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開幕

連載途中の作品の合間に、頭に浮かんだネタを書き留めようとしたら、あれよあれよという間に…すっかり一つのお話となりました。

少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。






 思うに、その時初めて、僕は師匠の涙を見たような気がする。


 いつも強く逞しい、そして誰よりも優しいその人は一人、ベッドの上で呪いと戦っていた。

 元々白い肌は更に紙のように白く、健康的だった体型は見る影もなく痩せ細り、高熱による苦痛に喘ぎながら、彼女は悔しげに泣いていた。

 はくはくと、打ち上げられた魚のようなか細い息の合間。僕はせめて和らぐようにと、何度も冷水でタオルを濡らし、汗ばむ顔を拭いてやる。

 もう汗か涙かも曖昧で、けれども血の気の引いた唇だけが、ずっと言葉を紡いでいた。


「ああ、……うああ……許して……お母様を許して、……、っ、ひ、……ッ」


 ボロボロと泣き崩れる彼女は、年端のいかない少女のようにも、全てを包もうとする母のようにも見えた。

 僕は懸命に彼女の汗を拭きながら、──それが無意味だと知りながら、師匠の顔を覗き込む。

 彼女の双眸は虚だったが、それでも僕の顔を見ると、やはりクシャクシャに表情を歪めて泣き腫らした。細い腕に抱き締められ、師匠の命の音を聞きながら、僕は少しの間だけ目を閉じる。

 研究が好きだった彼女はいつも、薬草の匂いをまとわりつかせていた。けれども今香るのは、無機質な消毒液と薬品の匂いだけ。それが逆に、彼女が倒れてからの月日を僕に突きつける。

 悲しかった。寂しかった。いつか元気になる日を、待ち望んでいた。


「ごめんね……パーム……、わたし、……わたし、っみんなを、守りたかった」

「……師匠、……」

「不甲斐ない……不甲斐ない……! みんなみんな、わたしは守れず死んでいくんだ……!」


 泣き喚く体力がなくとも、体が言うことを聞かなくとも、師匠は血を吐くような声で叫ぶ。

 そんな事はないと、僕は穏やかに首を左右に振った。


「大丈夫ですよ、師匠」


 少しでも安心すればいい。少しでも心穏やかになればいい。そんな願いを込めて、細い肢体を抱きしめ返す。

 彼女は誰よりも強い師だった。彼女の唯一の弟子が、自分であることが誇りだった。僕には師匠の背中が、何よりも憧れであった。


「大丈夫、あなたは誰よりも偉大な、“導き”の魔女ですよ、師匠」


 手を繋いだ。

 細くて悲しい、徐々に体温が失われていく、冷たい手の平。師匠の表情が少しだけ緩んで、僕を見上げて祝福を授ける。


「パーム……パームキン……、わたしの大事な子を……どうか幸せにしてあげて……」


 彼女は誰よりも優しい師だった。彼女の隣で学べる事が誇りだった。

 彼女は母だった。穏やかで聡明な愛する夫にとっても、手放すしか助ける方法のなかった、愛する我が子にとっても。

 ──師匠の命を見届ける、僕にとっても。

 窓の外は、雲ひとつない快晴だった。

 小鳥はさえずり、風に木々はそよぎ、太陽が西へ少し傾いた、柔らかな春の午後。

 師匠との約束は祝福となって、僕の心を繋いでいく。

 それでも大人になりきれない僕は、少しだけ胸が詰まって、安らかな旅路の祈りを捧げる。

 声を殺して泣くことだけは、どうか、許して欲しかった。


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