緋色の誓い
「王子も王子だよな。王族が捨て猫みたいなの、拾って来んなっつーの」
上司であるマリアにミレイの様子を報告した後、ルナは机の上に頬杖をつきながら、だるそうに言った。
「てかあいつ、面倒くさすぎっしょ。記憶ないとかさ。さっさと追い出した方が良くない? ねぇ、マリア!」
マリアはテーブルの上で帳簿をつけつつ、ルナの愚痴に付き合っている。
「それは、あの子を連れてきた王子が決めることでしょ?」
マリアは筆を置くと、溜め息混じりにそう言った。
「そうかなぁ。王子だって、あいつの体調が良くなるまでって考えなんじゃね? あいつ、もう体調良いからね?」
本当は王子に聞くのが一番早いが、今の王子の状態を考えれば、それも難しかった。
「別にいいじゃない、此処に置いてあげれば。体調どうこうの前に、記憶が定かじゃないんでしょ?」
この館において、マリアはメイドでありながらも、いくつか権限を与えられている。
館内に誰を配置し、誰を配置しないか。
もしくは客室に誰を受け入れ、誰を受け入れないか。
王子が回復するまでの間、その判断も彼女に一任されている。
「それが怖いんじゃん。何かあって、王室に怒られるのはうちらなんだぜ?」
ルナの心配は、王子に危害が及ぶことだ。
ミレイの世話をするのが普段なら問題はなかった。
しかし今は、王子が心の病を患っている緊急事態。
ミレイに気を取られて、王子に何かあってからでは遅いのだ。
「でもね、あんなにはっきり話す王子を久しぶりに見たの」
マリアは、今朝のことを思い出す。
「最近は『あぁ』とか『うん』とか、適当な相槌ばかりだったのに。あの子を連れ抱えてきた時は、説明と指示をしっかりと伝えていた」
いつもの王子に戻っていた。
「もしかするとあの子、利用できるかもしれない」
ルルリカの食事は朝と昼に軽くとり、夜をメインに据えるのが一般的で、それは王室やその階下も同じである。
マリアはルナに昼食を運ばせた後、ミレイの部屋に赴いて挨拶を交した。
ミレイの体調の事や、記憶の事について簡単に確認すると、マリアはさっそく本題に入った。
「実はね、ミレイちゃんにお願いしたい事があるの」
いきなりそう言われて、ミレイはきょとんとしている。
自分なんかにお願い? と思いつつも、何ですか? と尋ねた。
「レオル王子の身の周りのお手伝い」
マリアはあっけらかんと言い放ったが、ミレイは両手で口を覆いながら驚いている。
「王子、この館に居るんですか?」
マリアは頷く。
「お願いできるかしら?」
ミレイは少し考えた。
きっと自分に出来る事など殆ど無い。
しかし、お願いしてくる以上は、自分にも何か出来るのかもしれない。
何よりも王子に近づく事は、彼女の悲願だった。
「私で良ければ、やらせて下さい」
ミレイは力強くマリアに言った。
その返事を聞いたマリアは表情を和らげた。
「ありがとう。詳しい説明は後でまたするわね」
そう言って、マリアは立ち上がる。
「そうそう、王子に会ったら、ここへ連れてきてもらったお礼も言わなくちゃね」
それにはミレイも笑顔で答えた。
「はい!」
「大丈夫なのか? あいつにそんな大役」
扉越しに話を聞いていたルナが、頭の後ろに手を組みながらマリアに尋ねた。
二人は元いた作業部屋へと向かっている。
「どうかしらね。別にいいのよ、王子の部屋でうろちょろしててくれれば」
「え……なぜに??」
手伝いをお願いしたかと思えば、何も期待してないその言い方に、ルナは戸惑っている。
「変化を付けたいの。今の王子の生活リズムに。このままの調子でズルズル行くと、最悪の結果を招きかねない」
マリアの表情は、どこか思い詰めているように見えた。
「てか王子の部屋でうろちょろなんかしてたら、怒られないか……?」
ルナの当然の疑問に、マリアは少し声を潜めて答えた。
「私達だったら仕事を失うわね。でもあの子だったら、この館から追い出されるだけでしょ?」
マリアは本気とも冗談ともつかない顔をして言った。
「マリアってさ、割とえげつないこと考えるよな。私よりも酷いぞ……」
と言いつつ、ルナはマリアのそういう所が好きなのだが。
「悪いけど、形振り構ってられないのよ」
ミレイはマリアと簡単な打合せを済ませると、二人で王子の部屋に向かった。
頼まれて直ぐのことだったため、ミレイはとても唐突な印象を受けた。
なにしろ、ミレイの着るメイド服はまだないらしく、ワンピースに上着を羽織っている姿だった。
「いいわね、ミレイちゃん。部屋に入る前に必ず、こういうふうに扉をノックしてね」
ミレイはコクコク頷くと、マリアに言われた通りに扉をノックした。
「レオル様? あの……夕食をお持ちしました。入っても良いですか?」
しかし、部屋に居るはずの王子からは、何も反応がない。
心配になったミレイがマリアの方を見ると、『行って行って』と手で合図してきた。
ミレイはドアノブに手をかけた。
憧れの王子が扉の向こうにいる。そう思うと、心臓の音が聞こえて来そうなほど緊張した。
「あの、中入りますね?」
そっと扉を開くミレイ。
部屋の中は想像以上に広くて、暗かった。
(明かりはどうやって点けるんだろう?)
マリアに聞いておけばよかったと思いつつ、入り口と反対の窓の方へ向うと、分厚いカーテンを開けた。
夕刻の鮮やかな赤が、部屋の中を染めていく。
光と影のコントラストで、部屋の印象がガラっと変わった。
そして、ミレイの瞳には椅子に座って手を組み、俯いている王子の姿が映った。
「レオル様……夕食をお持ちしました。テーブルの上に置いておきますね?」
ミレイは夕食を大きなテーブルの上にそっと置いた。
しかし、その横にはまだ手のつけられてない昼食が置いてある。
乾いたパンと冷めたスープを見ると、ミレイはこの部屋に長く居てはいけない気がした。
扉の方へ向かいたくなる気持ちをぐっと抑えて、彼女は王子の方へ向かった。
「あの! 教会で倒れていたのを、助けて頂いてありがとうございました!」
静かな部屋にミレイの声だけが響き渡る。
気合いを入れないと、何も言えなくなりそうな緊張感が王子の部屋にはあった。
「助けて……?」
そう呟いてミレイの方を少しだけ見た王子は、不安と焦燥の顔をしていた。
ミレイはあの時と同じだと思った。
嵐の夜、高波に襲われる船の上で、仲間を助けようと必死に手を伸ばす王子の姿。
あの時もそんな表情をしていた。
あなたにとっては今も尚、嵐の夜のままなのですか──?
ミレイは王子の顔を見ると悲しくなったが、ある意味それは想定していた事だった。
何故なら、彼女が王子に会いたかったのは、舟の転覆を側で見ていた自分にしか、掛けれない言葉があると思ったからだ。
ミレイは王子に恋い焦がれながら、優しそうな彼が心を痛めていないか、ずっと心配してきたのだ。
「大丈夫ですか? レオル様……」
言いながら、ミレイは自分の胸に手を当てた。
分かってはいても、今の王子を見ているのは、やはり苦しかった。
「辛いとは思います。でも、そんな顔をしていると、あなたを助けた人も悲しむと思います……」
王子を助けたのは他ならぬ彼女だったが、ここでその話をするつもりはなかった。そもそも、信じて貰えるとも思っていない。
「オレは、助けてくれなんて言ってない」
レオルは掠れた声で、苦しそうに言った。
王子が返事をしたことにも驚いたが、それ以上に、ミレイにとっては信じられない言葉だった。
「なにそれ……」
レオルのその言葉に、ミレイは手を振りかざした。
「パンッ!」
頬を思いっきり叩かれたレオルは、驚いた顔でミレイを見上げた。
「死にたいなら……死ねばいいじゃない!」
ミレイは目に涙を溜めながら叫んだ。
どうしてこんなに怒っているのか、自分でも分からなかった。
扉の前で立ち聞きしていたマリアは、ミレイの言葉に、両手で口を覆いながら驚いている。とても部屋に入れる雰囲気ではなかった。
「それは、神に背く事になる……」
レオルは、ミレイから目を逸らしてそう言った。
「だったら何? 今のあなたは違うって言うの?」
僅かなパンとスープすら、食べようとしない。
ミレイには、レオルが死を待っている様にしか見えなかった。
彼女はレオルに近づき、その手を握りしめると、王子の目を真っすぐに見つめた。
「死んだあの人達は、生きたくても……生きられなかった。そうでしょ……?」
ミレイの頬に涙が溢れ落ちた。
ミレイだって彼らを助けたかった。
あの嵐の夜、王子だけではなく、本当は全員を助けてあげたかった。
「生き残ったあなたのそんな顔を見たら、何て言うと思いますか……?」
レオル様──。
自分の事を呼ぶときの、彼らの笑顔が浮かんだ。
自分の事を慕ってくれて、何でも言い合える。
そんな最高の仲間たちとの思い出が、鮮やかに甦る。
彼らは今の自分を見て、何て言うだろうか。
「オレは、バカだ……」
レオルは声にならない声で、泣き崩れた。
死をもって償うことしか出来ないと思っていた。
しかし、死を望むことは、彼らの死を侮辱することにしかならなかった。
夕暮れの緋色に染まりながら、彼はその胸に誓いを立てた。
これからは、この先は、あいつ等の分まで生きてみせる。
十字架を背負ってでも──。