10.女主人
悲鳴を上げたことにより、一角猪のターゲットが完全に定まってしまった。涎をまき散らしながら、一角猪が迫ってくる。
腰を抜かして崩れ落ちるグレタの前に立ちはだかり、コーデリアは一角猪を待つ。自分よりも大きな獣を前にして、コーデリアはしっかりと相手を見据え、ぎりぎりまで引き付ける。
「やっ!」
一角猪が目前に迫ったところで、コーデリアは大きな角の下を目がけて日傘を突き出す。両手でしっかりと日傘をつかみ、足を踏ん張って衝撃に耐える。
力で押し切られそうになってしまうが、先に倒れたのは一角猪だった。
気を失い、目の前に倒れる一角猪を見下ろして、コーデリアはほっと息をつく。
コーデリアは腕が少し痺れているが、怪我はない。
この貧弱な体なら手首が折れ、吹き飛ばされてもおかしくないと思ったが、どうやら無意識に魔術を使って身体強化したようだ。
魔力なしと言われるコーデリアだが、そうではなかったらしい。
それならばと魔術を使ってみようとするが、意識すると魔力をうまく流せなかった。危機が迫ったから、普段は使えない力が目覚めたということだろうか。
「お……奥方さま……! ご無事で……!」
追いかけてきた使用人が、真っ青な顔で叫ぶ。
「大丈夫よ。一角猪は、角の下が弱点なの。落ち着いてそこを狙えば、自分の勢いで勝手にダメージを受けてくれるわ」
にっこりと笑いながら、コーデリアは答える。
前世のリアの知識でも、一角猪は倒しやすい部類に入っていた。肉が美味で、養成所の野外演習で獲れたときは、お祭り騒ぎとなったものだ。
そのときも今のように説明したことが、かつてのリアの記憶として残っている。
「本当に……本当に申し訳ございません……」
使用人が地面に平伏して謝罪する。
どうしてこれほど蒼白で震えているのかと、リアは疑問に思う。
そこで、自分の持つ日傘が折れていることに気付いた。もう使い物にならないだろう。
「日傘は……まだ他にもあったし、きっと大丈夫でしょう」
コーデリアのために用意された身の回りの品の中には、日傘がまだ何本もあったはずだ。命を守るために一本壊したことでガタガタ抜かすほど、クライブの器は小さくないと思いたい。
「だから気にしないで。これくらいのことで……」
「な……何という、無礼で危険なことを……! 即刻、処刑すべきですわ!」
慰めようとするコーデリアを遮り、グレタが腰を抜かしたまま、ヒステリックな叫びを上げた。
平伏す使用人は、地面に額を擦りつけたまま、震えている。
「処刑……? こんなことで……」
あっけにとられながら、コーデリアは呟く。
誰にも怪我はなく、被害は日傘一本だ。まさか、日傘一本と人の命を引き換えにするほどのものかと、信じ難い。
だが、貴族にとっては平民の命など、その程度のものなのだろう。
「と……当然ですわ! 卑しい平民の分際で、高貴な私を危険にさらしたなど、万死に値します! 今すぐ……ぎゃあぁぁぁ!」
激昂してまくしたてるグレタだが、またも濁った悲鳴を上げて言葉を途切れさせた。腰の下の地面が、濡れて変色していく。
顔面にいくつもの刀傷がある筋骨隆々の大男、料理長デニスが凄まじい形相でやってきたのだ。足を引きずりながらも、必死に急いでいる。
「奥方さま! ご無事ですか!?」
「大丈夫よ、誰も怪我はないわ」
張り詰めたデニスの叫びに対し、コーデリアは穏やかに答える。
コーデリアが平然と立っていて、怪我もないらしいと確認したデニスは、安堵の息を吐き出す。
「……夕食の材料が逃げ出してしまったのですが、まさか奥方さまに向かっていくとは……というか、まさか一角猪を奥方さまが……?」
立ったままコーデリアが持つ折れた傘と、地面に倒れる一角猪を眺めながら、デニスはおそるおそる問いかけてくる。
「弱点がはっきりしているし、倒しやすい相手だったからよ。武器を構えて立っているだけでよいのですもの」
素直にコーデリアが答えると、デニスは唖然とした顔になる。信じられないといった様子だ。
「……確かに、一角猪は倒しやすい部類に入りますが、だからといって……」
「こっ……この、平民どもが! 私に恐ろしい思いをさせ、あまつさえ恥までかかせるなんて……どういうつもりなの! 今すぐ死になさい!」
気を取り直したらしいグレタの絶叫が響く。
「何をしているの! 早く死になさい! 今すぐ自分で命を絶つのよ! これは命令よ! 早く!」
「黙りなさい」
喚き散らすグレタに対し、コーデリアは冷たく命じる。
グレタがびくりと身をすくませ、口をつぐんだ。
「命令だと言うけれど、あなたにそんな権利はないわ。たとえ主人が使用人の命を左右できるのだとしても、彼らの主人はあなたではない。旦那さまよ。あなたは女主人である私に仕える、ただの侍女なの。わきまえなさい」
堂々とコーデリアは言い放つ。
お飾りの妻としては、飾られるだけの見栄えが必要だろう。となれば威厳をもって、毅然と振る舞うべきだ。
女主人らしい態度を心がけ、コーデリアはグレタを見下ろした。
グレタの顔は蒼白になった後、徐々に赤く染まっていく。
「出来損ないの、魔力なしの分際で……!」
怒りに満ちた表情でコーデリアを睨み付けながら、グレタは吐き捨てる。
見下していることを隠そうともしない、あからさまな物言いだ。
「何が女主人よ! 私は知っているのよ。あんたが、初夜に夫から相手にされず、一人放置されたのを! 夫にないがしろにされているくせに、女主人だなんて笑わせないでちょうだい!」
グレタは大声で嘲る。
初夜にコーデリアの身支度を手伝ったのは、グレタだ。その後も様子をうかがっていたのだろう。
どう答えるべきか、コーデリアは迷う。
放置されたのは事実だが、ないがしろにされているのとは違う。お飾りの妻となる契約を結んだのだが、それを口にしてもよいものだろうか。
返事に窮するコーデリアを見て、してやったと言わんばかりに、グレタは唇の端を得意げに歪める。
使用人二人は、何と言ってよいものかわからないようで、おろおろとするだけだ。
「……獣の鳴き声が聞こえてきたようだが、何の騒ぎだ」
そこに、クライブが現れた。
この地の主人である彼は、呆れたようにグレタを見下ろした。





