セピア」に向かって歩いてくるかのような、規則的な音だった。
ガサガサと茂みが揺れる音に混じり、どこかから話し声も聞こえてくる。
「…ここに、本当に…。」
それは、慎太郎が知る日本語だった。
こんな森の奥で、なぜ、日本の言葉が?
彼の心臓は、期待と不安で激しく脈打った。
足音は、店の扉の目の前で止まった。
そして、ゆっくりと、ドアノブに手がかけられる。
ドアが、軋むような音を立てて開かれた。
そこに立っていたのは、慎太郎の想像をはるかに超えた存在だった。
燃えるような夕陽を浴びて、その姿はまるで絵画のようだった。
腰まで届く、柔らかな緑色の髪。
透き通るように白い肌は、木漏れ日の斑点を浴びてきらめいている。
尖った耳が、長く伸びた髪の間から覗いていた。
獣の皮を思わせる、素朴だが精巧な装飾が施された服を身につけている。
彼女は、まるで森の精霊がそのまま具現化したかのようだった。
その女性は、大きな、しかし警戒心を滲ませた瞳で、店内をゆっくりと見回した。
その視線が、カウンターの中に立つ慎太郎と交わった瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれた。
「ここは…喫茶店?」
彼女は、はっきりと、慎太郎が理解できる言葉でそう尋ねた。
その瞬間、彼の全身を電流が駆け抜ける。
言葉が通じる。
その事実は、彼の孤独な日々を打ち破る、光のような衝撃だった。
「はい…そうです。いらっしゃいませ…。」
慎太郎は震える声で、ようやくそう答えることができた。
彼の言葉に、彼女の表情がわずかに和らぐ。
彼女は警戒しながらも、ゆっくりと店内へと足を踏み入れた。
彼女の足元から、微かに土と草花の香りが漂ってくる。
彼女はカウンター席の一つに静かに腰掛けた。
「あの…どちらから…?」
慎太郎は、戸惑いながらも尋ねた。
彼女は、不思議そうな表情で、慎太郎をじっと見つめる。
その視線に、彼は自分がこの世界の人間ではないことを、改めて思い知らされた。
「私は…東京という場所から来ました。あなたは…?」
言葉を尽くして説明しようと試みる。
彼女は、じっと耳を傾けていたが、やがて静かに首を横に振った。
「私は、この森で生まれた。東京…という場所は知らない。」
彼女の言葉は、まるで慎太郎の持つ常識を遠い過去のものだと告げているようだった。
「ここは…あなたの故郷ではないのですね?」
彼女の問いに、慎太郎はゆっくりと頷いた。
「はい。そう、ですね…。」
彼女は、納得したように頷き、再び店内を見回す。
そして、壁に掛かったメニュー表に目を留めた。
そこには、静子が手書きで書いた「珈琲」「紅茶」などの文字が並んでいる。
彼女は、その文字を不思議そうに指でなぞった。
「この…『珈琲』というのは…。」
彼女の問いかけに、慎太郎は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ええ。私が心を込めて淹れる、温かい飲み物です。」
彼女は、彼の言葉をじっと聞き、そして静かに言った。
「では、その『珈琲』を…一杯、いただけますか?」
初めての注文。
彼は緊張で、手がわずかに震えるのを感じた。
だが、同時に、深い喜びが湧き上がってくる。
この店の、この異世界での最初の客だ。
彼は深呼吸をし、気持ちを落ち着かせると、丁寧に珈琲豆をミルに入れ、挽き始めた。
ゴリゴリという小気味良い音が、静かな店内に響く。
彼女は、その音をじっと耳を傾けている。
その表情には、警戒心だけでなく、深い好奇心が浮かんでいた。
慎太郎は、いつものように、しかし誰のためでもない、目の前のこの一人の客のためだけに、心を込めて珈琲を淹れていく。
ゆっくりとお湯を注ぐと、豆が膨らみ、豊かな香りが立ち上った。
彼女は、その香りを吸い込み、静かに目を閉じた。
その表情は、どこか懐かしんでいるようにも、安らぎを見出しているようにも見えた。
抽出された琥珀色の液体をカップに注ぎ、慎太郎は彼女の前にそっと置いた。
湯気とともに立ち上る香りは、彼女の顔を優しく包み込む。
彼女は両手をカップに添え、その温もりを確かめるように、じっと見つめていた。
慎太郎は、静かに彼女の反応を待った。




