Ep: 1-7 変身! エンジェルカ=アンジュルカ!
右へ左へ進路を変え、怪物を誘導しながら、祐樹たちは開けた広場へと躍り出た。
体を引きずるように歩く怪物は、気味が悪いくらい首を傾げ、そこで初めて笑った。
「人間の犠牲を避けたか。殊勝な心掛けだ」
黒の女性が不敵な笑みを浮かべながら近づいてくる。コツコツと靴が床をたたく音だけが異様に大きく聞こえた。
どうしていいか分からず、祐樹は手を引く彼女の顔をちらと見た。その相貌は凛としたままで、両眼は真っすぐ黒の女性へと向けられている。毅然とした態度。
しかし、祐樹の腕をつかんでいる手は、微かに震えていた。
「当然の事よ。……しっかしまぁ、何という運の悪さか、あるいは運がいいのか。まさかあなたと、こんなに早く鉢合わせるなんてね。……ハピネス!」
「こちらも驚いている。まさか本部勤めの天使がわざわざ出向いてくるとは。デスクでふんぞり返っている方がお似合いだぞ、プペペ・ポポポチャッポ保全官」
天使と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、光る輪っかと白い羽を携えた、はだかんぼの子供の姿だ。
ぎょっとして女性の方を見るが、プペペと呼ばれた女性はそれを肯定するかのように、自嘲気味に笑った。
「そうよ。アタシは本部のツヤツヤピカピカの机が似合う、エリート天使。早くあなたを逮捕して、天界に戻らなきゃ。怪我する前に、大人しく投降なさい」
「寝言は寝て言え。お前のような三下天使は、我が理想の礎となってもらう」
「へぇ。このアタシが礎? そりゃあよっぽどスバラシイ理想なんでしょうね。教えなさいよ」
「断る」
黒いスーツの女性――ハピネスが、背の羽根を荒々しく羽ばたかせる。
「とっとと消えろ、天使ども」
ハピネスの声に、さぁっと血の気が引く。ただただ怖くて、どうしようもない。
目の前の、一触即発の危険な事態。
人間同士の喧嘩すら経験したことがないのに、今向かい合っている二人は、どうやら人間ではないようで。加えてハピネスと呼ばれた女性には、恐ろしい怪物が付いている。
厄介なのは、祐樹が天使だと勘違いされている事だった。原因は思い当たるものがある。
手鏡だ。昨夜貰った魔法の手鏡の不思議な力が、自分を包みこんでいるから、そう思われているに違いなかった。
「アアアアアアアアァ」
突如、うめき声をあげながら怪物が祐樹めがけて迫ってきた。ぎょっとして、反射的に体が強張ってしまう。
「下がってなさい!」プペペが祐樹をかばうように飛び出した。
「くたばれ! くそったれの化け物!」
プペペは懐から拳銃を取り出すと、怪物めがけて構えた。三度大きな破裂音が響き渡る。
祐樹は思わず耳を塞ぎ、次いで怪物の様子をうかがった。
ぞっと、総身に鳥肌が立った。
「……聖水仕込みの三十八口径執行弾。アンデッドや闇の眷属ならいざ知らず、私のミスフォーチュンには効かないぞ、プペペ」
ハピネスの声を背景に、至近弾を食らったはずの怪物は、穿たれた穴を瞬時に塞ぐと、ニタリと笑った。プペペが舌打ちをする。
「外へ行くわよ、押田祐樹!」プペペが祐樹の腕を掴み、再び駆けだす。
「わ、わかりまし――」
声が、無意識に途切れていた。
ひやりとした時にはもう遅く、足がもつれ、祐樹は冷たいタイルの上にそのまま倒れ込んだ。
その拍子に、バッグから手鏡が滑り落ちる。怪物と祐樹との中間で、銀色が輝く。
しまった、鏡が。祐樹は手鏡へと手を伸ばした。伸ばしてしまっていた。
「押田祐樹……!」
プペペの鋭い声が飛んだ。手鏡の柄を掴み、ふと顔を上げると、そこには怪物の顔が祐樹を見つめていた。真っ黒な影が、祐樹を覆い尽くしていく。
真っ赤な目が、祐樹を飲み込んでいく。
――辛いとき、苦しいときは、笑えば何とかなる。
それを教わったのは両親からだったか、祖父母だったか、あるいはテレビで何かの折に見聞きしたことだったか。
祐樹は小さいころからよく笑った。自分を守るために笑った。都合の悪いことから目を背けるために、笑った。
祐樹の笑顔は、まるで使い捨ての仮面で。一体そんなものになんの価値があるのだろう。
それでも祐樹には笑う事しかできなかった。
祐樹は迫りくる怪物相手に、無意識に笑顔を浮かべていた。何の意味もない、笑顔を。
「――そんなことないよ。すてきな笑顔じゃない」
不意に、声が聞こえた。プペペのものとも、ハピネスのものとも異なる、透き通った声音。声に導かれるように顔を上げた時、握りしめていた手鏡の蓋がひとりでに開いた。
「わっ……!」
緩やかで、滑らかな輝きが、鏡から湧き出した。
色とりどりの輝きが、迫る怪物を弾き飛ばした。同時に心の中に、優しい穏やかな気持ちが溢れていく。
輝きは次第に強くなり、気づいた時には祐樹を守るように辺りに舞い、荒れ果てたショッピングモール内を極彩色の光で覆い尽くしていた。
「何だこれは……」
ハピネスが慌てた様子で呟いた。その傍らでは、怪物が舞い踊る輝きに怯えていた。
「……嘘。デコーレ・クロスドレッサーが、順応してる。いえ、それだけじゃない。古の力が、蘇った……」
プペペがぽつりと呟いた。
「これは、一体――」
「押田祐樹」
祐樹が言い終わらないうちに、プペペがそれを遮った。そうして真っすぐ祐樹を見つめた。
「お願い、力を貸して」
意外な一言に、思わずたじろいでしまった。しかし、プペペは真剣な眼差しで続ける。嘘偽りない、真摯な願いであることが、ひしひしと伝わってきた。
「押田祐樹。あなたの力を貸してほしいの。こいつらはアタシ一人ではどうにもできない。だけどその手鏡と、それを扱うあなたの力があれば、ハピネスも怪物もなんとかできる。だから、戦ってほしいの」
「戦う⁉ そんなこと僕には……」
「できる。今までのあなたがどんな人だったかは分からないけれど、今のあなたなら、きっとできる」
「一体僕に何が――」
言いかけたところで、言葉が胸につっかえた。この先を言葉にしたくない。そう思った。
一体僕に何ができるんですか。
自分に何ができるかを、一度でも他人に委ねてしまったら、これから先も同じように他人に寄りかかってしまう予感があった。輝かしい幸せな未来が、遠ざかってしまう。
今、未来に向かう確かな道が、目の前に現れているというのに。
祐樹は顔を上げ、手にした鏡を見つめた。手が、小刻みに震えていた。とても怖かった。祐樹を待つ光が、あまりに眩しいものだから、酷く不安になる。
今までの祐樹とは正反対の光が、祐樹を待っている。祐樹には到底届きもしないはずだった輝きが、今目の前で揺れている。
「僕は」
祐樹にとって、笑顔は不幸から身を守る盾に過ぎなかった。だから笑っていても、心の中が冷え切ってしまっていることが度々あった。心に嘘を吐くことばかりが、上手になった。
そうして生きてきた結果が、今の押田祐樹。ひとりぼっちの、押田祐樹。
灰色の泥濘の中、息苦しさを誤魔化して生きている。
暖かく居心地のいい、小さな陽だまりの中だけで生きている。
どこか遠くに行きたいのに、その気持ちに嘘をついて生きている。
それでも一つだけ、嘘をつかなかったものがある。
女装が大好き。祐樹が唯一自分に嘘をつかなかったもの。可愛いものが大好き。祐樹の、自分らしさ。
祐樹の、一番の宝物。
それを大事にして、大切にして、毎日を生きてきた。子供時代という大海原を、大人と言う大陸を目指して航海してきた。
しかし見えてきた大人の世界は、思い描いていた輝く世界とは真逆の世界で、それぞれが上手く嘘をつきながら日々を生きていた。
何処までも続く灰色の沼地が、祐樹の前に横たわっていた。
皆口々に言う。「これが現実だ」。「夢を見るな」。「諦めて受け入れろ」。
心から通じ合える友達、恋人、楽しい学生生活、楽しい職場、楽しい人生。
思い描いた煌めく星々が、煌めく世界が、このままでは本当に嘘になってしまう。ただの無機質な妄想になってしまう。
それは嫌だった。そんな現実は変えてしまいたい。心の底から幸せな気持ちで、思い切り笑いたい。嘘を吐くことなく、自分らしさで、人生を飾っていく。
そんな道を、祐樹は歩みたかった。
「――なら踏み出せばいい。そうでしょう?」
囁かれる声に、手鏡から語り掛けられる言葉に、思わず息を漏らした。
ぽっと小さな炎が、胸の中で灯ったような感覚がした。灰色の景色が、少しずつ色づいていく。鮮やかな色を得た時間が、軋みながら、動き出していく。
ここで全てを投げ出して逃げてしまうこともできる。今すぐに怪物から逃げてしまうことが出来る。もしも、この怪物と戦う力を祐樹が持っていたとしても、逃げることはできる。
けれどもそれは、その道は、自分の目指す道に、進みたいと思う道につながってはいない。
祐樹の道は、この先にある。
祐樹は、真っすぐ女性の瞳を見つめた。
「やります。戦います。僕はどうしたらいいですか」
体は軽く、もう祐樹を押さえつけていた恐怖は、どこかへと消え失せていた。
プペペの瞳の中に、希望の灯が灯る。
「その手鏡は大いなる光の源泉、デコーレ・クロスドレッサー。……鏡に、身も心も委ねなさい。そうすれば、きっと力を貸してくれる。古の力が、あなたを支えてくれるわ。変身するのよ、《エンジェルカ=アンジュルカ》に!」
「身も、心も、委ねる……」
目を閉じた時、きらきらと光る宇宙が見えた気がした。それはきっと、祐樹を迎え入れる祝福の福音だ。
手鏡が、祐樹に囁いた。
「――さぁ、行きましょう。鏡を手に、呪文を唱えて。それが私たちへの合図になるから」
祐樹は静かに首肯する。
手鏡から心に直接ささやかれる言葉を、高らかに叫んだ。
『メイクアップ! クロス・ドレッス・フォアキューティ!』
祐樹の声に呼応するように、手鏡は純白の光で輝きだした。同時に、辺りに散っていた極彩色の輝きが、祐樹の体に収束し、柔らかな繭の如く、祐樹を包み込む。
煌めきの波の中、祐樹は華麗にステップを踏んだ。
『アン・ドゥ・トロワ!』
栗色のミディアムヘアーが、透き通るような銀髪に染められ、着ていた洋服は、細やかな刺繍が施されたレオタードへと変わる。
足元は優雅なハイヒールに。舞い落ちる花弁のような輝きが、瀟洒なショートジャケットを仕立て上げ、祐樹は笑顔でそれに袖を通した。
総身が、純白の衣装で包まれる。
きらりきらりと舞う煌めきが、祐樹の顔に美しいメイクを施した。仕上げに、頬を指先でなぞる。薄紅色のチークが、頬の上で輝いた。
『デコーレ・フィニッション! スマイル!』
祐樹の声に呼応して、頭上に光り輝く天使の輪が現れ、背には美麗な翼が生み出される。
地上に幸せをもたらす聖なる光を得て、伝説の天使が今、蘇った。
『天より降り立つオトコの娘! 幸せ育む頬の色! 笑顔の天使、スマイレル!』
聖なる輝きが、煌びやかにはじける。
『可愛くなりたい! 綺麗になりたい! 自分らしさでマキヤージュ!
オトコの娘天使《エンジェルカ=アンジュルカ》!』