13.手の届かない夢幻
「箱入りの令嬢が、自分よりも大きな獣に襲われて冷静に対処できるものだろうか」
執務室にて、クライブは呟く。
すると、書類整理をしていた執事セスが顔を上げた。
「奥方さまのことですか? 一角猪に襲われたけれど、ご無事だったと伺いました。お助けになったのは旦那さまですか? 間に合って幸いでした」
「いや、違う。一角猪を倒したのは、奥方自身だ」
「……ご冗談でしょう?」
眉根を寄せるセスだが、その心境はクライブも一緒だ。
直接見たわけではないが、状況的に間違いないだろう。本人も認めていた。
「危機が迫り、無我夢中になって魔術が使えたと言っていた。おそらく身体強化だろう。持っていた日傘で、一角猪の弱点を一突きだ」
「それは……」
なおもセスは信じ難いようだ。
セスは元魔術師部隊で、戦闘経験も豊富である。いくら一角猪が倒しやすい部類に入るとはいえ、弱点を一突きというのは難易度が高いことも知っているだろう。
クライブもまだ未熟だった養成所時代、一角猪に舐めてかかって吹き飛ばされたものだ。
あのときの無様な姿を見た連中の記憶を、全て消し去ってやりたい。特にリアに情けないところをさらしたのは一生の恥だ。
「魔術が使えたというのは、まあいい。彼女は由緒正しい貴族の生まれ、魔力がまだ目覚めていないだけというのはあり得る。極限状態で一瞬だけ目覚めることだって、おかしくはないだろう」
「ほとんどは幼少期に目覚めますが、稀に成人するかしないかくらいで目覚める者もいますからね」
コーデリアはまだ十五歳だ。滅多にないことではあるが、魔力がまだ眠っているだけという可能性はある。
「一角猪の弱点を知っていたのも、不思議ではない。どうやら本は好きに読めたようだしな」
「動物をまとめた図鑑には、弱点の解説があるものもありますからね」
一角猪は珍しい動物ではない。弱点も広く知られている。
「だが、戦闘経験もない令嬢が、自分よりも大きな一角猪が突進してきて、冷静に対応できるか? 足がすくみ、体は萎縮して動かなくなるのが当たり前だろう。気絶してもおかしくない。それをぎりぎりまで引き付けて、一撃で仕留めるなど、熟練の兵士並みだぞ」
クライブは頭を抱える。
常識的に考えて、あり得ない。
「かといって、調査結果ではキャンベル伯爵家の離れに押し込められていたのは間違いないようでしたし、特殊訓練を受けたようなことは……他にあり得るとすれば、身代わりと入れ代わったくらいでしょうか……」
「身代わりか……確かに、彼女の平民への態度は貴族らしくない。貴族の女といえば、追い出した侍女のような奴だろう」
「ああ……しっかり餞別は受け取って、文句を言いながら去っていきましたよ。実はあの侍女が本当はキャンベル伯爵令嬢で、奥方さまが……いえ、それはあり得ませんね。あの侍女も、奥方さまを馬鹿にはしていましたが、キャンベル伯爵令嬢であることは認めていました」
二人そろって、ため息を吐き出す。
まったくもって、わけがわからない。
「伝説では、建国王は様々な奇跡を行使したと言います。奥方さまは王家の血を引く方。もしかしたら先祖返りで、何かよくわからない凄い力が発揮されたということも……」
苦し紛れのように、セスがそう言い出す。
「そうだな。よくわからない凄い力があったのかもしれない。そういうことにしておこう」
考えても答えの出ないことだ。いったんは終わらせてしまおうと、クライブも同意する。
「ただ、彼女は王家の思惑に利用された犠牲者としか思っていなかったが、もしかしたら……いや、なさそうだな……」
コーデリアが王家の諜報員である可能性を考えるが、クライブは途中で打ち消した。
栄養状態の悪さは本物であり、家で虐げられていたのは間違いないだろう。
さらに、何か望みをと言っても、食べ物のことばかりだ。何かを探ろうとか、財政を傾かせてやろうといったような思惑は、かけらも見当たらない。
変わったことといえば、銀月茶を望んだことくらいだろうか。だが、それも貴族としては何もおかしくなかった。
「もし奥方さまの健気さが演技で、実は辣腕諜報員だったというのなら、我々は王家に白旗を揚げるべきですね」
「そうだな。王家が狙っているのは魔鉱石だろうが、気分良く献上することができそうだ」
乾いた笑いを浮かべた後、クライブは大きく息を吐き出す。
「まあ、冗談はさておき。王家としては、彼女に次期アーデン当主となる子を産ませたいのだろう。そして俺を始末すれば、後見人としてでも何でも割り込んで、一切を巻き上げられるからな」
「もしくは、旦那さまは始末せず、奥方さまやお子さまを人質にするという手もありますね。まあ、ろくでもない手段がいくらでもあるでしょう」
「そうだ。だから、俺の先生への気持ちがなかったとしても、彼女とは白い結婚でいるべきだ。これは、王家の介入をなるべく防ぐためでもある」
かつての一介の魔術師であった頃なら、考えることもなかったことだ。
だが、今は領民に対する責任ができてしまった。せっかく、行き場のない者たちのための場所を作り上げてきたのに、失わせるわけにはいかない。
「……仕方のないことではありますが……残念ですね……」
がっかりしたように、セスはため息を漏らす。
セスはクライブとコーデリアが本当の夫婦として、愛を育んでいくことを望んでいる。その願いを捨てきれないのだろう。
「ところで、たとえば……たとえばですよ。旦那さまの敬愛する先生が、生まれ変わって奥方さまになって現れたとしたら、どうなさいますか?」
「そんなの、白い結婚なんて即座にやめるに決まっているだろう」
問いかけられ、クライブは即座に答える。
リアがもしも再び自分の前に現れてくれたのなら、決して離さない。姿形など、変わっていても構わない。妻として、一生大切にする。
「お子さまが産まれたら?」
「そうだな……先生が俺の子を産んでくださったのなら、幸せすぎるな。愛の結晶だぞ。可愛がらずにいられるか。親ばか過ぎて、先生にたしなめられることになりそうだ」
「……旦那さまの心境ではなく、政治的な問題はどうするのですか?」
セスの声に、やや呆れが交じる。
「そんなの、いっそ王国から離脱するのもいい。家族だけでどこか異国の地に行くこともできる。だが……それだと領民を見捨てるのかと先生に言われそうだな。ならば王家に反旗を翻すことも視野に入れるべきか……」
「旦那さまが、何を一番優先しているか、よくわかりました」
反乱について考え込むクライブを眺めながら、セスが冷たい声を出した。
そこで妄想に浸っていたクライブも、我に返る。現実がのしかかってくると、楽しい気分は一気に消え失せた。
深呼吸と共に、幸福な幻を打ち消す。
「……もっとも、そんなおとぎ話のようなこと、あるはずがないけれどな。先生が生まれ変わって俺の前に現れるなど……所詮は、手の届かない夢幻でしかない」





