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とある森の喫茶店セピア  作者: 御歳 逢生
第一滴 始まりの森の喫茶店
5/8

第四話 再出発


リュックサックいっぱいに、見慣れない赤い実──珈琲豆らしきもの──を詰めて喫茶店「セピア」に戻った慎太郎は、胸の高鳴りを抑えきれなかった。

疲労困憊の体だったが、発見した希望が彼を突き動かす。

彼はカウンターの椅子に腰を下ろし、集めてきた実を一つ一つ、丁寧に広げてみた。


掌に広がる赤い実は、どれも均一な大きさで、傷一つない。

その表面を指でなぞると、彼が東京で扱っていた珈琲豆の、あの丸みと硬さを確かに感じることができた。

皮を剥いた中からは、やはり見慣れた二つの豆が顔を出す。

匂いを嗅ぐと、微かに青みがかった、しかし間違いなく珈琲の香りがした。


「これは……本当に珈琲豆なのか?」


確信したい衝動に駆られ、慎太郎は店奥の小さな手回しの焙煎機を見つめた。

静子との思い出の中に、小さな手回しの焙煎機があったことを思い出した。

それは、静子が珈琲を淹れ始めたばかりの頃、二人で試行錯誤するために購入したものだった。

店の奥の物置を探すと、埃を被っていたが、確かにそこにあった。


慎太郎は早速、集めた実の中から数粒を選び、慎重に焙煎機に投入した。

静子の写真に一瞬目をやり、「見ていてくれ、静子」と心の中で呟く。

焙煎機をゆっくりと回し始める。

最初は青かった豆が、熱を受けて少しずつ色を変えていく。

パチパチ、と小さな音が聞こえ始めた。ハゼだ。


焙煎が進むにつれて、青い香りは徐々に消え失せ、代わりに、あの深く、甘く、そして苦い、懐かしい珈琲の香りが店内に満ちていく。

その香りは、彼が慣れ親しんだ東京の喫茶店「セピア」の香りそのものだった。

慎太郎は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

胸の奥に染み渡るその香りは、まるで静子が隣にいるかのような錯覚を起こさせる。


焙煎を終えた豆は、美しい茶褐色に輝いていた。

香りを確かめると、彼の知る珈琲豆と寸分違わない。

慎太郎はそれをミルに入れ、丁寧に挽いた。

ゴリゴリという小気味良い音が、この異世界で、再び響き渡る。


淹れるための水は、先ほど見つけた小川の水だ。

彼は使い慣れたドリッパーにフィルターをセットし、挽きたての豆を優しく入れた。

ゆっくりと、お湯を注ぐ。

豆が膨らみ、豊かな泡が立ち上がる。

その光景は、彼にとってのかけがえのない日常だった。



抽出された深い琥珀色の液体が、ゆっくりとカップに落ちていく。

湯気と共に立ち上る香りは、まさしく本物の珈琲の香りだ。

慎太郎は恐る恐る、そのカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。


瞬間、彼の知る、あの深い苦味と、豊かなコク、そして後から追ってくるような穏やかな甘みが口いっぱいに広がった。


「……っ!」


思わず目を見開く。

間違いない。

これは、彼が毎日淹れている、あの珈琲の味だ。


安堵と、途方もない喜びが、全身を駆け巡った。

絶望の淵に立たされていた彼にとって、これは何よりも確かな希望だった。

この異世界で、再び「セピア」の珈琲を淹れることができる。

静子との夢を、この場所で続けることができる。


窓の外に広がる深い森を見つめながら、慎太郎は考える。

なぜ自分はここに転移したのか、古時計が動き出したのはなぜなのか、何も分からない。

しかし、この珈琲豆が見つかったということは、この世界でも、彼が珈琲を淹れ続ける意味があるということなのではないか。


「この店は、静子との思い出そのものだ。そして、僕が珈琲を淹れること、それが僕の全てだ。」


彼は静子の写真にそっと手を触れた。

喫茶店「セピア」は、静子との思い出の結晶であり、彼女が一番愛した場所だ。

この場所を守り、異世界で珈琲を淹れ続けることが、静子への永遠の誓いであり、彼自身の生きる道だと、彼は固く決意した。


そして、もう一つ。


彼は、これまで出会ったことのない世界の住人たちを想像した。

彼らも、きっと悩みや悲しみを抱えているだろう。

東京で、彼の淹れる珈琲が、田中さんをはじめ、多くの客の心を癒してきたように、この異世界でも、誰かの心に安らぎを与えられるかもしれない。


『今日のあなたに必要な一杯を、お淹れしましょう。』


かつて静子が、彼が淹れる珈琲を評してくれた言葉が、胸の奥で響いた。


『あなたらしい、優しい珈琲ね。』


その言葉が、今、彼の中で新たな意味を持ち始めた。

まだ見ぬ客たちに、温かい珈琲と、静かな時間を提供したい。

それが、彼の新たな使命となる予感がした。


慎太郎は、店内の掃除を始めた。

転移の衝撃で散らばったものを元の位置に戻し、埃を丁寧に拭き取る。


明日から、ここで再び店を開くのだ。慣れない世界での生活は、きっと困難の連続だろう。

しかし、彼の顔には、希望に満ちた、穏やかな決意が浮かんでいた。


夜が明け、朝の光が窓から差し込む。

森から聞こえる鳥のさえずりが、昨日までとは違って、希望に満ちた調べに聞こえる。

慎太郎は、新しい一日を始めるために、ゆっくりと珈琲豆を挽く準備を始めた。


喫茶店「セピア」。

異世界の森の片隅で、その扉が、今日、再び開かれる。


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