表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある森の喫茶店セピア  作者: 御歳 逢生
第一滴 始まりの森の喫茶店
4/8

第三話 珈琲の木


澄み切った小川の水は、彼の喉の渇きを癒し、乾ききっていた心にわずかな潤いを与えてくれた。

これで、当面は水に困ることはないだろう。

しかし、生きていく上で必要なものは水だけではない。


食料はどうする?

そして、何より喫茶店を営む上で不可欠な、珈琲豆はどうする?


慎太郎は再び喫茶店「セピア」の前に戻り、開け放たれたドアから店内を見つめた。

静子が愛したこの場所が、今、全くの未知の森の中に佇んでいる。

まるで、時が止まったままの、奇妙な箱庭のようだ。

この店を、この場所で再び開くことができるのだろうか。


彼の思考は、自然と過去へと遡った。

静子と初めて喫茶店を開いた日のこと。

二人で珈琲豆を求めて、あちこちの業者を訪ね歩いた日々。

理想の味を求めて、夜遅くまで試行錯誤を繰り返した時間。

静子の嬉しそうな笑顔。


「あなた、この豆、香りがとっても優しいわ。きっと、お客さんも喜んでくれるわね!」


彼女の言葉が、今も鮮明に耳に蘇る。

あの頃の苦労が、今ではかけがえのない思い出だ。

そんな思い出に浸るうちに、彼の心に一つの強い決意が芽生え始めた。


ここで、喫茶店「セピア」を、再び開く。

静子との思い出が詰まったこの場所を、この異世界でも守り続ける。


そのためには、珈琲豆が絶対に必要だ。


慎太郎は、店に備え付けてあった小さなリュックサックを手に取った。

中には、非常用の水筒と、簡単な救急セット。

そして、静子が旅行の際に持たせてくれた、小さな方位磁石。

もしかしたら、この森で珈琲豆が手に入るかもしれない。

そんな淡い希望が、彼の心を突き動かした。


店の周囲を、さらに慎重に探索することにした。

小川に沿って少しだけ上流へ進んでみる。

地面は柔らかい土で、足跡がつきやすい。

獣道のように、細く踏み固められた場所も見えた。

動物が通っているのだろうか。

慎太郎は警戒しつつも、周囲の音に耳を傾け、ゆっくりと歩を進めた。



高くそびえ立つ木々は、どこまで行っても途切れる気配がない。

陽の光が届きにくい森の奥は、薄暗く、ひんやりとした空気が漂っている。

見慣れない植物が、彼の視界を埋め尽くす。

鮮やかな花々は、まるで宝石のように輝き、奇妙な形をしたキノコが苔むした倒木から生えている。

中には、見たことのない果実のようなものが実っている木もあったが、それが食べられるものなのか、毒があるのか、全く判断がつかない。


歩き続けていると、突然、遠くから「クゥー、クゥー」という、聞いたことのない鳥の鳴き声が響いてきた。

続いて、ガサガサと茂みが揺れる音。

慎太郎は思わず身を固め、周囲を見回す。

だが、姿は見えない。

警戒しながらも、彼の視線は、周囲の植物へと向けられていた。


その時だった。


目の前に、一際目を引く木が現れた。

幹は他の木々と同じように太いが、その枝には、見慣れないが、どこか見覚えのある、真っ赤な実が無数にぶら下がっている。

まるで、熟れたサクランボのようだ。


慎太郎は、思わず息を呑んだ。

心臓が大きく脈打つ。


恐る恐る、その木に近づいていく。

そして、枝に手を伸ばし、赤い実を一つ、そっともぎ取った。

手のひらに乗せると、ずっしりと重い。

触感は、彼が知る珈琲の実と酷似していた。

表面はなめらかで、少し弾力がある。


鼻腔に近づける。

すると、微かに、しかし確かに、焙煎前の珈琲豆が持つ、あの独特の青く、フレッシュな香りがした。

その香りは、彼の知る珈琲の記憶を呼び覚まし、絶望の中に差し込んだ、一筋の光のように感じられた。


信じられない思いで、慎太郎は実の皮を剥いてみた。

爪で丁寧に皮を剥がすと、現れたのは、彼の知る珈琲豆と全く同じ、二つの豆が重なり合った形。

表面には、あの独特の溝も見て取れる。

色は、僅かに緑がかった白だ。


「……珈琲、豆……なのか?」


彼の唇から、掠れた声が漏れた。

信じがたい奇跡が、今、目の前で起こっている。

こんな森の奥で、まさか、珈琲の木に出会えるとは。


その時、静子の笑顔が、再び脳裏に鮮明に浮かんだ。

彼女が珈琲豆を見つけた時の、あの無邪気なほど喜んだ顔。


「静子、見てくれ。こんな場所に、珈琲の木が……。」


心の中で、慎太郎は静子に語りかけた。

もし彼女がここにいたら、どんなに喜んだだろうか。

きっと目を輝かせ、この豆をどう焙煎しようかと、熱心に語り始めたに違いない。

彼女と共に、この森で、新しい珈琲の味を探求できたなら。


喪失感が再び胸を締め付け、瞳の奥が熱くなる。

だが、それと同時に、強い希望が胸に満ちていく。

この珈琲豆があれば、彼は静子との喫茶店を守り続けられる。

この異世界でも、「セピア」の珈琲を淹れ続けられる。


彼は、珈琲豆を握りしめた。

その感触が、彼に確かな現実と、生きる意味を与えてくれる。

この豆があれば、まだやれる。

まだ、この場所で、静子との夢を続けることができる。


森の奥から、再び得体の知れない動物の鳴き声が聞こえてきた。

それは、彼の心を不安にさせる音だが、もう、ただ怯えるだけではない。

この珈琲豆が、彼に新たな力を与えてくれたのだ。


慎太郎は、リュックサックに珈琲の実を慎重に集め始めた。

まだ、この豆が本当に使えるのか、この森で生きていけるのか、課題は山積している。

それでも、彼の心には、確かな希望の光が灯っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ