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とある森の喫茶店セピア  作者: 御歳 逢生
第一滴 始まりの森の喫茶店
3/8

第二話 店の外


頭の鈍痛と、胸の奥で重くのしかかる得体の知れない不安感は、まだ消えてはいない。

しかし、呆然と窓の外を見つめ続けていた慎太郎は、やがて、少しずつ冷静さを取り戻そうと努めた。

いつまでもこのままではいられない。

なぜこんなことになったのか、どうすれば元に戻れるのか、今はまだ何も分からない。

だが、まずはこの状況で、どう生き延びるかを考えなければならない。

静子と二人で築き上げてきた喫茶店「セピア」が、今、全く未知の場所に存在している。

それを現実として受け入れなければ。



重い足取りで、慎太郎は店内の奥へと向かった。

壁に掛けられた古時計は、あの光の時を境に、再び止まっていた。


午後三時四十五分。


彼の世界が止まった、あの時刻に。

時計のガラスに映る自分の顔は、青ざめていて、まるで別人のようだ。

彼は大きく息を吐き、静子がいつも置いていた小さな花瓶に活けられた、枯れかけた花に目を留めた。

枯れていても、そこには確かに静子の痕跡がある。

それをそっと指でなぞった。


「……まずは、この店がどうなっているか、だな。」


店内の戸棚を開け、珈琲豆のストックを確認する。

普段使っている豆は、きちんと袋に収まっていた。

ドリッパーやサイフォンなどの器具も、全て無事だ。

水回りも異常はないように見える。


電気は……恐る恐る電気のスイッチを入れてみる。

照明がついた。

それに冷蔵庫のモーター音も聞こえる。

電気が通っていることに安心した。


一通り店内の確認を終えた慎太郎は、再び窓の外の森へと視線を向けた。

いつまでも店の中に閉じこもっていても仕方がない。

この状況の全てを理解することはできなくとも、少なくともこの「セピア」が今ある場所について、自分の目で確かめる必要がある。


意を決して、慎太郎は古びた木製のドアに手をかけた。

重いドアノブをひねり、ゆっくりと外へと押し開く。

軋むような音が、静かな森に響いた。



扉を開いた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、これまでの人生で嗅いだことのない、清冽で複雑な匂いだった。

都会の排気ガスの匂いや、アスファルトの熱気は微塵もない。

代わりに、湿った土の香り、生命力に満ちた青々とした植物の匂い、そして、どこか甘く、しかし人工物ではない、自然が放つ独特の芳香が、彼の肺いっぱいに流れ込んできた。

深呼吸すると、まるで全身の細胞が浄化されるかのような感覚に襲われる。

ひんやりとした空気が、火照った体に心地よかった。


店の外へ一歩足を踏み出す。

彼の足が着地したのは、苔むした、巨大な切り株の表面だった。

フカフカとした苔の感触が、革靴越しにじんわりと伝わってくる。

微かに湿り気を帯びていて、朝露か、あるいは昨夜の雨の名残りだろうか。

切り株は店の土台になっているようで、その広大さに慎太郎は改めて驚いた。


視線を上げると、そこには息をのむような光景が広がっていた。


頭上を覆うのは、天高くそびえ立つ、見たこともないほど巨大な木々の群れだ。

幹は太く、その樹皮には深い皺が刻まれている。

葉は鮮やかな緑色で、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。

東京の街路樹とは比較にならない、圧倒的な存在感だ。


陽の光は、木々の分厚い葉の隙間から細く、しかし生命力に満ちた輝きで店内に差し込み、店内の床に揺れる木漏れ日の斑点模様を作り出している。

その光は、都会のビル街が反射させる無機質な光とは全く異なり、瑞々しく、どこか神秘的な輝きを放っていた。


耳を澄ませば、都会の喧騒とは全く違う、自然の音が聞こえてくる。

風が葉を揺らす、ざわめくような音。

遠くからは、清らかな小鳥たちの澄んださえずりが響き渡る。

その音色は複雑で、まるで複数の楽器が同時に奏でられているかのようだ。

そして、時折、ザワザワ、と木の葉が揺れる音に混じって、どこか遠くで、得体の知れない動物の鳴き声が響いてくる。

それは、彼の知る動物の鳴き声とは異質で、警戒と、わずかな好奇心を同時に掻き立てられた。



慎太郎は、店の周りをゆっくりと歩いてみた。

切り株の縁には、見たこともない形状の、鮮やかな花々が咲き乱れている。深い青色、燃えるような赤、透明感のある紫色。

どれもこれも、彼が見たことのない、幻想的な色彩を放っていた。

足元には、巨大な蔦が絡みつき、奇妙な葉を持つ植物が地面を覆っている。

その全てが、彼の知る地球の植物とは異なっていた。

ここは、本当に別の世界なのだ。



この広大な森で、生きていくには何が必要か。

まず、真っ先に思い浮かんだのは、「水」だった。

幸いにも、店からさほど遠くない場所に、水の流れる音が聞こえる。

音を頼りに数歩進むと、そこには驚くほど澄み切った小川が流れていた。

川底の小石一つ一つが、肉眼ではっきりと見えるほどに透き通っている。


慎太郎は、小川のほとりに膝をついた。

冷たい水が、手のひらを伝ってひんやりと指先に染み渡る。

恐る恐る、掌ですくった水を口に含む。

清らかで、癖のない、まろやかな味がした。

生きる上で最も重要な要素の一つが確保できたことに、深い安堵が胸をよぎる。

この水ならば、珈琲を淹れることもできるだろう。

ふと、静子がこの川を見たら、どんなに喜んだだろうかと思った。

彼女は自然を愛し、澄んだ水を見るたびに、その美しさに目を細めていた。


小川のせせらぎが、彼の不安を少しだけ和らげてくれる。

しかし、視界の先には、どこまでも続く深い森。

この広大な未知の場所で、たった一人で生きていくことへの、漠然とした恐怖が、まだ彼の心を支配していた。


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