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とある森の喫茶店セピア  作者: 御歳 逢生
プロローグ
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プロローグ


黄昏時、喫茶店「セピア」は、ひっそりとした呼吸を続けていた。古びた木製のドアを開けて足を踏み入れると、まず鼻腔をくすぐるのは、焙煎されたばかりの珈琲豆が持つ、深く芳醇な香りだ。

その奥には、使い込まれたカウンターやテーブルから発せられる、どこか懐かしい木の匂い。

それらが混じり合い、この店特有の、セピア色の記憶を呼び覚ますような空気を醸し出している。


店主の慎太郎は、丁寧に抽出した珈琲を、馴染みの客である初老の女性、田中さんの前に静かに置いた。

柔らかな湯気が立ち昇り、彼女の顔を優しく包む。

田中さんは、慎太郎が開業した当初からの客で、毎週火曜日のこの時間には必ず訪れる。


「あら、慎太郎さん。今日も完璧な一杯ね。この香りを嗅ぐと、心が落ち着くわ。」


田中さんは目を細め、ゆっくりとカップを両手で包み込んだ。

その手のひらに、温かさがじわりと染み渡る。


「ありがとうございます。田中さんにそう言っていただけると、嬉しいです。」


慎太郎は控えめに微笑んだ。

彼の淹れる珈琲は、ただ美味しいだけでなく、訪れる人々の心に、そっと寄り添うような温かさがあった。

それは、彼自身の穏やかな人柄が、珈琲に乗り移っているかのようだった。


「本当に、この喫茶店は私たちの憩いの場よ。マスターと奥さんがいた頃から、ずっとね。」


田中さんの言葉に、慎太郎の表情が微かに曇る。


彼女の言う「奥さん」とは、彼の亡き妻、静子のことだ。

静子は、太陽のような人だった。どんな時も明るく、慎太郎の隣で、この喫茶店を共に作り上げてきた。

店内には、静子の選んだアンティークの調度品や、彼女が撮ったセピア色の写真が飾られている。

磨き上げられたカウンターの奥、陽の当たる特等席には、いつも空のカップが一つ置かれているが、それは静子がいつも座っていた場所だった。静子が淹れた水出し珈琲は、この店の隠れた人気メニューでもあった。


静子がこの世を去ってから、もう三年になる。

店の奥、壁に掛けられた古びた振り子時計は、静子が息を引き取った午後三時四十五分で止まったままだ。

まるで時が、あの日で止まってしまったかのように。

それでも、慎太郎は毎日、変わらずこの店を開いている。

静子との思い出が詰まった「セピア」という場所を、彼女が一番愛した珈琲の香りで満たし続けることが、彼にとっての、唯一の生きる意味だった。


田中さんが店を出て、再び静けさが戻ると、慎太郎はゆっくりと息を吐いた。


午後の陽射しが斜めに差し込み、磨き上げられた床に光と影の模様を描く。

窓の外を眺めれば、通りを行き交う人影はまばらで、ビルの谷間に沈みゆく夕陽が、今日という日の終わりを告げている。都会の喧騒からは一歩引いた、この場所だけが持つ穏やかな空気。

それが、彼の選んだ日々だった。


閉店準備を終え、慎太郎は店を後にした。

夕食の買い物をするため、馴染みの八百屋へ向かう。


「あら、慎太郎さん。今日も一日お疲れ様。」


店先で野菜を並べる八百屋のおばさんが、笑顔で声をかけてきた。

彼女も、静子が健在だった頃からの顔見知りだ。


「ええ、おかげさまで。今日はほうれん草と、あとは……。」


慎太郎は、静子がよく作ってくれたグラタンを思い出す。

静子はいつも、旬の野菜を使って、彩り豊かな料理を作ってくれた。


「これ、新鮮で美味しいよ。静子さんが好きだった、あの甘いトマトもあるよ。」


おばさんが差し出したのは、真っ赤に熟れたトマトだった。

静子は、このトマトを一口食べるたびに、「んー、しあわせ!」と嬉しそうに目を細めたものだ。

その光景が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。


慎太郎はそっとトマトを手に取り、掌でその温もりを感じた。

静子がいない食卓は、どんなに豪華な料理を並べても、どこか満たされない。

それでも、慎太郎は毎晩、きちんと食事を作っていた。

静子が残してくれた、日々の営みを、丁寧に守り続けるために。


家に帰り、簡単な夕食を済ませる。

食卓には、静子が座っていた場所が、ぽっかりと空いていた。


『美味しいね、あなた。』


あの優しい声が、今でも鮮明に耳の奥に響く。

指先が微かに震える。珈琲豆をグラインダーに投入する手が、一瞬だけ止まる。

静子がこの世を去ってから、どれほどの月日が流れただろうか。

止まったままの古時計の針は、彼の心の中の時間を正確に示していた。


午後三時四十五分。


静子が息を引き取った、あの日、あの時で、彼の世界は止まってしまったのだ。


それでも、慎太郎は毎日、変わらずこの店を開いている。

妻との思い出が詰まった「セピア」という場所を、妻が一番愛した珈琲の香りで満たし続けることが、彼にとっての、唯一の生きる意味だった。


抽出したての珈琲が、ポタポタと、規則正しいリズムでカップに落ちていく。

深い琥珀色の液体は、まるで彼の心の奥底に沈む悲しみのように見えた。

その中に、ほんの少しの、それでも確かに存在する温かい光を求めて、彼は日々、珈琲を淹れ続けていた。


「……君がいたら、何て言うかな。」


カップに湯気が静かに立ち昇るのを眺めながら、慎太郎はそっと呟いた。

声に出せば、途端に現実が押し寄せてくる。

それでも、呟かずにはいられなかった。

きっと静子なら、「あなたらしい、優しい珈琲ね」と、あの柔らかな瞳で、穏やかに微笑んでくれるだろう。

そんな幻影に浸り、彼はゆっくりと息を吐いた。



その時だった。



カチリ、と、乾いた音が静寂を破った。


慎太郎が顔を上げると、店の奥、壁に掛けられた古びた振り子時計が、微かに揺れている。妻がこの世を去ってから、ずっと止まったままだった古時計の針が、ゆっくりと、しかし確かに、動き出していたのだ。チクタク、チクタク。それは、何十年ぶりかの時を刻む音だった。まるで、止まっていた時間が、今、再び動き出したかのように。


心臓が大きく脈打つ。何が起こっているのか理解できないまま、慎太郎は古時計から目が離せなかった。

次の瞬間、古時計は眩いばかりの光を放ち始めた。

その光は瞬く間に店内を満たし、セピア色の空間を純白の光で染め上げる。


珈琲の香りが、遠く、遠く、霞んでいくような感覚。

足元から、そして店の壁から、全身を包み込むような、底知れない浮遊感。

体中の感覚が、ゆっくりと麻痺していくようだった。

意識が遠のく直前、慎太郎の脳裏には、妻の、あの穏やかで慈愛に満ちた笑顔が、鮮明に浮かんでいた。

彼の指先が、まだ温かい珈琲のカップに触れたまま、ぐっと力を込めた。


◇◆◇


どれほどの時間が経ったのだろう。



眩い光が収まった時、慎太郎はカウンターに突っ伏したまま、ゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。

乾いた唇を舐め、顔を上げる。


店内の様子は、何も変わっていないように見える。

使い慣れたカウンター、磨き上げられた珈琲器具、そして、あの古時計も。

だが、窓の外の景色は、明らかに異なっていた。


コンクリートジャングルとアスファルトの道は、どこにも見当たらない。

視界を埋め尽くすのは、高く、高くそびえ立つ木々の緑。

陽の光が木々の隙間から細く差し込み、店内に優しい木漏れ日の斑点を作り出している。

清らかな小鳥たちのさえずりが、どこか遠くから響いてくる。

どこまでも透き通った、清らかな空気が、肺いっぱいに流れ込んできた。


喫茶店「セピア」は、見慣れない森の奥深く、苔むした巨大な切り株の上に、まるで最初からそこにあったかのように、静かに佇んでいた。

古びた看板には、開店当時に妻が書いてくれた「喫茶セピア」の文字、今では色褪せている。

店の周りには、見たことのない形状の、鮮やかな花々が咲き乱れている。


慎太郎は、ただ呆然と、その光景を眺めていた。


ここは、彼が知る東京の片隅ではない。


それは、疑いようのない事実だった。

手元に残された、まだ温かい珈琲のカップだけが、現実と非現実の狭間で、彼の唯一の拠り所のように感じられた。

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