15時
わたしは鏡に映る自分に、ほっと安堵の息を吐く。
髪をとかしてくれているマウエラが、穏やかに口角を緩ませた。
「お美しいですわ、エラ妃殿下。まるで絹糸のように艶やかで、豊かな髪にございます。ねぇ、ラット」
「そうですわ、妃殿下。肌も透き通る白さで、まさに汚れなき乙女にございます。ねぇ、マウス」
「……ありがとう、二人とも」
鏡台の前、爪の手入れをしてくれているラトリアの賞賛にも、照れながら礼を言う。
わたしの呪いは、着実にその効力を失いつつあった。
日に日に肌荒れは改善され、髪も傷まなくなってきている。シスターが用意してくれる食事も、しっかりと栄養が回るようになってきて、痩せ細っていた体にも肉が戻ってきた。夜だって、今まで感じていた痛みや苦しみがなくなり、穏やかな睡眠を確保できている。
そして何より、外を歩いても、誰もわたしを指差し笑ったりしない。
“灰かぶり”のエラと、馬鹿にしたりしないのだ。
どれもこれも、パームキンが呪いの解除を進めてくれているおかげだった。
デートと称したドレス選びの後から、彼はなるべくわたしに会いに来てくれていた。
わたしのお母様の話や、お城の事、お兄様の事など、彼はいろんな話をしてくれる。マウエラとラトリアが指導してくれている、第一王女として最低限の振る舞いについて、わたしが学んだ成果を披露すると、手放しで誉めてくれるのが嬉しかった。
デビュタントまで、あと数日だ。率直に言うと、わたしの準備はまだ足りない。貴族らしい所作が、たった三ヶ月弱で身につくわけがないし、不安も心配もたくさんある。
それでも嬉しかった。彼が喜んでくれるから、もうちょっと、あと少し、そんな風に思って頑張れた。
今が一番、幸せな瞬間を積み重ねていると思えたのだ。
──ただ少し、わたし自身の事とは別に、気掛かりな事があった。
「……ねぇ、マウエラ、ラトリア。……パームキンはデビュタントまで忙しいかしら。……少しでも、休めているかしら……」
トゥーベル様の指導で訓練に励んでいるらしく、顔を合わせる度、目に見えて痩せているとは思っていた。お母様の一件があった手前、心配していたのだけれど、思ったより苦痛ではない様子もある。お土産に持ってきたお菓子も、トゥーベル様には内緒だと笑いながら、一緒に食べていたくらいだ。
魔女の呪いを解除する過程で、お母様は亡くなった。それなのに彼の様子は拍子抜けするほど、いつも通りだったのだ。
つい先日までは。
あの日、雨の中会いにきてくれた彼の顔色は、いつもより悪かった。
「……パームキン、大丈夫?」
「ええ、もちろんですよ。……ああ、綺麗になりましたね。本当に」
すっかり贅肉も取れて、すっきりとした顔立ちになった彼。素朴な顔立ちながらも、柔らかな笑顔が印象的だった。トレーニングで少し無骨になった手の平に撫でられると、ソワソワと落ち着かなくなってしまう。
彼はそのまま、わたしの髪を指先で一房とり、軽く撫でて視線を落とす。
「……うん、髪も良い感じ。痛みや苦しいところは?」
「いいえ。もうほとんどないの。司教様やシスターも、とても喜んでくれているわ」
「それはよかった」
ソファーに並んで座り、彼の指がわたしの様子を確かめるように肌を撫でた。赤らんだ頬を見られたくなくて、少し視線を外してしまう。綺麗になった髪が視界の端に映り、わたしは追いかけるように双眸を動かした。
雨模様で少し薄暗い室内でも、僅かな光を反射し輝くシルバーブロンド。みんなに愛された、お母様の月の光。
わたしの肌が綺麗になり、髪が豊かになって、わたしは本当に嬉しいのだ。鏡を見る度に、お母様の娘だと自信がついてくるようで、幸せな気持ちになれるのだ。
少し意識が浮ついていたわたしの耳朶を、パームキンの呟きが震わせる。
「……ぃ……す……」
「? 何か言った? パーム……」
良く聞き取れず顔を向けて、……わたしは言葉が続けられず、目を見開いた。
彼はわたしの髪に唇を寄せ、目蓋を閉じる。それは普段の彼からは想像できないほど、流れるように自然な動作だった。まるで何かを祈るようにも見える所作に、わたしは急激に恥ずかしくなり、慌ててパームキンの肩に手を置く。
──置いたはずだった。
「っパームキン!?」
ぐらりと、彼の体が傾いだのだ。
わたしの腕を擦り抜け、彼の体はソファーの下に転がり落ちる。急いで抱き起こせば、彼は肩で息をし、苦しげに胸を片手で押さえつけた。額には脂汗が浮かび、奥歯が噛み合わず、ガチガチと鳴る音が微かに聞こえる。
「マウエラ、ラトリア! 急いで司教様に」
「い、いいえ、……それには、及びません、妃殿下。大丈夫……ですよ」
片手をわたしの眼前に掲げて制したパームキンが、青白い顔のまま自力で起き上がる。無理矢理笑みを見せるが、どう考えても大丈夫な顔色ではなかった。
足音もなくやってきた侍女二人が、けれど今にも泣きそうな顔で、彼の前に膝をつく。そして二人がかりで彼を抱き起こした。
パームキンは足をふらつかせながら、わたしを見つめて目尻を緩ませる。
「驚かせましたね。……ちょっと、うん……これは城に、戻らねばならないようです」
「でも、パームキン、そんな状態で……!」
「大丈夫。……だけど、次に会う時は、デビュタント当日かと思います」
腰を浮かせているわたしをソファーに座らせ、彼も一度隣に座り直した。わたしの片手を両手で掴み、しっかりと双眸を交じ合わせる。わたしがその手に、もう片方の手を重ねれば、彼は少し驚いた顔をした後に微笑んだ。
静謐で深い、緑の瞳。平凡な顔だとパームキンは言うけれど、誰よりも心が落ち着く瞳だった。
「必ず、デビュタント当日は迎えに来ます。祝賀パーティーが終わるまでに、必ず貴女を連れていく。僕は師匠に、貴女たち兄妹の幸せを託されました。……僕が師匠の代行者として、必ず『幸福』に導きます」
「……パームキン……」
形容し難い感情が胸に渦巻いて、わたしは祈りに似た仕草で目を閉じる。
「……ねぇパームキン。わたしも頑張るわ。頑張って一緒に立ち向かうから、無茶はしないで……」
願いを込めて呟いた言葉に、パームキンが微かに笑った気配がする。そして額に少しかさついた感触があたったような気がして、驚いて目を開けた。
鼻先が触れ合うほどの至近距離に彼の顔があり、わたしは熱が顔を集中するのが分かって、けれども動けずに彼を見つめる。パームキンは愛おしげにわたしの頬を撫で、再度額に口付けた。
「……君は、いい子だね。流石、師匠の娘だ」
それは、わたしのお母様の事を思い出しながらも、どこか遠い、誰かに想い馳せるような切ない声で。その時の彼は、わたしよりもずっと年上の、男の人のように思えたのだ。
それから彼は、一度も教会に来ていない。
体調を確認したくとも、わたしではお城に近づくことも出来ず、マウエラとラトリアも、大事な時期だからと動けないようだった。
心配で苦しかったけれど、今のわたしが出来ることは、彼を信じて待つことだけなのだ。
「ねぇ、マウエラ、ラトリア」
ポツ、と部屋の窓を雨粒が叩いた。わたしの意識は一瞬そちらに逸れて、少しの間、無言になる。
言葉にすべきか悩んで、唇を震わせた後、わたしはもう一度侍女二人を呼んだ。
「パームキンって、誰なの」
雨粒が叩く音が、次第に大きくなっていく。雲は次第に厚みを増して、雷を起こしそうな様子で辺りを暗がりに連れていった。
わたしが視線を向けずに待っていれば、微かに息を吐き出す気配がする。
「……妃殿下が、パームキン殿下にご興味があるのは、好奇心でしょうか?」
思ってもみなかった疑問を返され、わたしは侍女二人に視線を向ける。彼女たちは声が似ているので、どちらが声を発したかは分からない。
いつの間にか扉の前まで下がっていた彼女たちは、暗がりの中、二対の赤い双眸で、真っ直ぐにわたしを射抜いていた。
わたしは緊張状態に生唾を飲み込んで、分からない、と素直に首を振る。
「わたくし達は、殿下をお守りする義務がございます。好奇心であの方を覗こうというのなら、いくら妃殿下でも、了承致しかねますわ」
今度はしっかり見ていたはずなのに、やはりどちらが話しているのか分からなかった。心臓が不自然に跳ねて、わたしは瞠目する。怒らせてはいけないと本能が悲鳴を上げて、両手で衣服の上から心臓を押さえつけた。
一度大きく深呼吸をして、意を決して二人を見据える。
どうしてこんな疑問が浮かぶのか、正確な答えは、きっとまだわたしの中に無い。好奇心という言葉が、今は一番正しく表現した感情なのだろうと思う。
それでも聞きたかった。それでも知りたかった。
わたしの中で彼の存在を、もっと大きな意味にしたかった。
わたしたちの幸せを願った、お母様の側に居たあの人の事を。
「知りたいの、パームキンのこと。あの人を知ることで、わたしは、わたしの気持ちを知りたいのよ」
微かな反響を残して消えた言葉に、侍女二人は一つ瞬いた後、ゆっくりと一礼した。そして、やれやれというような様子で、頬に片手を当てる。
「……そうですわね。パームキン殿下よりお話しするには、いささか酷なお話でございましょう。ねぇ、ラット」
「そうですわね。しかし純粋な想いを無下にするのは、何よりパームキン様が悲しみますもの。ねぇ、マウス」
彼女たちは音もなく進み出ると、鏡台の前に座ったままのわたしを、静かに見下ろした。
少し逡巡する素振りを見せたあと、マウエラが口を開く。
「……エラ妃殿下。マリア・トリジアが、世界に魔法をもたらしたとされる所以は、ご存じでしょうか?」