小さな夢
青く広大な海の上に人魚が二人、どこに行く訳でもなく、ぷかぷかと浮いていた。晴れた空には白い雲が、形を変えながら流れている。
「セナ姉? 雲ってさぁ、いつまでも眺めてられるよね……」
「ていうかさ、そろそろ帰らない?」
「……もうですかー?」
ミレイはメラーユに会ってからというもの、ぼーっとする時間が多くなっていた。セナが色々と話かけても、無気力な返事をすることも多い。
「あのねぇ、そろそろシャキッとしてくれない? あんたがそんなだから、みんな影で心配してるのよ?」
「心配って……? 私、おかしなところなんてないよ?」
いや、十分おかしいでしょと言いかけて、セナは口を噤んだ。
「ねぇ、ミレイ。まだ王子様のこと、忘れられない?」
「……その話はしないでって言ってるでしょ? もう何とも思ってないってば」
セナは静かに海の中に入ると、ミレイに見えないところで頭を抱えた。
メラーユの話を聞いて感じたこと。それは王子に会いに行くことが、如何に困難かということだ。
おそらく、ミレイも痛いほどよく分かっているはずだが。
セナの心配は、ミレイがちゃんと、王子への想いを断ち切れるのかということだった。
「ぷはっ! まぁ、時間が解決するでしょ!」
「???」
「今日の晩ごはんは何かなー?」
「エビー!」
「エビは昨日食べたでしょ!」
「今日もエビ!」
とある海底に、小さな遺跡があった。
岩裾に巨大な支柱が並び立ち、ほとんど損傷のない建造物は、古くは王宮として使われていた。
いつしか海底に沈んだその遺跡は、人魚達の棲家となり、『宮殿』と呼ばれるようになった。
そして数日後、ミレイ達の住む宮殿は、賑やかな日常を取り戻していた。
「なぁ、ミレイ。お前、提灯アンコウがどうやって子供を産むか知ってるか? メスがオスの体を吸収して、卵を産むんだぜ? あいつら気持ちわりーよな!」
「キャハハハ、ウソでしょ!? おもしろすぎ!」
ミレイに至っては、上からニ番目の姉、ソフィーと大笑いしていた。そこへ、セナが割って入った。
「ちょっと! 何時だと思ってんのよ! いいかげん寝なさいよ、あんた達!」
「たまには、いいじゃんかよー! てか、セナちんもこっちきてよー」
「い、や、よ! 私はもう寝ます!」
「えー? セナ姉のけちー!」
部屋を出ようとしたセナが、ミレイ達をキッと睨むと、二人は静かに立ち上がった。
「なぁ、ミレイ。そろそろ眠くなってきたな……」
「う、うん。寝よっか」
二人はおとなしく寝支度を始めた……。
セナは割と元気になったミレイを見て、安心していた。少なくとも、これ迄の無気力な状態は、今のミレイには無い。
(あの調子なら、もう大丈夫かな……? フーフフーン♪)
セナは羽を伸ばして、寝床に入った。
深夜、ミレイがまだ寝具の中でうとうとしていると、急に部屋が明るくなった。
不思議に思って、目を擦りながら起き上がると、目の前に提灯アンコウがいた。
「……何のよう?」
ミレイが聞いても、提灯アンコウは口を開かない。
どうやら、黙ってついて来い、ということらしい。
こんな時間にどうして、と思いながらも、仕方なくミレイはついて行った。
外に出ると、ボロボロの怪しい船が待機していた。
海中に潜水する船など、聞いたことがなかったが、提灯アンコウはその船に向かっていく。
「これに乗るの?」
ミレイはその大きな船に乗り込むと、船内のドアを開けた。
すると意外にも中は明るく、綺麗な内装をしている。
(おかしな船……。いったい誰の船なんだろう)
恐るおそる廊下を歩いていると、急に部屋の扉が開いた。
「こっちだ」
ミレイは何者かに腕を引っ張られると、部屋の中に引き込まれた。
見渡すと、そこは大きな広間で、着飾った人達が大勢いた。大きな円卓がいくつもあって、豪華な料理が並んでいた。天井のシャンデリアが眩しくて、ミレイは目を細めた。
「さぁ、一緒に踊ろう」
ミレイが声のする方を向くと、そこにいたのは王子様だった。ミレイが憧れて止まなかった、レオル王子がそこにいた。
「で、でも私は……」
ミレイは自分の足下を見た。
「足が……ある……」
どういう訳か、ミレイは人間の姿になっていた。
それにいつの間にか、純白のドレスを着飾っている。
(何かの魔法……?)
そうして音楽が鳴り始めると、王子はミレイの手を取った。
心地良いワルツが、会場を一体にしていく。
華やかな舞踏会で、王子と一緒に踊るミレイ。
楽しくて楽しくて、王子が何かを囁く度に、ミレイは微笑っていた。
しかし、とうとう不思議に思って、王子に尋ねてみた。
「これは夢……ですか?」
それに対して、王子は笑顔で何かを答えてくれている。
しかし、何を言っているのか聴き取れないまま、ミレイの意識は遠のいていった。
そうして小さな夢は、朝を迎えた。
目が覚めると、泣いていた。
拭っても拭っても、涙がこぼれ落ちてきた。
夢の中とはいえ、王子様に会えたことが嬉しかった。こんなに嬉しいと思わなかった。
王子様のことはもう、心の奥底にしまっておこう。絶対に考えないようにしよう。そう思って、意識しないようにしていたのに。
夢の中で会ってしまった……。
小さな光を暗がりの中に隠そうとしても、却って輝きが増してしまうように、いつの間にか自分でも気づかないうちに、憧れという光が心の奥底で、強く、大きくなってしまっていた。
自分の気持ちを、欺けないほどに──。
「ソフィ姉、おはよう」
「おっはよう、ミレイ。あら、今日はなんか、いつもと顔つきが違うな……。なんかこう、シャキッとしてるぞ?」
その会話を聞いていたセナが、驚いた表情で振り返った。そして、ミレイの顔を見ると、確かにいつもと顔つきが違っていた。
「セナ姉、話があるんだけど」
ミレイの表情からは、どこか覇気が感じられた。久しく見ていなかったその表情に、セナは嫌な予感がした。
「なによ、話って」
「私ね、やっぱりメラーユさんに頼んでみる」
セナは朝支度をしていた手を止めた。
「本気なの? 命に関わるって、言われてるんだよ?」
ミレイは少し俯いた。
「私、思うんだ。これは私の冒険なの。だから、命を掛けるのは特別な事じゃないよ。それに私、もう自分に嘘はつけない……。王子様に会いたい」
真っ直ぐな目でそう言われて、セナは焦った。
「ちょっと待ってよ! 私達は? もう会えないかもしれないんだよ?」
「うん」
「うんって……」
「だからね、セナ姉。今まで本当に……、本当に! ありがとうございました……!」
ポロポロと大粒の涙を溢すミレイを、セナは優しく抱きしめるしかなかった。
「もう……、バカなんだから……」
海底の朝に、悲しみが満ちていく……。