教会の迷い子
──神よ。
願わくば、御名の尊まれんことを。
御国へ導きがあらんことを。
彼らの罪を赦し給え。
彼らを悪より救い給え。
彼らに安息を与え給え。
どうか──。
首都ルルリカの一等地に、繊細な彫刻が施された、厳格な二階建ての建物があった。ルリカ王国における最高峰の教育機関、ロイヤルアカデミーである。
レオル王子は公務のある日以外は、ここへ通いつつ勉学に励んでいた。
その日の講義が終わり、正面玄関へ続く大きな階段を降りていると、後ろから声を掛けられた。
「レオル様! 良かった、もう帰城してしまわれたかと思いました」
レオルへ駆け寄ってきたその女性は、同じアカデミーで同級生のステファニーだった。
白のシャツとプリーツのロングスカートの学生服は、彼女が着ることで、より気品に溢れていた。
「来週末なんですけど、セルフィナの王立劇場で、レイラ達の舞台があるんです! よっかたら、皆で見に行きませんか?」
レオルとステファニーは演劇が好きなのを切っ掛けに親交を深めてきた。
彼女の言うレイラとは、レオルの同級生であり、俳優を目指す女性のことだった。
「そうなのか? もちろん行くよ。それで、何やるって?」
そう答えたレオルの格好は、白シャツに紺のスラックス姿で、他の学生と変わらないのだが、顔とスタイルが良いせいか常に目立っていた。
「それがなんと『ハムレット』ですって! あの子がずっと前から、ヒロインやりたいって言ってたやつです!」
二人はゆっくりと階段を降りながら話しをした。
「ハハ、そりゃ楽しみだ。じゃあ、イブラ達も誘ってやらないとな」
「ぜひぜひ! 私はクリスを誘っておきます。皆で行きましょう!」
玄関まで着くと、また当日に落ち合う約束をして、その場を去った。
レオルにとって、アカデミーでの仲間は特別だった。芸術が好きという共通点だけではなく、王族という立場をそれほど気にしなくて良かったからだ。
公務の場でも、歳の近い者との出会いはあるが、どうしても権力や派閥、利権といったものが見え隠れしてしまう。
親の仕組んだ出会いだと自覚している者もいれば、そうじゃない者もいた。
そんな出会いを繰り返していると、レオルも無意識に相手を警戒するようになり、表面的な付き合いしかできなくなった。
自分の人生において、友達を作れる期間は、この学生生活が最後。彼はそう自覚していた。
「それじゃ、レイラ達の舞台の成功を祝して、乾杯!」
舞台公演が終わった日の夜、仲間内で港に集まった彼らは祝杯をあげた。
舞台の後の高揚感に包まれながら、演劇について語り合えるとあって、皆が意気揚々としている。
「レオル様、どうでしたか? 私のオファーリア……!」
レイラはワインを手に上目遣いで、自分の配役である人物について聞いた。
「すごい良く似合ってた! 馬子にも衣装みたいな?」
レオルは肉と野菜のソテーを口にしながら、楽しそうに言った。
「いや、それ褒めてないから! というか演技について聞きたいんですけど!?」
レイラが椅子から立ち上がって、そう言うのを見て、周りは笑った。
そこへメガネを光らせたイブラが、口を挟んだ。
「僕はあの場面が好きだなぁ。『せめて神が、自ら命を絶つことを禁じていなければ!』ってやつ」
彼は身振り手振りを加えて、俳優のように大袈裟に言って見せた。
「それ私のセリフじゃないし、だいぶ冒頭ね? 私の演技については何かないの?」
レイラが頬を膨らませて不貞腐れていると、レオルが手を挙げて言った。
「衝撃的な事を教えようか。イブラは途中から寝てた」
「!? ちょっとサイテー」
「!? 最低なのはレオルだね! 言うか普通!? そういう事!」
三人がわいわい言い合っているところへ、私服姿のステファニーがケーキを運んできた。
「レオル様! お誕生日おめでとうございます!」
「少し早いけど、サプライズだよ!」
ステファニーとレイラは顔を見合わせて微笑った。
どうやら皆で打合せしてあったようだ。
「あれ、泣いてます?」
レオルの胸には熱いものが込み上げてきていた。
自分を幸せだと思うことはあまり無かったが、この時は違った。
「よーし、今からは単独ライブだぜ! なに歌って欲しい!?」
そう言ったのは、レイラと一緒に舞台に上がっていたホスマンで、どこからかギターを持ってくると、レオルにそれを手渡した。
「オレが歌うのかよ……」
それは、小さな出来事だったのかもしれない。
しかし、レオルには一生の思い出になると確信できる夜だった。
常に孤独が付き纏う王族という立場にあって、果たして自分が父親の様に国を統べる事が出来るのか、不安に思わなかった事など無い。
でも今は、少しだけ希望が持てる。
本当に、お前らが居てくれて良かった──。
首都ルルリカの西側沿岸に、王家の所有する古い館があった。古いとは言っても、館内は清潔に保たれていて、今でも王家の別邸の一つとして機能している。
レオルは嵐の夜に一命を取り留めた後、ここで静養をとっているのだが。
「レオル王子の様子はどうだ?」
そう聞いたのは、執事服の中年男性で名をミザイルという。
彼は王家の使用人の長であり、事務や家事の最高責任者を務める。
「全然ダメですね……。話になりません」
そう答えたのは、その館の殆どを取り仕切るメイドのマリアだった。
レオルとは五つしか歳の変わらない年上のマリアだが、レオルの静養も彼女に一任されていた。
「一日のうちに口に運ぶのは、一食のパンと水だけ。なのに嘔吐は数回繰り返していて……。回復どころか、日に日に悪化しています」
二人のいる館の客間には、重苦しい雰囲気が漂っている。
「一応、かかりつけの医者には常に待機してもらっていますが、いつ倒れてもおかしくないです」
ミザイルは深い溜め息をついた。
予想していたよりも、だいぶ不味い。そう思った。
「王子は、睡眠はお取りになっているのか?」
「いえ……、横になっているだけで、眠れてはいないようです」
初めは魘されているのだと思っていた。しかし、そうでは無かった。
「死んだ仲間の名前と、祈りの言葉を唱え続けるんです。毎朝、聖堂にも通い始めました。神様にすがるみたいに」
マリアはその時の事を思い出すと、目に涙を溜めた。
「しかし分からん。嵐の夜のことは、仕方がないではないか。災害だったのだぞ。誰も王子のことを責めてなどいない。何故そこまで追い詰められる?」
ミザイルは焦燥感に駆られていた。
「大切なご学友を一度に亡くされたのです。無理もありません……」
長い沈黙の後で、ミザイルは立ち上がり言った。
「分かっているとは思うが、両陛下もかなり心配なさっている! とにかく、何としても王子を回復させるのだ! いいな!」
ミザイルは声を荒げてそう言うと、客間を出ていってしまった。
マリアはその場に居座ったまま、俯いて考え込んでいる。
そんな事を言われても、既に手は尽くしてしまったのに──。
東の空が薄っすらと明るくなった頃、レオルは館を抜け出して、海の方へ歩いていた。
一日の殆どを部屋に篭って過ごしている彼だったが、人に会わなくて済む早朝だけは、聖堂に赴き祈りを捧げていた。
祈ることで自分の気持ちが幾らかは楽になったし、何より死んだ彼らに許しを乞いたかった。
王族である自分のために、プライベートの船を用意してくれたのかもしれない。
天候の変化に気付いた時に、直ぐに引き返していたら。
自分のせいで波に呑まれたかもしれないのに、自分だけ助かってしまった申し訳なさ。
彼は壊れそうな精神を、祈ることで何とか繋ぎ止めていた。
やがて聖堂に着くと、レオルはいつも通り扉の鍵を開けようとした。しかし──。
(鍵が開いている……?)
扉を開けると、薄暗がりの聖堂内に光が射し込んだ。
扉口から奥の祭壇までは通路になっていて、その左右には長椅子が何列にも並んでいる。
レオルが中へ入ろうとすると、祭壇の方に違和感を感じた。普段は何もない筈の場所に、何かがある気がした。
「誰かいるのか?」
そう言って一歩踏み出すと、何かが長椅子の影に隠れたようだった。
(ヤドカリ?)
レオルはそれには気にせずに、奥の方へと歩いて行った。
そして、祭壇の前で彼が目の当たりしたのは、横たわる裸の少女だった。
長く艶のある髪に、透き通るような肌をしていて、綺麗な足が印象的だった。
寝ている横顔だけを見ても、彼女が可憐な美少女だとわかる。
何故こんなところに? と思いながらも、レオルはそっと声をかけた。
「大丈夫か、おい」
そう声をかけても反応がない。次は肩を擦ってみたが、起きる気配がなかった。
レオルは自分と彼女の額に手を当てた。
(少し、熱があるな……)
こんなところで、一糸まとわぬ姿で寝ているのだから、それも頷けた。
(仕方がない……)
レオルは彼女を優しく抱き抱えると、静かに立ち上がった。
聖堂の絵ガラスからは、虹色の光が射している。
「神様。これは……何かの悪戯ですか?」
祭壇に祀られた聖像を見つめて、彼はそう呟いた。そして、眠った少女を抱いたまま、教会を後にした。