第二話 森のざわめきと見えない視線
開店初日。
森は静かで、客の気配は全くない。
鳥のさえずりが、どこか遠くで聞こえるだけだ。
期待と不安が、入り混じった複雑な感情が、彼の胸に去来する。
本当に、この店に客は来るのだろうか。
だが、彼は焦らなかった。ただ静かに、いつもの定位置であるカウンターに立ち、来るかどうかもわからない最初の客を待った。
時計は、相変わらずあの「午後三時四十五分」で止まったままだ。
慎太郎は懐から自分の腕時計を取り出し、時間を確かめる。
午前九時三十分。
開店時間だ。
彼はゆっくりと珈琲豆をミルに入れ、ゴリゴリと音を立てて挽き始めた。
この日の最初の珈琲は、自分自身のために淹れた。
小川の水を丁寧に沸かし、手回しの焙煎機で煎り上げたばかりの珈琲豆で、一杯の珈琲を淹れる。
立ち上る湯気と香りが、彼の心をそっと包み込む。
カップを両手で包み込み、ゆっくりと一口飲む。
「……美味い。」
言葉が、自然と口からこぼれ落ちた。
静子と共に追い求めた、あの懐かしい味だ。
窓の外では、陽の光を浴びた木々の葉が、風に揺れてキラキラと輝いている。
それは、東京の喧騒とは全く違う、静かで、しかし力強い生命の音だった。
彼は珈琲を飲み干し、再び立ち上がった。
日が傾き始め、森が夕暮れの色に染まり始めた頃。
閉店の準備を始めた慎太郎の耳に、微かな音が届いた。
風が葉を揺らす音とは違う。
それは、何かが動く気配。
木の枝を折るような、乾いた音が、森の奥から時折聞こえてくる。
それは、昨日まで感じていた、見えない視線が形を持ったかのような、何かを予感させる音だった。
彼は身構え、ゆっくりと、しかし確実に、ドアの方へと視線を向けた。
しかし、ドアは静かに閉ざされたままだ。
外から聞こえる音は、再び止まった。
何も起こらなかったことに、安堵と、そしてわずかな落胆を覚える。
誰も来なかった。
やはり、この場所に客など来ないのかもしれない。
その夜、慎太郎はベッドに横になり、静子との思い出に浸っていた。
店を開くことを決めた時、彼女は満面の笑みで「素敵ね」と言ってくれた。
彼女は、彼の淹れる珈琲が、多くの人の心を癒す力を持っていることを知っていた。
だからこそ、彼はこの異世界で、再び珈琲を淹れ続けることを決めたのだ。
「静子……僕は、まだ、一人で大丈夫だからな。」
そう呟き、彼は静子の写真が飾られた壁の方を向いた。
窓の外には、満月が煌々と輝き、森の木々を銀色に染めている。
その光景は、どこか幻想的で、しかし彼の心を穏やかにしてくれた。
翌朝、慎太郎は再び開店準備を始めた。
今日も、客は来ないかもしれない。
それでも、彼は昨日と同じように、心を込めて珈琲を淹れる。
それが、彼にとっての日常であり、静子との夢を繋ぐ唯一の方法だった。
二日、三日、四日──。
客が来ない日々が続いた。
それでも彼は、毎日決まった時間に店を開け、閉店し、珈琲を淹れ続けた。
彼の心には、少しずつ、森の空気と、この孤独な日常が染み込んでいく。
もはや、この場所に客が来るという期待よりも、静子との思い出を守るという使命感が、彼を突き動かしていた。
五日目の朝。
いつものように開店準備を終え、カウンターに立つ慎太郎の耳に、再び微かな音が届いた。
それは、昨日までとは違う、より近くから聞こえてくる音だった。
ガサガサと、茂みが揺れる音。
そして、その音に混じって、確かに聞こえたのだ。
「…ここに、本当に…。」
「…看板がある…。」
二人の人物が話す声。
慎太郎は、思わず息を呑んだ。
言葉が、日本語に聞こえる。
それは、彼が初めて聞く、人間の声だった。
彼の心臓が、大きく脈打つ。
期待、不安、恐怖、そして喜び。
様々な感情が、渦のように彼の胸を駆け巡る。
本当に、客が来るのだろうか。
彼は、固く閉ざされたドアを見つめた。
そして、ゆっくりと、そのドアに手を伸ばす。
彼は、この店の扉を開けるのだ。
そして、この世界で、新たな一歩を踏み出すのだ。
ドアノブを回すと、軋むような音が、再び静かな森に響き渡った。




