Ep: 1-6 レッツラお出かけ
「服装よし! 髪型よし! 変身準備!」
翌日、十月十三日、土曜日。時刻は午後一時。
太陽が燦燦と輝くお出かけ日和に、祐樹は鏡の前で高鳴る可愛さへの熱を胸に秘め、己の姿を凝視していた。
そっと魔法の手鏡を手にする。
昨夜変身して楽しんだ後、気づくと眠ってしまっていた。目覚めたときには元の姿に戻っていたので、どうやらずっと変身したままになるのではなさそうだ。
「スーパー男の娘パワー、メイクアップ!」
手鏡の蓋を開くと、たちまち煌めく光の波が噴き出して、祐樹を包み込んだ。
あっという間に、可愛いオトコの娘へと変身する。嬉しさが込み上げてきて、無意識ににやけてしまった。
やはり夢ではなかったと、改めて魔法の手鏡に感謝し、幸せを噛み締める。
「行くぞ……お出かけ……っ!」
拳を握り、気合を入れる。これから為そうとしていることに、胸の高鳴りが抑えられない。
お出かけ……そんなこと、わざわざ声に出して言うほどの事ではないのかもしれない。
だが、それは普通のお出かけに限ってのこと。
今からしようとしているのは「女装お出かけ」だ。
これは今朝になって思いついたことだった。予定を変更して、決行することにした。
女装して外へ出る、これは非常にハードルの高い行為であり、かなりの勇気と女装力を持っていない限り不可能な所業だ。
未だ残念ながら、女装への世間からの風当たりは強い。
だからもしかしたら、外界へ出るなり奇異のまなざしで見られ、「ママー、あのおじさん女の子の格好してるー」という純真無垢な子供の無邪気さゆえの言葉の暴力にさらされたり、その子の母親が「見ちゃいけません」なんて言っているのを聞く羽目になるかもしれない。
そうして最期に迎える結末は、頑張って意気込んで女装してきたのに、何だか気持ちがなえてしまって引き返し、トボトボ帰宅する暗黒の家路である。
それが怖くて、自分の女装に自信を持てなくて、祐樹は今まで実行に移せずにいた。
しかし今の祐樹は違う。立てば大鳳座れば架純、歩く姿は広瀬〇ず。どこからどう見ても可愛い女性にしか見えない。
今の自分なら、きっと大丈夫――。そう己に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
重たいドアを開けた瞬間、秋の涼やかな風が吹き込んできて、祐樹の頬を撫でた。
空は青く澄み渡っていて、晴れやかな気分を、一層気持ちが良いものへ変えていく。
ゆっくりと踏み出した足が廊下を確かに捉えて、足裏に床の堅さが伝わった時、ああ本当に外に出たんだと実感する。枷が外れたような、自由になった気分だった。
一目ぼれして買ったベージュのトートバックを手に、祐樹は歩き出した。
アパートを出て、アスファルト舗装された住宅街の市道へと出る。
ふわふわとした高揚感に包まれて、足取りは羽毛のように軽い。
一旦外へ出てしまうと不思議なもので、あれだけ心配した他人の目線が全く気にならない。
魔法で変身しているから、という安心感も大いにある。しかし一番は、女装お出かけをするという挑戦に自ら一歩踏み出せたことへの達成感が大きい。
それが心に満ちていて、今なら何でもできるような気がしていた。今まで誰かに女装姿を見られ、男だと見破られることにおびえていた過去が、なんだか馬鹿らしくなる。
湧き出た喜びに身を任せ、祐樹は太陽の光を反射する艶やかなタイルの道を、軽やかに歩いて行った。
向かったのは最寄駅から二つ隣の駅。その駅前にある大型アウトレッドモールだ。蔦の模様の入った白い外壁を、胸を張るように堂々と構えている。
そのモールの中央に位置するフードコートには、昨今若者の間で人気を博しているタピオカミルクティーを販売する店があった。
女の子達がやっていて、自分もやってみたいと思っていたことの一つ、それは「休日にショッピングモールに出かけて、タピオカを飲みながら女子トークをすること」だった。
残念ながら女装仲間はいないため、女子トークはできないが、女装をして女の子らしい事を体験するのはできる。
期待と緊張に胸を膨らませながら、タピオカを購入し席に着いた。
土曜日という事もあり、モール内は家族連れや、若者たちの姿で埋め尽くされている。中には制服姿で遊びに来ている女子高生の姿もちらほら見受けられた。
「このあとは――……」
可愛い女の子のような高く透き通った声。そんな自分の声が聞きたくなって、祐樹は独り言を呟いてみた。
この後の予定を全く考えていなかったが、ここはショッピングモールだ。時間をつぶすのには困らない。せっかく来たのだし、たまにはウインドウショッピングでも――。
と、そこまで考えてハッと気づいた。今自分は誰が見ても女の子。つまり、このまま服屋さんで女性物の洋服を見ていても問題ない。
いや待てよ? 祐樹は顎に手を当てた。刹那、衝撃的な事実に気が付いた。
洋服だけに限らず、下着を見ていたって変じゃない……!
「つまり、公然と、誰に咎められることなく、カワイイの楽園に出入りできる……っ⁉」
目的地は決まった。お洒落な服屋さんでたっぷり可愛いお洋服を見たあと、今までちらと視線を向けることしか許されなかった、ランジェリーショップへ行く。そうして抑えがたい衝動を胸に抱きながら、カワイイものを買い漁る。
フリルやリボンが付いたお洒落な下着が、脳裏に浮かんでは消えた。
ひとまず、お金を下ろしに行くことにした。財布の中のお金だけでは、この大いなる旅路を征くことはできない。
「……ミッション・イン・オトコの娘、作戦開始!」
祐樹はタピオカを飲み終え、席を立った。ウキウキした気分で歩き出す。
と、その瞬間。
腕を何者かにがっしりと掴まれた。慌てて、その腕を視線でたどる。
そこには、派手な髪の色をした女性の顔があった。
赤い髪と緑の瞳。日本人離れしたその容姿に、祐樹は目を剥いた。
「おい」
不意に、女性が口を開く。その深い緑の瞳に吸い込まれそうになって、はっと我に返る。
女性が腕を掴んだまま、祐樹の顔をまじまじと見つめていた。
しまった。女装しているのがバレてしまったのだろうか。もしかして、不審者だと思われているのだろうか。思考の中に、マイナスなイメージが瞬時に溢れかえった。慌てて目を伏せる。
女性の声が、追い詰めるかのようで、それでいて静かな響きを持ってさらに続いた。
「天使がこんなところで何をしている」
一瞬、自分の耳を疑った。それは有無を言わせぬ強い口調で、はっきりと告げられた。
――天使。祐樹は戸惑いの中女性の顔を再び見た。張り付いたような無表情の彼女が、冷たい瞳で祐樹を見下ろしている。
この人は、何を言っているんだろう。得体がしれないことへの恐怖が心に芽吹いていく。
「えーっと……。どちら様でしょうか」
祐樹は様子をうかがいながら声をかけた。にっこりと、女性に微笑みかけてみる。
女性は祐樹の腕を離さないまま、抑揚のない声で答えた。腕に込められる力が、じわりと強まったのを感じた。
「とぼけるな。騙せるわけがないだろう。こんな粗末な変装で」
「あの、その……。誰かと間違えていたりしません?」
祐樹がそっと声を返した瞬間だった。
視界が、急に回転した。
背中の痛みを感じて、恐る恐る目を開く。祐樹はそこでようやく、自分が女性に投げ飛ばされたことに気が付いた。
「え……」
言葉にならない声が口から漏れた。
真っ黒なパンツスーツ姿の細身の女性。どこにそんな膂力があるのだろう。軽々と祐樹を放った女性は、おもむろに祐樹と向き合うと、鋭い目つきで睨みつけてきた。
「女装までして活動する理由は何だ。言え」
女装していることがバレていた。驚きと、同時に疑問に思う。魔法の手鏡で完璧なオトコの娘に変身しているのに、どうして。どうしてこの人には分かるんだろう。
この人の目的は一体何なんだろう。
閉口する祐樹に、女性は短くため息をつき、言った。
「分かった。話す気がないのならいい。今すぐ消えてもらう」
「……え?」
女性の言葉の意味が分からず、祐樹は聞き返す。しかし、女性は答えない。応える代わりに、彼女は『正体』を現した。
祐樹は、彼女を見つめたまま凍り付いた。
羽があった。夜空のように真っ黒で、いびつな形をした羽根が、女性の背中に現れた。作り物ではないと一目で分かる、立派な翼。
女性がそれを大きく広げると、辺りを黒い霧が漂い始めた。冷たい声が後に続く。
『求めるは真の幸福。滅ぼすは劇場のイデア。すべての偽りを真実に。すべての幻を現実に』
霧が渦を巻き、女性の傍らに真っ黒な塊を作り出した。女性が無表情のまま右手を振るう。
『……おいでなさい。ミスフォーチュン』
霧が晴れ、塊が割れた。
目の前で起こっていることがまるで信じられなかった。何だこれは。何だってこんなことが。一体何なんだ、これは。疑問と恐怖と混乱が、頭の中で蜷局を巻く。
塊の中から人型の影が、のそりのそりと這い出して来た。言葉をごちゃ混ぜに煮詰めたようなうめき声を漏らしながら、外界へ這い出して来る。
祐樹は魔法で可愛いオトコの娘へと変身したのだから、こんな摩訶不思議な出来事も、きっと当たり前のように理解しなければならないのかもしれない。
しかし、こんなものを見せられているのに、すんなり受け入れて驚かないでいるなんてできっこない。
そう、言い訳のように心の中で繰り返すが、目の前の現実は何も変わらなかった。
「クルシイヨォ……ツライヨォ」
影は、祐樹に迫ってきた。その足が地面に着くたび、触れたものが風化したように崩れ、塵になっていく。赤く光る怪物の瞳が、祐樹をじっとりと見つめた。
「あ……れ?」
足に力が入らなかった。余計なときに力が入って足をつったりするのに、今は浜に打ち上げられた海月みたいに、祐樹の足はデロデロになってしまっている。
激しく鳴る鼓動に急かされながらも、それでも体に力が入らない。焦りで息が上がってしまい、思考に靄がかかる。
「うごいてよ」
足を掌で張ってみても、感覚は戻らない。すっかり骨が無くなってしまったかのようになったままだ。全く力が入らない。
嘘、嘘、嘘だ。焦りと恐怖の中で、呼吸はさらに荒くなっていく。
「無能な天使は塵になれ。少しは人々の苦しみが分かるだろう」
「アアアァアアアア……」
怪物がじりじりと迫る。靄のような腕を伸ばし、祐樹に迫ってくる。
もしも、あの手に触れてしまったら。考えたくもない想像が頭の中に溢れて、けれどその現実は今まさに目の前にやって来ていて。気づいた時には祐樹は尻もちをついてしまっていた。
もしここで死んでしまったらどうなるのだろうと、祐樹は考える。折角完璧なオトコの娘になれたのに。もう女装できなくなってしまう。もう可愛いお洋服を着ることもできなくなってしまう。
緋色の瞳が、祐樹の頬を照らす。
ふと我に返った。真っ白な思考の中、一人ごちる。
――あれ、今、そんなこと考えてる場合だっけ。
「――やれ。ミスフォーチュン」
女性の声が聞こえた瞬間、思わず目をつぶった。感じないようにしていた恐怖が湧き上がって来て、心の中を支配した。意識が、遠のいていくのを感じる。
もう駄目だと思った。もうすっかり、あきらめてしまった。
瞬間、強い衝撃と共に、祐樹の体は一瞬、宙に浮いた。
勢いのまま地面を転がる。目がチカチカして、キラキラと光る星が見えた。
「しっかりなさい!」
突如鼓膜を叩いたのは、聞きなれない女性の明朗快活な声。肩を鷲掴みにされ、力いっぱい揺さぶられる。恐る恐る瞼を開いた。
「早く起きて! 立ち上がりなさい! 地上のピンチで、天界のピンチ。巡り巡ってアタシのピンチなんだから!」
目の前にあったのは、必死な形相でこちらを覗き込む女性の顔だった。髪は黄金色で、顔はとても整っている。
ぼうっとそのまま見つめていると、強烈なビンタが飛んできた。
「呆けてんじゃないの。ぶち殺すわよ! その耳かっぽじってよく聞きなさい、押田祐樹!」
「なんで僕の名前を……?」
「天界に照会をかけたの! ……それより、早くデコーレ・クロスドレッサーを返して!」
「でこーれ……?」
「昨日アタシがあなたに渡しちゃったやつよ! ほら、銀色の手鏡みたいな……」
「ああ! ……ってことは、あなたは昨夜の酔っ払いお姉さん!」
「だまらっしゃい! いいから早く鏡をよこすの! それはあなたが玩具にしていい代物じゃ――」
「何を呑気に喋っている」
女性の冷たい声とともに、怪物が祐樹たちの前に立ちはだかった。
「詳しい話は後! とりあえず立って、走って!」
むんずと祐樹の腕をつかんだ金髪の女性は、そのまま走りだした。半ば引きずられながら祐樹も走る。もうなにがなんだか、すっかり分からなくなってしまった。
けれども、どうやらこの人は味方のようだった。それが、唯一の救いだ。
「逃がさないで、ミスフォーチュン。捕らえて塵にしなさい」
「来るな化け物、天界の敵! アンタのせいでどれだけの職員が残業することになると思ってんの!」
「アアアアアアアアァ……」
「やかましい女だな」
怪物が両手を振り回しながら突進してくる。その手に触れたものを粉々にしながら、祐樹たちへと向かってくる。
だが、怪物に怖気づくことなく、祐樹の手を引く女性は人々の悲鳴がこだまする中を、真っすぐ突っ切っていく。
「いい? 人気の無いところまで突っ走るわよ」
彼女の声音が、強張った耳朶を打った。