アンチファン処刑作家
深夜の書斎にほの暗いランプの光が揺らめいている。
書きかけの原稿用紙が机に散乱するなか、一ノ瀬卓磨は手元のパソコンを睨みつけていた。
人気ミステリー作家としての地位を築いて久しいが、その裏側で彼を攻撃するアンチファンは増え続けている。
それでも一ノ瀬は彼らを徹底的に排除するどころか、逆に“養分”として取り込んできた。
そして今、そのやり方はさらに常軌を逸した方向へ進もうとしていた。
SNSのアプリを起動すると、一ノ瀬のタイムラインには罵倒や中傷が絶えず流れてくる。
「こんなグロだけの底辺作家、もう読む価値ない」
「受賞歴だけはやたら多いけど、中身は三流以下」
言葉の攻撃は多岐にわたるが、彼にはもう慣れっこだった。
いや、慣れるどころか、相手のプロフィールやフォロワー情報を探ることにある種の快感すら覚え始めていた。
例えば、アイコンに高校の制服姿を載せている〈shadowboxer〉というアカウント。
口調は乱暴だが、どこか子どもじみた文体が気になり、一ノ瀬はフォローフォロワー欄を丹念に調べ上げた。
その結果、特定の学校の生徒が集まる部活系コミュニティを見つけたのだ。
部活仲間と思しきやり取りがあったため、プロフィール写真や投稿時間、友人同士の呼び名を総合して、神奈川県内の私立校に通う二年生の男子生徒だと推察できた。
しばらくして、書き込まれている実名らしき名前を割り出すと、一ノ瀬は満足げに薄く笑う。
「……君は次の“章”に登場してもらおうか」
一ノ瀬は小さく呟くと、新作のファイルを開いて文字を打ち込み始める。
そこには地下室に監禁された少年が必死の抵抗を試みるも、首に巻かれた金属チェーンを外せないまま処刑される描写がすでに下書きされていた。
加害者はあくまで謎の人物として描かれているが、被害者の名前にはさっき突き止めた少年の実名がそっくりそのまま当てはめられている。
「監禁された××高校の生徒、吉田透。
SNSで特定の作家を執拗に批判していた……」
その文章を読むだけで、一ノ瀬の心には奇妙な充足感が満ちていく。
まるで自分が神の視点に立って、アンチの運命を操っているかのようだ。
次に、一ノ瀬はフォロワー数の多い〈salty_orchid〉というアカウントを開いた。
アイコンはエレガントな蘭の花の写真だが、投稿内容は過剰な悪意に彩られている。
「一ノ瀬の文章には品がない。
同じ受賞作家でも、もっとレベルの高い人は山ほどいる」
プロフィール欄には「経理OL」「カフェ巡り好き」とあるが、フォロワーとのやりとりから勤め先が都内のIT関連企業らしいことが判明。
そして会社の情報をツイートしている友人の投稿をたどっていくと、企業名まで辿り着いた。
さらには同僚との写真にタグ付けされたフルネームがあり、そこに「望月瑠璃」という女性が映り込んでいる。
「成るほど……君は意外と簡単に尻尾を出すんだな」
一ノ瀬は鼻で笑うようにして画面を閉じ、新作の別の章を開く。
そこにはとあるオフィスビルの一室で、一人の女性が身元不明の者に首を締め上げられ、舌を噛み切るように絶命する場面が記されていた。
その被害者の名は「望月瑠璃」。
彼女は作中でSNSを通じて他人を批判し続け、それを趣味のようにしていたキャラクターとして描かれている。
服装や立ち振る舞いも、アイコンや写真から推察したイメージをそっくり投影した。
「これで、君の“役割”は完成だね」
さらに、一ノ瀬は執拗に「作家失格」と書き込み続ける〈BurnedPage〉というユーザーにも目を向ける。
フォロワーを見れば、同じ職種の仲間同士で励まし合う投稿が多く、どうやら地方の工場勤務らしかった。
位置情報がオープンになっている投稿を辿ると、ほとんどが愛知県内を中心にしている。
職場の写真には会社の看板が映り込み、そこに「板倉工業」という社名を発見。
決定的だったのは、社員旅行と思われる写真のタグに「長谷川祐介」と実名が混ざっていたことだ。
その投稿に対して〈BurnedPage〉のアカウントが「俺、来年こそは欠席したい」と返信している。
つまり〈BurnedPage〉=長谷川祐介という構図がほぼ確定したわけである。
「まるでパズルを解いているみたいだ。
ああ、なんて楽しいんだろう」
一ノ瀬は小さく呟き、作中の目次を開いて新たなセクションを挿入する。
そこには、工場帰りの男性が謎の車に拉致され、廃工場の奥で切り裂かれるように殺害されるシーンが生々しく描かれていく。
被害者の名はもちろん「長谷川祐介」。
わざわざ作中で職場の名前もさりげなく言及し、その人物であることが一目でわかるようにした。
こうして、一ノ瀬はSNSを通じて誹謗中傷を繰り返す相手の情報を徹底的に集め、作中に実名で登場させ、残酷かつ凄惨に殺していく物語を紡いでいた。
編集者の南雲がその原稿を受け取ったとき、さすがに息を呑んだ。
「先生……さすがにこれは危険すぎます。
いや、フィクションには違いないんでしょうが、このまま出すのは……」
南雲の声には明らかな震えが混じる。
一ノ瀬は淡々と返した。
「事実かどうかは読者が勝手に判断することさ。
僕はただ、彼らの“情報”を元に書きやすく設定しただけだ」
その頃、ネットでは一ノ瀬を訴えようという動きがちらほら出始めていた。
特に、一ノ瀬が書き込んだとされる小説の断片がどこからか流出しており、そこに実在の学校名や企業名と一致する名称が散見される。
「これ、俺たちを狙ってるだろ?」
「まさかとは思うけど、こいつ本気でやってるのか?」
SNSは大騒ぎになり、アンチたちは怒りと恐怖が混ざった反応を示す。
ある夜、一ノ瀬の自宅に南雲が訪れた。
新作の正式出版をめぐる協議のためだが、南雲は進むにつれて嫌な汗が背中を濡らすのを感じていた。
書斎の扉を開けた瞬間、部屋に漂う張り詰めた空気に圧倒される。
「先生、あの……本当にこのまま出版を?」
南雲がおそるおそる問いかけると、一ノ瀬はパソコン画面から目を離さずにつぶやく。
「それが面白いんじゃないか。
何なら、もっと挑発的に書き直してもいいくらいだ」
南雲が思わず視線を落とした先に、派手なアイコンが映るアカウント名が表示されていた。
一ノ瀬のアカウントを覗き見ると、そこには今まさにアンチと思しきユーザーのプロフィールを眺め回している痕跡がある。
フォロワーの大学サークル、旅行の投稿、寄せられたコメント……
そこから相手の本名や居場所を推理しているのだろう。
南雲は背筋を寒くしながら思った。
(この人は止まらない。
自分が紡ぐ“殺人ゲーム”を現実にまで広げようとしているんじゃないか)
そして、ついに事件は起きた。
約束の日になっても一ノ瀬が出版社に来ず、連絡も途絶えたため、南雲が再び家を訪ねる。
書斎の扉を開けた瞬間、部屋の空気がまるで息を潜めているかのように重くのしかかった。
乱雑に散らばった原稿の奥、そこには倒れ伏した一ノ瀬卓磨の姿。
胸には鋭利な刃物が深々と刺さっている。
目を見開き、かすかな笑みを湛えたようにも見えるその表情は、狂気の果てに到達してしまったかのようだ。
「先生……!」
南雲が声を絞り出しながら駆け寄ると、一ノ瀬はぐったりとしたまま微動だにしない。
すぐに救急車を呼んだが、吐き出された血の量を見る限り、その容態は明らかに重篤だった。
警察の捜査が始まり、当初は「アンチファンの怨恨ではないか」という声が大きかった。
実名を晒され、作中で無残に殺されるシーンを書かれた者のうち、恨みを抱いた人物が多いのではないか。
SNSでも「やっぱりな」と憶測が飛び交う。
だが、意外にも捜査線上に浮かび上がったのは、アンチファン本人ではなかった。
一ノ瀬が小説に登場させた高校生――吉田透。
彼は実際には書き込みなどしておらず、むしろ別のユーザーに成りすましで使われていただけだという事実が判明した。
だが問題はそこではない。
一ノ瀬によって高校名と実名をさらし首にされ、作中で惨殺されるキャラクターとして描かれた“吉田透”という存在そのものが学校に重大な混乱をもたらしたのだ。
クラスメイトは半ば面白半分でその話題を拡散し、SNSは「吉田透が小説で殺されるらしい」と大騒ぎする。
身に覚えのない誹謗中傷のせいで、彼はすっかり心を痛め、不登校気味になってしまった。
そんな状況を憂慮したのが、透の父・吉田恭一だった。
もともと家族思いで、息子に対してはやや過保護気味なほど神経質な人物。
学校からの連絡を受け、息子が精神的に追い詰められていることを知った吉田は激昂する。
「いったいどうしてうちの子がこんな目に……」
納得のいかない吉田は、一ノ瀬の自宅を何度か訪れたという。
吉田恭一が一ノ瀬卓磨の自宅を突き止めたのは、意外にも単純な方法だった。
一ノ瀬の住所は当然ながら非公開だったが、彼は著名な作家であり、過去のメディア取材やファンの間で断片的な情報が流れていた。
吉田はまず、一ノ瀬の出版社の公式サイトを調べ、彼の担当編集者が南雲であることを特定した。
そして南雲のSNSを遡るうちに、出版社近くのカフェでの会食写真が投稿されているのを発見する。
一ノ瀬が執筆時によく利用するとされる書店や飲食店の情報も、ネット掲示板の過去ログを漁ればそれなりに出てくる。
さらに、吉田はネット検索を駆使して、一ノ瀬の過去のインタビュー記事を調査した。
その中には「静かな環境で執筆するために都内の郊外に住んでいる」という発言や、「家の書斎には大きな窓があって夜景がよく見える」といった何気ないコメントが散見された。
また、地方の講演会やサイン会に出席したファンの中には、「先生の自宅の最寄り駅で偶然見かけた!」といった投稿をしている者もいた。
決定的だったのは、不動産情報サイトの過去データだった。
著名な作家や芸能人はしばしば高級住宅地に住んでいることが多く、一ノ瀬も例外ではなかった。
彼の著作がヒットし始めた頃、都内の高級住宅地で新築物件を購入したという記録があり、匿名の掲示板では「一ノ瀬卓磨がこのエリアに住んでいるらしい」という噂が囁かれていた。
そこに南雲のSNSの投稿や、ファンによる断片的な情報を組み合わせていくことで、一ノ瀬の住むエリアをほぼ確定することができたのだ。
あとは、実際にその住宅地を歩いてみるだけだった。
高級住宅が立ち並ぶ一角を歩き回り、作家らしい雰囲気を持つ家を探していく。
そして、決定的な証拠を見つけたのは、一ノ瀬の郵便受けだった。
そこには出版社からの封筒が何通も入っており、その宛名にははっきりと「一ノ瀬卓磨」の名が記されていた。
こうして吉田は、一ノ瀬の自宅を突き止め、息子・透を救うための直接対話を求めて、あの夜、玄関の扉を叩くこととなったのである。
法的措置をちらつかせて小説の訂正と謝罪を求めようとしたが、一ノ瀬は会おうとせず門前払い。
あるとき、どうしても話し合いがしたいと粘った末、深夜近くになってようやく書斎へ通された。
応対に出てきた一ノ瀬は相変わらず静かな口調だったらしい。
だが、その内容は吉田を激怒させるに十分だった。
「息子さんがどうなろうと、あくまで作品は作品です。
あえて実名を使ったのは、彼が“特定されるような情報をネットに流していた”からですし、
僕はそれをネタとして拾っただけですよ」
一ノ瀬は淡々と、むしろ楽しむように言い放った。
「ネットの使い方を勉強させるいい機会じゃないですか。
訴訟? どうぞご自由に。
ただ、作家としてはむしろ宣伝になってありがたいかもしれない」
吉田の頭の中で何かが切れる音がした。
それほどまでに彼の怒りと悲しみは膨れあがっていたのだ。
何度言い募っても、目の前の作家は「作品だから」の一点張り。
さらに「お宅の息子は、アンチに利用されたわけでしょう。
被害者だとしても、僕には関係ありません」と言い放たれた瞬間、吉田は我を忘れて手近にあったペーパーナイフを掴んだ。
そこから先は、吉田自身も覚えていないという。
気づいたときには、一ノ瀬の胸には自分の手が握る刃物が突き刺さっていた。
床には真紅の血が広がり、息を飲むほどの惨状が広がっている。
「こんなはずじゃ……」
吉田は震え、パニックに陥った。
逃げるようにして書斎を飛び出し、家に帰るとひたすら布団をかぶって怯えていたという。
翌朝、罪悪感に耐え切れず自首した。
こうして捜査は意外な結末を迎えた。
一ノ瀬を刺したのは、アンチでも信奉者でもなく、自分の息子を守りたかった一人の父親。
しかもその息子自身は“アンチ”ですらなく、別人に成りすましの道具に利用されていたという二重の悲劇だった。
病院に搬送された一ノ瀬は緊急手術の末、なんとか命を取り留めた。
しかし、いまだ意識は戻っていない。
彼の書斎に残された原稿データやメモには、これまでアンチファンだと思い込んでいたアカウントの情報が山のように書き込まれていたが、一部は誤認や勘違いも混ざっているらしく、作中の“被害者”たちの素性は必ずしも正しいわけではないことが判明する。
それを知った南雲は、ただ呆然と原稿を見つめるしかなかった。
SNS上では、さらに混乱が広がった。
「なんだよ、結局アンチファンじゃなくて、ただの父親だったのか?」
「そりゃあ実名さらされたら怒るに決まってる。
一ノ瀬、やり過ぎだったんだよ」
「作家が自由に何を書こうと勝手じゃないの?」
意見が入り乱れ、一時は小説家の“表現の自由”についても議論が巻き起こる。
そして人々の関心事は「一ノ瀬卓磨は今後どうなるのか」という一点に集約されていった。
このまま目覚めずに、すべてが闇に葬られるのか。
もし意識を取り戻したとき、その筆は再び血塗られた殺人描写を綴るのだろうか。
あるいは、一連の顛末から何かを学び、筆を折ってしまうのだろうか。
白い病室のベッドでかすかに息をする一ノ瀬を見つめながら、南雲は思わず考えてしまう。
もし彼が目覚めたら、あの歪んだ執筆手法は続けられるのだろうか。
“殺人小説”の犠牲者にされた人々や、その家族の苦しみを知った今、一ノ瀬自身も何らかの変化を遂げるのではないか……。
もっとも、あの執念深い瞳を思い出すと、そんな期待は甘い幻想なのかもしれない。
やがて世間の騒ぎは徐々に冷めていくが、一ノ瀬の名はネットの片隅で燻り続ける。
あれほど血生臭い作品が、どんな形であれ、人々の記憶から簡単に消えるわけがない。
彼の作り出した“実名処刑小説”は、いつかまた別の形で炎上するかもしれないし、未発表の草稿が新たな狂気を呼び起こすかもしれない。
ただ、今回の真相はあまりに“生々しい”。
自殺や過激なファンの殺害などの噂ではなく、ただ父親が息子を守ろうとするあまりに引き起こした悲劇だった。
それこそが、現実という名のフィクションよりも容赦のない“物語”なのかもしれない。
意識不明のままの一ノ瀬卓磨。
その瞼がいつ開かれるのかは誰にも分からないが、開かれたときに世界が目にするのはどんな“次作”なのか。
人々は密やかに、その瞬間を恐れ、そしてどこかで待ち望んでいた。