第六話 「狼狽」
謝らなければ。
ただひとつ、そのことだけを思いながら仕事場への道のりを歩く。
ルークは怒っていないだろうか。
クロエは内心で不安を感じながら、そうだとしても自身のやるべきことが変わることはないと一貫した感情を持っていた。
「おはよう、クロエちゃん」
「おはようございます」
仕事場の前でバッタリと所長のジョゼと遭遇し挨拶を交わす。柔和な表情を保ちながら、ゆっくりした足取りで、クロエはジョゼの歩幅と速度に合わせて隣を歩く。
「最近はどう? 辛いことはないかい?」
「どうにか、やってます」
辛いことがない、とは言い切れなかった。
ジョゼはクロエについて理解をしていて、クロエにとっても無理に取り繕う必要の無い人物だ。
だが、あまり心配をかけたくないというのも本音で、大抵の場合回答を濁している。
「強いるつもりはないけど、何かあったらいつでも頼ってね。」
ジョゼはそれ以上は深く追求せず、今日は天気が良いとか仕事が落ち着いてきたとか他愛のない話を始めた。
その距離感がクロエにとってはとてもありがたかった。
仕事場に到着し、周りに挨拶をしながら自分の席に座る。
まだ、ルーカスは来ていないようだった。
仕事はいつも通りにこなさなければと手を動かす。
そう思いながらも、ちらちらと入り口を気にかけてルーカスが来ていないかを確認していた。
「おはようございます」
程なくしてルーカスが現れた。
人なつこい笑みを浮かべて、少し声を張り上げて挨拶をしている。それに対して、みんなが「おはよう」と挨拶を返していた。
ルーカスの席がクロエの席と近いこともあり、彼女の方へと近づいていく。
「おはようございます、クロエさん」
通り過ぎるときに柔らかな笑顔でルーカスはクロエに声をかけた。
まるで、何事もなかったかのようにいつも通り。
謝らなければ、という気持ちとは裏腹にクロエは「お、はよう」とぎこちない挨拶を返していた。
開口一番に謝ろうという彼女の決意は残念ながら果たされることはなかった。
それからもクロエは何度かルーカスに謝ろうと試みるも全て失敗に終わり、結局彼女の退勤時間までに彼に謝罪することは叶わなかった。
「はぁ……」
仕事場を出て、大きくため息を吐きながら肩を落として帰路を辿る。満足に謝ることすらも出来ない自分自身にクロエは嫌気がさしていた。
このまま、帰っても良いのだろうか。
立ち止まり、考える。
謝罪を明日に先延ばしにすることは簡単に出来るが、それで良いのだろうか。
「いや、ダメだ」
クロエが踵を返して仕事場に戻ろうとしたところで、後ろから駆けてくる音が聞こえた。
「クロエさん!」
ルーカスだった。
息を切らして走り寄ってきて、クロエの前でぴたりと止まる。額には汗が滲んでいた。
「あの、僕、この前は、ごめんなさい!」
切れ切れになりながらもルーカスは謝罪を口にしてペコリと頭を下げた。
「え?」
クロエは驚いてポカンとしたままになる。
「本当は、今日一日中謝ろうと思っていたんです。だけど、怒らせてしまったと思うと、中々切り出せなくて……」
どうやらルーカスとクロエは同じことを考えていたようだった。クロエはルーカスの言葉を聞いてぶんぶんと首を横に振る。
「違う、ルークは何も悪くないわ。悪いのは私よ……心配してくれたのにキツイことを言ってしまって……私も、1日謝ろうと思っていたの、ごめんなさい」
本当は自分が先に謝りたかった、とクロエは内心で後悔しながらも頭を下げる。
「あの、顔を上げてください」
ルーカスは頭を下げるクロエの顔を覗き込んで、それから肩に手を置いてクロエの身体を起こす。
「僕たち2人とも同じことを考えていたんですね」
ルーカスはいつも通りの朗らかな笑みを浮かべる。
つられてクロエも口角が上がった。
「じゃあ、これで仲直りにしましょう。僕は、クロエさんと気まずくなるなんて嫌ですから」
「怒ってない?」
「勿論」
不安そうに聞くクロエにルーカスは安心させるように強く頷いた。それから、ルーカスはクロエの頬を両手で包みこむ。
「クロエさんは笑顔がとても素敵ですから、笑っていてくださいね」
その時の表情がクロエの記憶の中にあるルーカスよりもずっとずっと大人びていて、一瞬どきりとする。
「じゃあ、僕はまだ仕事があるので戻ります。気をつけて帰って下さいね。」
ルーカスはひらひらと手を振って来た道を戻っていく。
クロエも再び帰路を辿り始めたが、小さな胸の高鳴りを抑えることに精一杯だった。