君の名は
鳥のさえずりが聴こえてくる、陽気な朝。
ミレイが部屋で朝食をとっていると、テーブルの上で寛いでいたハミットが起き上がった。
「オイラはこれで宮殿に戻るよ」
彼が突然そんな事を言うので、ミレイは目を丸くした。
「どうして?」
満月の日に一緒に旅立ってから、まだ三日目だった。それだけに、ミレイにとって彼が居なくなるのは、なかなかに心細い。
「あいつら、心配してるだろうからな。とりあえず、姫様が王子に会えた事を報告してやらないと」
そう言われて、ミレイは四人の姉を思い浮かべた。
彼女らの性格を考えると、心配しているかどうかはともかく、連絡を怠ると怒られる気はした。
「そっか。ねぇ、ハミット。もう会えなかったりする……?」
ハミットは首を横に振った。
「心配するなよ。どうせまた『様子を見てきて』ってお願いされるのが目に見えてる」
ハミットは呆れる感じで、両手を広げて見せた。
「そうかもね。私からもお願い。また会いに来てね?」
ミレイにそう言われて、ハミットは照れながら答えた。
「わかったよ」
ハミットは朝食に備え付けてあったペーパータオルを手に取ると、窓辺に移動した。
小さく開いた窓からは、涼しいそよ風が通り抜けている。
「そうだ、姫様。王子と結婚しないといけない話、忘れるなよ?」
ハミットはミレイの方に振り返りながら、そう釘を刺した。
「姫様の姿が変わるまでは、半信半疑だったけどな。姿が変わったってことは、王子と結婚できなきゃ死ぬって話も、本当ってことだろ?」
メラーユは魔法の条件に、王子との結婚を提示した。それが叶わなかった時、ミレイは泡沫となり、命を落とすと……。
「うん」
ミレイは小さく頷いた。
「必ず、成就させろよ? それじゃあ、またな」
彼女の部屋は二階だったが、ハミットは紙の空気抵抗を使って、器用に舞い降りていった。
ミレイはそのヤドカリの冒険家らしい姿を、初めて見た気がした。
「ミレイちゃんには、朝食と夕食の食器洗いと簡単な掃除から覚えて貰うわね」
一階の作業部屋に入ると、マリアはミレイにそう説明した。
作業部屋には帳簿や仕入帳などのノート、布やマチ針などの裁縫道具が置いてあった。
「食器洗いについては料理長のフレンカさんに聞いてね。掃除はルナちゃんと一緒にやって、覚えていくようにして頂戴」
料理長はその場には居なかったが、また後で紹介してくれるらしい。
ルナはマリアの横で眠そうにあくびをしながら、話を聞いている。
「それから私達、住み込み組は昼食から夕食の間は、基本的に休憩。その間は、通い組が仕事をしてくれるの」
家から通いのメイドは、昼食の準備から始まり、夕食の準備を終えると帰っていく。
住み込みのメイドは、朝食の支度から始まり、買い物や休憩を挟んだ後、夕食の片付けをするのが大まかな内容だった。
料理長だけは朝食の後に休憩に入り、午後は夕食の仕込みをする。
「あの……王子のお世話と言うのは?」
ミレイは昨日マリアから言われた事が、気になっていた。
「まぁ、それは……」
マリアは少し気まずそうな顔をしている。
「お前なぁ、王子に何したか忘れたのか?」
横で話を聞いていたルナが、口を挟んだ。
「死にたいなら死んじゃえーっ。死にたいならーっ」
ルナはニヤニヤしながら、ミレイのほっぺたをペチペチと叩いた。
「大丈夫よ、誰にも言わないから心配しないで? 王子の顔を引っぱたいた事!」
マリアはニコニコしながらそんな事を言っている。
(うっ、なんか弱みを握られた感が凄い……)
ミレイは自分のしでかした事の重大さに、段々と怖くなった。
王子を叩いた事があからさまになれば、処罰を受ける可能性もある。
そんな彼女の不安を知らないルナが、楽しそうに言う。
「しばらくは王子のお世話、おあずけだからな!」
「おい、マリア。やっぱこいつ、ダメかもしれない……」
ミレイと掃除をしに行ったルナが、帰ってくるなりそんな事を言った。
「清掃用具も知らないんだけど……」
ルナは隣にいるミレイを指差して言った。
「あれは知らないフリというか……!」
「嘘つけ! お前、箒と塵取り持ちながら『これは最新の武器ですか? 軽くて良いですね!』とか言ってたろ!」
あれも知らない、これも知らないでは馬鹿にされるので、何か知ってる物はないか。ミレイが探した末に言い当てたのは、剣と盾のはずだった。
「ミレイちゃんはきっと、箱入り娘だったのよ」
寛容なマリアは、ニコニコしながらそう言った。
彼女には二人のやり取りが微笑ましい。
「お前、もう少し広い世界を見てきた方がいいぞ?」
「うっ……」
「そうね、暇な時に観光にでも行ってきたら?」
「観光ですか……」
観光。それは他国、他郷の風景などを見物する事だが、海から陸に上がった人魚にとっては、毎日が観光である。
「この町はな、海とか遺跡とか、割と見所あるんだぜ?」
ルルリカ育ちのルナは、誇らしげにそう言った。
因みに、ミレイの実家は海の中の遺跡である。
「取り込み中悪いんだけど、少しいいかな?」
「「王子!?」」
三人の前に現れたのは、少し顔色が良くなったレオル王子だった。
どうやら、昨日の夕食と今日の朝食は、しっかり食べたらしい。
「大切な事を、聞いてなかったと思ってね」
王子はミレイの方を見てそう言った。
「君の名は、何という?」
彼女は王子に見つめられると、小さな声で答えた。
「……ミレイです」
ミレイは昨日の事で、王子に怒られるかもしれないと思ったが、王子は穏やかな表情でミレイに近づいた。
「ありがとう、ミレイ。君のおかげで目が覚めた」
王子はミレイのことを優しく抱きしめた。
「礼をいう」
耳元でそう囁いた後、彼は腕の中のミレイを解いた。
まさか人前で抱きつかれると思っていなかったミレイは、顔を赤く染めた。
マリアとルナも、そんな王子が珍しかったのか、驚いた表情をしている。
「何かお礼をしないとな。俺にできる事なら、何でも言ってくれ」
王子は爽やかに、軽い感じでそう言った。
しかしミレイの方は、至って重く受け止めた。
(今、何でもって言った? 言ったよね……? あなたと結婚したいですって言え、私! 結婚! 結婚! 結婚!)
王子にハグされた後の、その至近距離でなら、結婚をお願いしても不自然じゃない雰囲気があった。
「ミレイ? 何かないのか?」
王子の囁きに、ミレイは頬を染めて答えた。
「あなたと……観光したいです……」
ただならぬ雰囲気を出していたミレイが、残念な要求をしている。
「え? 観光旅行ってこと? そんな事でいいのか……?」
後ろで聞いていたマリアとルナが、くすくす笑っている。
ミレイは何となく恥ずかしくなって、下を向いた。
彼女に、求婚する勇気はまだ無かった。
「王子、お加減はいかがでしょうか?」
そう聞いたのは、ルナだった。
王子の前では、口調が変わっている。
「だいぶ良くなった。俺はこれから王城に戻る」
「もうですか? あまり無理をなさらない方が……」
マリアは心配そうに言った。
王子が元に戻ったのは表情だけで、やせ細った体と落ちた体力は何も変わっていないはずだ。
「皆に心配掛けっぱなしでは、寝覚めが悪いからな」
レオルは、自分の体力が回復していないことを自覚している。
しかし、落ちた体力を元に戻すためにも、これ以上、部屋で寝ている訳にはいかなかった。
「レオル様、王子を心配するご令嬢方から、お手紙が二百通ほど届いてますが」
マリアの心配をよそに、部屋を出ようとする王子。そんな王子に、マリアは一つの現実を突きつけるのだった。
「あ、後で目を通しておくよ……」




