人魚の水槽 アフターストーリー
ふらっと立ち寄った廃水族館。
ここには昔、人魚の水槽があった。
受付、水槽、休憩所。どれも時間が経過している。見覚えがあるのに、まるで実感がない。知っているのに、懐かしくはなかった。
長い時間で懐かしいという感覚も忘れてしまったのかもしれない。
「人魚の水槽は...」
慣れたルートを進む。
かつて厳重だった扉の鍵は壊されていた。
壁に貼られた沢山のメッセージ。かつてここの職員達に向けて書かれたものだ。
『ありがとうございます』
『もう大丈夫だからねと言って見送りました。娘の笑顔を久しぶりに見ることができました』
『おかあさん、あいしてくれてありがとう』
『選ぶ自由をくれたこと、感謝しています』
指先でなぞりながら進むと、最後の1枚に辿り着く。
『ごめんね、メリー』
これはよく覚えている。
かつて僕が書いたものだ。
劣化して黄ばんでいた。
ここでは人魚を使った安楽死制度が行われていた。
そして僕は、その人魚の担当飼育員だった。
人魚の水槽の部屋の扉を開く。
古びた水槽に水は一滴も入っていない。
分厚いガラスは汚れていた。
水槽前に置かれた、テーブルと椅子とヘッドフォン。
軽くホコリを払うと、白い粒子が舞った。
ヘッドフォンを試しに、耳につけてみる。
人魚の歌声が聞こえることはもう無い。
分厚い水槽越しに、人魚の歌を届けるための器具。
当然ながら僕は、これを1度も付けたことが無かった。
「君の歌声で廃人になった人達は、みんなこれを自分で付けたんだ。君の歌を望んで」
明確には歌の先にあるものを望んでいたんだけど。
「人魚は死んだら天国に行くの?それとも地獄?」
無邪気で、真っ直ぐで、憐れな人魚。
僕を水槽に引きずり込んだせいで、殺処分されてしまった。
僕は机に頬杖をついて、水槽に声をかけ続ける。
「君が何をしようとしていたのか、何度も考えたんだ。答え合わせをしてくれる?」
そこに君がいない事は、目の前の景色が教えてくれる。
「あの時はわからなかったけど、水槽でもがいてた時、君に口移しで飲まされたのは、君の血液だね」
苦しくて朧気だったけど。
33年経っても歳を取らないんだ、心当たりといえばそれだけだった。
「どうして僕を不老不死にしたの?」
毎日1枚くれたあの鱗、あれにもずっと意味があったんだろ。
「君は、君の声で人が死ぬことをわかってたんだ」
だから僕に、君を食べさせたかった。不老不死にしたかった。
不老不死にしてまで。
「そんなに僕に、声を聴いて欲しかったの?」
最後に見た君の姿。今でもたまに思い出す。
息が苦しくて、意識も朦朧として、だけどクッキリと印象に残る。
僕の耳栓を外して、無邪気に笑うその姿。
「馬鹿だなぁ」
君が泡になったら、意味が無いよ。
君が死んで、1回も泣いたことは無い。
泣くほど好きだったかも分からないし。
「だけど、1度くらいは聞いてみたかったな」
君の歌。