表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある森の喫茶店セピア  作者: 御歳 逢生
第二滴 森の珈琲店、初めての交流
7/8

第二話 森のざわめきと見えない視線


開店初日。

森は静かで、客の気配は全くない。

鳥のさえずりが、どこか遠くで聞こえるだけだ。

期待と不安が、入り混じった複雑な感情が、彼の胸に去来する。

本当に、この店に客は来るのだろうか。

だが、彼は焦らなかった。ただ静かに、いつもの定位置であるカウンターに立ち、来るかどうかもわからない最初の客を待った。


時計は、相変わらずあの「午後三時四十五分」で止まったままだ。

慎太郎は懐から自分の腕時計を取り出し、時間を確かめる。

午前九時三十分。

開店時間だ。

彼はゆっくりと珈琲豆をミルに入れ、ゴリゴリと音を立てて挽き始めた。


この日の最初の珈琲は、自分自身のために淹れた。

小川の水を丁寧に沸かし、手回しの焙煎機で煎り上げたばかりの珈琲豆で、一杯の珈琲を淹れる。

立ち上る湯気と香りが、彼の心をそっと包み込む。

カップを両手で包み込み、ゆっくりと一口飲む。


「……美味い。」


言葉が、自然と口からこぼれ落ちた。

静子と共に追い求めた、あの懐かしい味だ。


窓の外では、陽の光を浴びた木々の葉が、風に揺れてキラキラと輝いている。

それは、東京の喧騒とは全く違う、静かで、しかし力強い生命の音だった。

彼は珈琲を飲み干し、再び立ち上がった。



日が傾き始め、森が夕暮れの色に染まり始めた頃。

閉店の準備を始めた慎太郎の耳に、微かな音が届いた。

風が葉を揺らす音とは違う。

それは、何かが動く気配。

木の枝を折るような、乾いた音が、森の奥から時折聞こえてくる。

それは、昨日まで感じていた、見えない視線が形を持ったかのような、何かを予感させる音だった。


彼は身構え、ゆっくりと、しかし確実に、ドアの方へと視線を向けた。

しかし、ドアは静かに閉ざされたままだ。

外から聞こえる音は、再び止まった。

何も起こらなかったことに、安堵と、そしてわずかな落胆を覚える。


誰も来なかった。

やはり、この場所に客など来ないのかもしれない。


その夜、慎太郎はベッドに横になり、静子との思い出に浸っていた。

店を開くことを決めた時、彼女は満面の笑みで「素敵ね」と言ってくれた。

彼女は、彼の淹れる珈琲が、多くの人の心を癒す力を持っていることを知っていた。

だからこそ、彼はこの異世界で、再び珈琲を淹れ続けることを決めたのだ。


「静子……僕は、まだ、一人で大丈夫だからな。」


そう呟き、彼は静子の写真が飾られた壁の方を向いた。

窓の外には、満月が煌々と輝き、森の木々を銀色に染めている。

その光景は、どこか幻想的で、しかし彼の心を穏やかにしてくれた。



翌朝、慎太郎は再び開店準備を始めた。

今日も、客は来ないかもしれない。

それでも、彼は昨日と同じように、心を込めて珈琲を淹れる。

それが、彼にとっての日常であり、静子との夢を繋ぐ唯一の方法だった。



二日、三日、四日──。



客が来ない日々が続いた。

それでも彼は、毎日決まった時間に店を開け、閉店し、珈琲を淹れ続けた。

彼の心には、少しずつ、森の空気と、この孤独な日常が染み込んでいく。

もはや、この場所に客が来るという期待よりも、静子との思い出を守るという使命感が、彼を突き動かしていた。



五日目の朝。

いつものように開店準備を終え、カウンターに立つ慎太郎の耳に、再び微かな音が届いた。

それは、昨日までとは違う、より近くから聞こえてくる音だった。

ガサガサと、茂みが揺れる音。

そして、その音に混じって、確かに聞こえたのだ。


「…ここに、本当に…。」

「…看板がある…。」


二人の人物が話す声。

慎太郎は、思わず息を呑んだ。

言葉が、日本語に聞こえる。

それは、彼が初めて聞く、人間の声だった。


彼の心臓が、大きく脈打つ。

期待、不安、恐怖、そして喜び。

様々な感情が、渦のように彼の胸を駆け巡る。

本当に、客が来るのだろうか。

彼は、固く閉ざされたドアを見つめた。


そして、ゆっくりと、そのドアに手を伸ばす。

彼は、この店の扉を開けるのだ。

そして、この世界で、新たな一歩を踏み出すのだ。

ドアノブを回すと、軋むような音が、再び静かな森に響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ