魔法の条件
「君はさぁ、俺みたいな男のどこが良かったの?」
木漏れ日の道を歩きながら、そう聞くと、彼女は嬉しそうに答えた。
「フフ、だって珍しかったんですもの。毎日、海辺で読書してる人」
艶やかな髪を風になびかせつつ、透き通るような肌をしている彼女は、どこか透明感があった。
「それ、別に良いとこじゃないよね?」
男は呆れた顔でそう言ったが、彼女は楽しそうだった。
「あら、そうだったかしら?」
彼女が惚けるように言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
「このあと、どうする?」
港町まで来たところで、男はそう問い掛けた。小さなカフェテラスが並ぶその通りは、暇を埋めるには良い場所だった。
「ごめんなさい、そろそろ帰らないと……」
彼女が困ったように言うのを見て、男はまたかと思った。
「いつも忙しそうだね。俺はもう少し君と、話していたいのに……」
「ホントにごめんなさい……。また明日、会いましょ? 愛してるわ」
そう言って男の頬にキスをすると、彼女は手を横に振った。
そんなふうに、彼女の後ろ姿を見送る日々は、季節が変わるまで続いた。
「なぁメラーユ、俺と一緒に暮らさないか?」
ある日、男は意を決して、彼女に告げた。
「俺と……結婚して欲しい」
好きな男にそう言われて、彼女は嬉しかった。
しかし、結婚など端から望んでなどいない。
それは、叶う筈のない絵空事なのだから……。
「ごめん……なさい」
そう答えるのが精一杯だった。
「本当は……他に好きな奴がいるのか?」
「違う、そうじゃないの……」
「じゃあ、なんで……」
なにも進展のない恋に、彼はケリをつけようとしている。
これ以上、彼の気持ちを繋ぎ止めるには、賭けに出るしかなかった。
「あなたと長く居られなかったのは、私の……体質のせいなの」
彼女はスカートの中に潜めていた、人間の足とは違うそれを、男に少しだけ見せた。
「隠していて、ごめん……なさい」
男の表情が、みるみる変わっていくのを、彼女は涙で歪んだ視界の先に見た。
「な、何なんだよそれっ……。俺を……騙してたのか?」
「ち、違うわ! 私はあなたのことを──」
愛してしまいました。
お願いだから、話を聞いてください──。
「来るなっ! このバケモノが!」
扉の開く音がして、メラーユは我に返った。
(また、随分と昔のことを、思い出してしまったわね……)
程なくして部屋に入ってきたのは、人魚のミレイだった。
「メラーユさん、また来ちゃいました……」
「いらっしゃい。意外と早かったのね」
メラーユは、彼女がまたここへ来ることを、知っていたかのように言った。
「命を掛ける覚悟が、できたということかしら?」
ミレイは頷く。
「どうしても、諦められないんです……」
「フフ、あなたをそこまで夢中にさせる王子様も、なかなかね」
メラーユが座るように促すと、ミレイは円卓の椅子に腰掛けた。音のない部屋に、少しの沈黙が流れたあと、ミレイは話し始めた。
「私、小さい頃からよく聴かされてたんです。人の住む世界の話。私もそれを聴くのが楽しみで、だんだん興味が沸いて、よく想像してたんです。どんな世界なんだろうって。十五歳になるまで海の外に行けないのが、我が家のルールでしたし」
ミレイは昔のことを懐かしむように言った。
「だから本当は、海の外の世界に憧れているだけで、王子様のことはよく分からないんです。好きなのかどうかも。それでも、私を外の世界へ導いてくれているのは、きっと……」
きっと王子様だと信じている。
「どうやら、あなたがこの道を行くのは、偶然ではなく必然のようね」
メラーユは微笑みながら言った。
「それじゃあ、具体的な話をしましょうか。あなたを人間の姿にするための、条件の話を」
メラーユはそう言って、試すような目でミレイを覗き込んだ。
ミレイは強く頷いて、メラーユの言葉を待つ。
「実は、いくつか方法はあるのだけれど、こう言うのはどうかしら……?」
ミレイに魔法をかける条件。それは──。
「王子様と結婚すること。それが叶わないとき、あなたは泡沫となり、命を落とす」
覚悟はして来た……。
とはいえ、はっきりと命を落とすと言われると、心臓が締め付けられるように痛む。そのうえ、王子との結婚が条件となると……。
できるかな──。
そんな不安が彼女の脳裏をよぎる。
彼女は目を閉じて、彼の姿を思い浮かべた。
あの夜の、船の上の、どこか幻想的な王子様の姿を……。
「メラーユさん、ありがとう。私、その条件がいいです……!」
これはつまり、背水の陣。
「もう後に引けないほうが、全力でいけますもんね!」
狭い廊下を、奥へ奥へ進むと、広い空間に辿り着いた。
岩肌の壁には、所どころに光が灯っている。どうやら、発光する微生物が集まってのことらしく、それは不思議な光景だった。
「そこの魔法陣の上に、立ってちょうだい」
メラーユが言ったのは、地面に描かれた円形の模様のことだ。しかし、よく見るとそれは、見たことのない文字の集りで、白い砂で描かれていた。
ミレイは自分よりも大きな円の中へ、そっと入った。
「ど、どういうふうに立てば……?」
「中央でしっかりと、立っていてくれればいいわ」
ミレイは両手を胸の前で組むと、祈るように目を閉じた。
「それじゃあ、いくわよ?」
「お願いします……!」
メラーユは彼女の方へ手を向けながら、ゆっくりと落ち着いた声で詠唱を始めた。
「シャイネラカルム……ダークアライズ……グランドヒルム……オルシャネナイズ……トランゼフォルム……ゴスペルゲイン……カルム……!」
瞬間、眩い閃光がミレイを包んだ。
「うっ……!」
下から押し上げてくる圧倒的なエネルギーに、よろめきそうになるのを堪える。
(すごい……! これが……魔法!)
そして衝動が収まると、ミレイはゆっくり目を開いた。
「あ、あれ? 変わってない……!?」
ミレイの目には、いつもと変わらない、魚の尾が映る。
(失敗……したの?)
ミレイが何かを訴えるような目で、メラーユの方を見ると。
「バカね、ここで人間の姿になったら、あなた泳いで帰れないじゃない」
「あっ、確かに……」
メラーユは『よく覚えておいて』と前置きして、ミレイに伝えた。
「あなたの姿が変わるのは、次の満月の夜よ」
そう言うと、メラーユは来た道を引き返していく。ミレイも魔法陣から出て、彼女の後ろに着いて行った。
「満月って、えっと……」
「あと一週間くらいね」
一週間。それはミレイにとって、海で過ごす大切な残り時間なのだが。
「ど、どうしよう……。宮殿のみんなと、もう会えないくらいの勢いで、お別れしてきたんですけど……」
「知らないわよ……」
そして、入り口の扉に着いた。
「それじゃ、後は頑張ってね」
「はい! メラーユさん……本当にありがとうございました!」
ミレイは目をうるうるさせながら、メラーユにお礼を言った。
外には光るクラゲ達が、待ってくれている。
「お代はちゃんと、宮殿に請求しておくわね」
「!?」
「フフ、冗談よ。なにも当てにしてないわ」
メラーユは普段、宝石やご馳走を魔法の対価とする事が多かった。
しかし、命まで懸けたミレイから、何かを取ろうという気にはならなかった。
「でも、タダって訳にもいきませんし……」
「あなたみたいな子に、出会えることの方が貴重なの。三百年も生きているとね」
「え、えーっ!?」
ミレイは、メラーユの年齢が三百を超えることに驚き、彼女の容姿をまじまじと見ながら、なんでこんなに若いの!? と驚き、じゃあこの人の寿命は何歳なの!? と驚いたところで、頭がパンクした。
「そうそう、あなたにもう一つ、魔法を掛けてあげるわ」
メラーユはそう言って、ミレイの頭に手を置いた。
「ヘブンズリドル……フォーチュンリルル……グロウ」
ミレイの体に光が纏うと、やがてそれは消えた。
「メラーユさん、今のは……?」
不思議そうな顔で、ミレイが聞くと。
「あなたに祝福がありますように。そういう、お呪いよ」
彼女は優しくそう言って、ミレイが帰るのを見送った。