Ep: 1-8 熾天使の微笑み!
「これが……エンジェルカ=アンジュルカ」
祐樹は思わず、体のあちこちへ視線を巡らせた。
信じられなかった。勢いに任せて呪文を唱えたら、変身してしまった。
それでも、これが夢の類でないことは、よく理解している。
笑顔の天使、スマイレル。それが今の、変身した祐樹の名前。頭の中で反芻すると、不思議と勇気が湧いてきた。
祐樹は――スマイレルは、毅然とした態度で眼前を見据えた。
ハピネスが、鋭い視線でそれに応えた。
「エンジェルカ=アンジュルカだと……? 笑顔の天使スマイレル、だと……? 貴様! その手鏡は、デコーレ・クロスドレッサーは、お前のような人間風情が扱っていい代物じゃない! こちらへよこせ……!」
ハピネスは声を張り上げスマイレルを怒鳴った。弾かれたように怪物が凄まじい咆哮を放つ。
「来るわ! スマイレル!」
「っ……!」
ふと顔を上げると怪物の顔が目の前にあった。黒い靄の怪物は、イノシシの突進のように真っすぐスマイレルへ突っ込んできた。避けられない。思わず体を強張らせた。
刹那、反射的にとった防御姿勢が、純白の光を生み出した。それは盾の形となり、怪物の前に立ちはだかる。
「アァアァアアア……」
怪物が光に触れるや否や、激しい火花がバチバチと辺りに散った。
瞬きの後、怪物が遥か後方へ弾き飛ばされた。
「なに……っ」ハピネスの表情が翳ったのが分かった。対してプペペが、スマイレルへ声援を送る。
「良いわスマイレル! あなたは今、伝説の天使になっているの! このまま一気に畳みかけてしまいなさい! あの怪物をぶっとばすの!」
「は、はい……やってみます!」
もうもうと漂う粉塵の霧の中に、おぼろげな怪物のシルエットが見えた。
スマイレルは、できるだけ心を落ち着けるようにして、その一点を見つめた。
心に、鏡の声が響く。
「――あなたは天使。空を舞うように飛び、可憐に悪を屠る笑顔の天使よ。さぁ、綿菓子の上を歩くように、ステップを踏んで」
「ステップを、踏む」
スマイレルは怪物を見据えて、一歩を踏み出した。背に、翼の感覚がある。それも、自由に動かせるという自信にも似た感覚が。
言葉の通り、柔らかなステップを踏んだ。アン・ドゥ・トロワ。
体がふわりと宙に浮く。飛んだ。スマイレルは翼をいっぱいに広げ、宙を舞った。そのまま怪物の直上に到達する。
たじろぐ怪物の顔めがけて、スマイレルは蹴りを放った。柔らかな、新体操の動きのように、美しさを伴った一撃を、怪物へと叩き込む。
「体が、勝手に……!」
蹴ろうと思ったら、体はひとりでにアクロバティックな動きを伴っていた。これが魔法の力。デコーレ・クロスドレッサーの力なのか。
スマイレルはふわりとフロアに降り立ち、怪物を見た。
怪物は瞬時にスマイレルへと迫ってきた。拳を振り上げ、駆け寄ってくる。
「――あなたはただの天使じゃない。オトコの娘の、天使。可愛くなりたい、綺麗になりたい心を持つ、光の戦士よ」
スマイレルは怪物の攻撃に構えた。だが、声がそれを否定する。
「――オトコの娘の武器は、純粋な力かしら? それともアクロバティックな柔軟性? いいえ。……あなたはもう気が付いているでしょう」
ああ、そうだ。女装した時の立ち姿が綺麗になれるよう、固い印象を与えないように、毎日励んだ柔軟体操。シルエットを可愛くするために頑張った筋力トレーニング。
それらを経て得られた、女性のような柔軟性と男性の体の力強さ。その両方の力こそ、オトコの娘の武器。スマイレルの武器だ。
スマイレルは飛び上がり、怪物の突きを体を反って避けた。そのまま地面に手をつき、足で怪物の顔に鋭い蹴りを放った。
確かな手応えと共に、怪物が転がっていく。
「――可愛さや美への探求心と乙女心。力漲る男性の体。相反するその二つを併せ持つ優雅な存在。それこそが……」
鏡の声にスマイレルは言葉を継いだ。
「オトコの娘天使《エンジェルカ=アンジュルカ》」
スマイレルは眼前を見据えた。幸せな未来への一歩を確かに踏み出した今、頬を笑顔で満たして。
「――さぁフィナーレよ。舞台の幕を閉じるとしましょうか、新たな私。笑顔の天使スマイレル」
そのまま、心に響く導きの声に従った。囁かれる魔法の呪文を、可憐に唱える。
『ジャッジメント! クロス・ドレッス・フォアビューティー!』
スマイレルの掌に、轟々と唸る白色の光弾が現れた。地を這いずる怪物に向け、光弾を構える。
視界を奪うほどの眩い聖なる光が、容赦なく怪物を照らし出した。
『地上を蝕む闇を祓うは、オトコの娘の弾ける笑顔!
《エンジェルカ=アンジュルカ》熾天使の微笑み!』
スマイレルが弾けんばかりの笑顔で微笑んだ時、煌めく光弾が放たれた。
それは、瘴気をかき消しながら空を裂き、地に伏す怪物に直撃した。
聖なる力を宿した正義の光が、怪物を浄化していく。強烈な光にかき消されるように怪物の影が薄れていく中、スマイレルは小さな断末魔を聞いた。
やがて、辺りは静寂に包まれた。
ぽつり、声が落ちる。
「これは……こんなことが」
唖然とした様子で立つハピネスが呟いた。赤い髪が、俯く彼女のうなじに力なく垂れていた。
「エンジェルカ=アンジュルカ……貴様は一体何を思い、何感じている……?」
ハピネスの視線がスマイレルを射抜いた。ぞっとする、青い炎のような静かな怒りが込められた視線だった。
しかしそれを遮るようにプペペがつかつかと前に出る。
「さぁハピネス、大人しくお縄を頂戴しなさい……!」
が、ハピネスはプペペをひらりと躱した。そうして、音もなく歩を進めると、スマイレルとすれ違った。
「その力は私が頂く。すべての人間の安らぎのために――」
はっとして振り向くと、そこにはもうハピネスの姿は無かった。後にはただ荒れ果てたショッピングモールと静けさだけが残されていた。
「くっそ逃げられた! ……スマイレル!」
スマイレルを呼ぶ声がする。プペペがこちらへと走ってきた。
「私たちも逃げるわよ! このままここに居たら、事件の首謀者にされちゃう」
はっと我に返って、辺りを見渡した。怪物がいなくなったことで、モール内に人が戻り始めていた。
柱の陰からこちらの様子を窺ったり、スマイレル達をスマートフォンで撮影している者までいる。
「わかりました。……でも壊れてしまったモールは」
「それなら心配いらないわ。ほら」
プペぺが顎でスマイレルの背後を示す。振り返ってその景色を見た時、驚きで思わず声を漏らしてしまった。
壊れたモールの景色が、輝く光に包まれ、元通りに直っていく。
「あなたが振りまいた幸せの光のおかげよ。だから心配いらないわ」
「僕の振りまいた、光が……」
「とにかく急いで退散するわよ、スマイレル!」
プペペの声に、大きく首肯した。
「……わかりました!」
透き通った声音が空気を揺らす。
スマイレルはプペペの後を追って、モールから脱出した。