にじむ思い出
人間には大人になっても消えない映像風景というものがある。
僕にとっては柿谷君と一緒に見下ろした蛙の死体がそれにあたる。
柿谷君とは小学4年生で初めて一緒のクラスになった。僕が窓側の一番後ろの席で、その斜め前が柿谷君だった。
彼の噂は以前からちらっと耳にしていた。普通の生徒に見えて、少し素行の悪いところがある。転校してきた二年生の年、次の三年生の時にも、クラスメイトと派手な喧嘩をし、なにやら少し周りから疎まれているようだった。
しかし僕からすると、彼は何というか子供ながらに達観しているようなところが見えて、魅了的な生徒だった。
最初に話しかけたのは僕だった。
「柿谷君さあ、漫画は何読んでるの?」
僕に肩をつつかれた柿谷君は上半身だけで僕の方を振り返り「漫画ならやっぱりワンピースだね」と答えた。
意外だった。柿谷君なら『ホムンクルス』や『火の鳥』を読んでそうな雰囲気があった。彼に一層の興味が沸いた。
それから僕が柿谷君をつつく機会が増え、そのうち柿谷君から僕を振り返る機会が増えた。
そのように僕たちが親交を深めていた頃、ちょっとした事件が起こった。
柿谷君が教室のそばの廊下で、他クラスの生徒と喧嘩になったのだ。相手は4年生に似つかわぬ体格の良い生徒だった。
僕はその衝突の瞬間を教室の中から目撃した。先に手を出したのは柿谷君だったが、その直前に体格の良い生徒があざけるように何かを口にしていた。
僕の記憶が確かなら「だってお前の母ちゃんは」というセリフだった。
喧嘩はすぐに通りかかった先生によって取り押さえられた。
それからも僕と柿谷君の親交は続いていたが、あの喧嘩を見て以来、僕は柿谷君に何か影のようなものを感じていた。
だけど僕にばどうしても柿谷君が悪い人間であるようには思えなかった。影のあることと、悪であることは全く別のことだとわかっていたからだ。
蛙の日の事を話したいと思う。
夏休みの終盤、遊びの約束をしていた僕は柿谷君の家に彼を迎えに行った。家と言っても、2階建ての古いアパートの小さな102号室に過ぎなかった。
チャイムを鳴らすと、柿谷君が出てきた。柿谷君が明けたドアの隙間から、椅子に座って煙草を吸う女の人の姿が見えた。派手な化粧をしたその女の人は「行ってらっしゃい」と言い、僕にも少し微笑んだように見えた。
柿谷君は僕にその様子を見られるのがとても気まずそうに、「うん」と短く返事をした。
僕たちは大きな団地を抜けた先にある公園で、僕の持ってきた漫画を回し読みしたり、お腹が空いたら100円ショップで体に悪そうな菓子パンを食べたりして時間を過ごした。遊び怠ける事に飽きた僕たちは、何か体を動かしたい気分になっていた。
「蛙」と柿谷君が言った。
「蛙捕りに行こうか。捕まえるの上手いんだぜ、僕」
悪くないなと思い、その提案に乗ることにした。
公園を出て、ほど近い神社の近くの畑の跡地を探し場所に選んだ。僕たちは腰を折って注意深く草を分け入った。
探しているうちに、日がかげり、少し涼しくなりかけていた。
「いた!」
綺麗な黄緑の小さな蛙が、休むように草陰に隠れていた。
「僕に任せて」
目を輝かせた柿谷君は忍び足で近づくと、蛙めがけて素早く両手で挟むようにふたをした。
得意げに振り返った柿谷君は、とても嬉しそうだった。影などない、ワンピースが好きな、どこにでもいる9歳の少年の笑顔だった。
「はい、かっちゃんにあげる」
柿谷君はそう言って僕の手に蛙を譲り渡そうとした。その時、隙を見た蛙が柿谷君の手からこぼれ落ちて、道路の方へと飛び出した。
「あ」
僕たちが叫んだ瞬間、一台の車が通った。
車が過ぎたあと、僕たちが駆け寄ると、蛙は死んでいた。
飛び降り自殺のあとのようなうつぶせの形で、地面にへばりついていた。
ぺしゃんこになった蛙は、絵の具をたっぷり使った暗い絵画の様にも見えた。
僕たちは言葉もなく、ただ黙ってその死体を見ろした。
長い沈黙のあと、僕がちらっと柿谷君の方を見ると、彼は怒ったような泣きそうな顔で、
「代わりのもう一回探そうか」
と呟いた。
「だってお前の母ちゃんは」と言われた時と、同じ悲しげな目だった。
僕はその悲しい世界をくつがえすような笑顔で「そうだね」と返事をしたかったけれど、僕にはそれができずにいた。代わりに僕の口から出た言葉は
「もう遅いから帰ろうか」
だった。
夕暮れが迫っていた。
「そうだね」
と無理に笑顔を作ったのは柿谷君の方だった。
それが柿谷君と共に過ごした最後の思い出だ。
柿谷君は夏休みが明けると、また違う遠くの学校へと転校していった。
せめてもう一度、柿谷君と違う蛙を探しておけば良かったのかなと思う事がある。
だけどあの時の僕は柿谷君の、違う蛙を探さずにはいられない切実な思いを、受け止める事ができなかった。
悲しみのままで終わる訳にはいかなかった柿谷君の悲しみ。
あの蛙の夏の思い出は、今でも僕の心ににじんでいる。