第三話 『破棄』
「クロエ、婚約を破棄して欲しい」
静かに告げられた言葉に、クロエは理解が追い付かずただ目を丸くすることしか出来ない。
フレデリック・ゴーズフォード公爵令息、それがクロエの婚約者であった。
彼女がまだ十二歳の頃に婚約が決まり、近すぎず離れすぎず、ちょうどよい距離感を保って接してきた。
それが、良くなかったのだろうか。
「君はよくやってくれていた、それは俺も理解している」
淡々とフレデリックはクロエに言葉をかける。
クロエは彼と婚約が決まるよりも前から、貴族としての知識、教養、マナーなどを両親から叩き込まれていた。それは、貴族令嬢として当たり前のことだと成し遂げてきた。
そして婚約が決まってからは加えて公爵夫人に相応しい人間となれるように、精一杯努力してきた。
しかし、この瞬間、クロエの積み上げてきた全てが音を立てて崩れた。
「な、何がいけなかったのでしょうか」
どうにか絞り出した声は小さく震えて掠れている。
「何も」
クロエの問いかけに、フレデリックはただそれだけ答えた。
ここで『可愛げがない』だとか『地味だ』とか『仕事が遅い』だとか、何か欠点を挙げてくれればクロエも直すと抗議が出来ただろうに、特に何もないとなるといよいよクロエは発する言葉がなくなってしまった。
静寂が流れる。
それを破ったのはギイと開いた扉の音だった。
「あ……まだ入っちゃいけなかったかしら……?」
見たところ貴族のご令嬢が扉からひょこりと顔を出して、申し訳なさそうな顔をしながら声をかけてくる。
クロエには彼女が誰なのかわかった。
マリメル・ケイル伯爵令嬢だ。最近、パーティーの度に2人が会話しているのをクロエは目撃していた。一体、どこで知り合ったのだろうかと不思議に思いながらも、特段気に留めてこなかった。
フレデリックに目を移した瞬間に、彼女は全てを理解した。
あぁ、二人は、恋に落ちてしまったのだと。
クロエとフレデリックはお互いに恋愛感情は抱いていなかったし、少なくとも貴族とはそういうものなのだと理解していた。
しかし、結局のところ、貴族の取り決めよりも強いのは感情的なものなのだと思わざるを得ない。
「いいや、マリーも関わりがあることだ、こちらへおいで」
呼ばれたマリメルは足早に駆け寄ってきて、フレデリックの隣に座った。
わざわざ彼の隣に座ることも、マリーと愛称で呼ばれていることも何もかもがクロエの神経を逆撫でする。
「フレデリック、詳しく説明して貰えるのでしょうね?」
「……俺たちは惹かれあってしまったんだ。勿論、違約金は支払う」
クロエは太ももに置いていた手にグッと力を入れてドレスを掴む。高いドレスが皺になるとか、身だしなみだとか、今はそんなことはどうでも良かった。
「それは、説明とは言わないわ」
「マリメルは君と同様に伯爵家の令嬢だ。身分も申し分ない。そして何より、彼女は光属性の魔法を使うことが出来る稀少な人間だ」
光属性の魔法。
それはこの世で数人しか扱うことの出来ない神の恩恵とも言われる属性魔法。
なるほど、公爵家はそれを手に入れたいのだとクロエは納得した。身分も教養も同等であるのならば、希少価値のある人間を娶りたいと思うのは当たり前のことだろう。
ゴーズフォード公爵も公爵夫人も良くしてくれた。だが、幼い頃から交流があったというのにこうもあっさりと捨てられてしまうのだ。
クロエは、ただただ悔しかった。
「フレディはエシャロット伯爵令嬢の婚約者だと分かっていたから諦めなければと思いました。でも、でも、どうしても気持ちを抑えられなくてっ!!」
マリメルは顔を両手で覆って、わっと泣き出した。
それをフレデリックが肩を抱いて慰める。
あぁ、一体何を見せられているのだろう。
クロエは、もう考えることすらも嫌になってどこか傍観者のような気持ちになっていた。
早くここから立ち去りたいという気持ちだけが先行している。
「えぇ、えぇ、あなたたちのお話はよくわかりました。一旦、家に持ち帰り検討させていただきます」
これ以上ここにいると発狂しそうだった。
クロエはすぐさまそこを退室するために立ち上がる。
歩き出す瞬間に、バチリとマリメルと目があった。
顔を覆う手の隙間から目が覗いていて、視線が合うとスッと目が細まった。
この女は笑っているのだとクロエはすぐにわかった。
悲しみよりも単純に悔しさと怒りだけが心に満ちていたあの感情を、クロエは一生忘れないことだろう。
さくさく書きたいと思っているのに、相変わらず遅くてすみません。