満月の夜
ルリカの首都『ルルリカ』は島の南に栄える都で、王城はルルリカの町並みを見渡せる位置に聳え立っている。
海岸沿いの入り江は美しい港の景観を作り、密集した人家の風景は港町と城下町に分かれているのが特徴的である。
気候は温暖で、雨の多い雨季と乾きやすい乾季に分かれる。ルリカにはこの二つの季節しかなく、その対比は見る者を魅了する。
「それにしても、まだ明るいな。なぁ姫様、暗くなってからじゃダメなのかな?」
まだ日が沈みきらない夕暮れの空を見ながら、ヤドカリのハミットは言った。
「だってさ、人間になったら泳げないもん。暗くなる前に、陸に上がっておきたいの!」
頭の上にハミットを乗せながら、ミレイはそう答えた。幼い頃から聴いてきた人魚の伝承の影響で、海の中にいる人間には溺れているイメージしかなかった。
「泳げないって……。尾から足に変わったとしても、人魚失格だろ、それは……」
ミレイとハミットは入り江の港にまで来ていた。予定では今夜が満月の夜で、二人は海から顔を出して、港の様子を伺っている。
ハミットはセナたちの頼みで、ミレイに着いていくことになった。しばらくの間、彼女の案内人を務める。
「けっこう船が出入りしてるな。海が透き通ってるから、深く潜ってから行かないとバレバレだな」
「わかってる。港に近づく時は潜水しないとね。それよりも隠れる場所だよ」
二人は遠目から身を隠せそうな陸地を探すが、なかなか見つからない。それどころか釣り人や観光客など、人が意外といるせいで、迂闊に近づけない雰囲気だった。
「どうしようかな。海岸沿いで姫様が上陸できそうなところを探してみるか?」
ハミットはそう言って港の左右を見渡してみたものの、西は崖が続いていて難しく、東は田園が中心で町からは離れすぎる気がした。
「ねぇハミット、あの川はどう?」
ミレイが指さしたのは、港の中央に流れつく川で、小さな舟がたくさん停泊している場所だった。
「まぁ、行ってみるか」
「どうだった?」
川底に戻ってきたハミットに、ミレイは聞いた。
「舟はダメだな。意外と隠れる場所が無いし、オイラは船酔いしそうだからゴメンだな」
「えー! じゃあどうしよう」
「まぁ、良い場所は見つけたけどな」
得意気な顔でそう言うと、ハミットはその場所にミレイを案内した。
「あの荷台に隠れれば大丈夫そうだな。先に行って見張ってるから、オイラが合図したらこっちに来てくれ」
ハミットの言う荷台とは幌馬車のことで、馬車の荷台には雨や日差しを避けるための布が掛かっている。
馬車は川のすぐ横に停めてあるうえに、辺りはすでに薄暗くなっていた。
ハミットが飛び跳ねて合図を送ると、ミレイは荷台に飛び乗った。
「うっ、暗いし狭い」
「わがままだな……」
「ねぇハミット、この荷台はなんなの?」
「これは行商人の幌馬車だろうな。川の横に停めてあるってことは、船に荷物を届けたのかもな」
「ふーん。もう動かないの?」
「もう日も落ちたしな。今日は動かないだろ」
ミレイとハミットがそんな会話をしている最中、足音が近づいてきた。
「しっ! 姫様、誰か近づいて来てる」
「ヒヒィーン……カタッ、カタッ」
「あれ……ねぇ、動き出したよ!?」
「みたいだな……」
二人を乗せた幌馬車は、海沿いの緩やかな坂道を登っているようだった。
馬を扱う御者とミレイとの間には布切れ一枚しかなく、会話はおろか、息も殺しながら馬車が止まるのを待った。
静かな夜に、波の音が響いていた。
「止まったな……。御者もどっかへ歩いていったみたいだな」
「今のうちに降りる?」
「うーん、まずはオイラが様子を見てくる」
そこは港町から海岸沿いを西へ歩いてきた場所で、ルルリカの夜景を一望できる高台だった。海と反対の方向には、夜に輝く王城が見える。
馬車の止まった場所は人気がなく、街灯すら碌にない田舎道だった。
その付近で明かりが灯っている場所と言えば、小さな教会と古い館くらいである。
「姫様、取り敢えず降りても大丈夫そうだ」
ハミットの合図を受けて、ミレイは荷台から顔を覗かせた。辺りを見回してから荷台を降りると、彼女はうつ伏せになったまま固まっていた。
「うっ、どうやって移動しよう……」
ミレイは考えた。そして、上半身を反らせて立ち上がると、両腕を広げてバランスを取りながら跳ねていく。
「よっ、よっ」
二人はより人気のない海の方へ向かった。
海沿いは垂直の崖が連なっていて、崖の上は岩肌に草が生えているだけの、見晴らしの良い場所だった。
「うわ、高っ! これ落ちたら死ぬやつだよ」
ミレイは四十メートル以上ある崖下を覗き込みながら、身震いしていた。
「姫様! 暗がりとはいえ、ここは見晴らしが良すぎて人が来たらまずい気が……。あっちの教会の茂みの方が良くないかな」
ミレイはこれ以上歩きたくないっという感じで、ハミットの事を睨んだが、渋々移動する事にした。
「はーっ、疲れたっ……。泳げないって不便すぎるよっ」
教会の近くまで来て、どさっと仰向けに倒れるミレイ。
息を切らしながら、すっかり暗くなった空を見つめた。
「……お月様、綺麗だな」
いつの間にか、夜空の高いところで、月が輝いていた。
綺麗な円を描いた満月の夜。
ミレイは月に向かって、手を伸ばした。
「届かないよね……」
すると、小さな光がその手を照らしながら、空へ浮いていく。
なんだろうと思って、その光へ手を伸ばしながら上半身を起こすミレイ。
光はすぐに消えてしまったが、今度は彼女を囲むようにして、無数の光が浮き上がってきた。
それはまるで海の中の泡沫のような、儚い輝きだった。
(なにこれ、素敵……)
そう思ったのも束の間、彼女を中心に光の紋様が展開されていく。
「えっ、えっ? 何か始まりそう!?」
急に風が吹き上がり、辺りは異様な雰囲気に包まれた。
ハミットは吹き飛ばされないように、草にしがみついている。
そして次の瞬間、眩しい光が辺りを照らした。
──光の円柱。
それは、深海での魔法の比ではなかった。
魔法陣から吹き上がるエネルギーは、ミレイを完全に包み込み、迸る柱となった。