Ep: 1-5 男の娘の奇跡
部屋に戻ると、祐樹は急いで風呂を済ませた。
手早く体を洗い、ムダ毛チェック。鏡の前で腰をくねらせセクシーポーズをとった後、タオル一枚の無防備な姿で、シャワールームを後にした。
お気に入りのブラとショーツを身に着け、タイツに足を通す。次にトップスとスカートを身に着ける。お気に入りの組み合わせが、姿見の中で輝いていた。
鏡の前に腰を掛け、化粧水を手元に引き寄せた。脱脂綿に染み込ませ、保湿する。下地を塗り、鏡に映る顔を覗き込んだ。
ファンデーションを塗り、コンシーラーで肌荒れを隠す。アイラインを引いて、瞼にアイシャドウを乗せ、頬に明るい色のチークをいれた。
心を躍らせながら、ピンク色のルージュを唇に引く。仕上げにルースパウダーを顔にはたいた。
完成したメイクで、微笑んでみる。鏡の中で笑顔がはじけていた。
ロングヘアーのウィッグを被り、女装が完成したところで、祐樹は先ほど貰った手鏡の事を思い出した。ちょうど、あれくらの手鏡が欲しかったんだよなぁ。何げなく鏡を手元に引き寄せた。
「なにこれ」
手鏡の鏡面には、厳かな彫刻の施された蓋がされていた。天使の姿が彫られたレリーフが、清楚な印象を与える銀の蓋。なんとか開けようと試みるが、蓋はびくともしない。
祐樹は諦めて、そっと机の上に手鏡を置いた。
「ま、いっか。……あーあ、僕もこんな手鏡が似合うような、可愛いオトコの娘になりたいなぁ。……頑張ろ」
祐樹はもう一つ、一人ごちた。ほんの何気なしに、呟いた。
「――可愛くなりたいなぁ」
その瞬間だった。
手鏡の蓋がぱかっとひとりでに開く。刹那、激しい光の波が飛び出して、部屋中を駆け回った。
何色とも形容しがたいそれら混色の煌めきが、力強く、また暴力的ですらある光量と勢いで渦を巻いた。はしる、はしる煌めき。それはまさしく天の川であり、くるくると回るメリーゴーランドでもあった。
流れる飴玉はぱちぱちと弾ける流星で、駆ける宝石たちは各々真っ白ウサギを携えて陽気に飛び跳ねる。極彩色と螺鈿細工のきりきり星が、慌てた様子で空を飛ぶ。
次第にそれらは姿を変えた。純白の衣を纏う鳩たちへと。朧な形の、幾枚もの羽をまき散らし、やがて天へと飛び去った。
「あ、れ……?」
何が起こったのか理解できない脳が、思考に深い霧をかけていた。
喉がからからに乾き、心臓が激しく鼓動していた。体が熱い。
やっとこさ体を動かせたのは、ずいぶん経ってからだった。
祐樹はしばらく放心状態のまま、尻もちをついた体勢でいるしかなかったが、ようやく意識がはっきりとし、心が落ち着いてきた。
「今のは……何?」
混乱する思いを言葉にできた時、それは確かな感覚として胸の内にやって来た。
――違和感。
立ち上がった時、目の前に広がる普段の自室の景色に、違和感を覚えた。夢の中で見る馴染みのある景色のように、何かが違う。当たり前の景色の、どこかがずれているように思えた。
間違い探しができるほど明確な違いが存在せず、違和感だけが心に靄をかける。
と、視線を姿見に映した時だった。
「女、の子……?」
鏡の中には、女の子が立っていた。
身長百六十センチくらい、肩までの栗色のミディアムヘアーが艶やかに輝いている。目鼻顔立ちはハッキリとしていて、かつどこか柔和な印象を受ける。やわらかそうな唇と、健康的な肌。可愛い女の子だ。
我を忘れて、その子に手を伸ばす。
が、鏡の中の女の子は、祐樹と同じように動いた。こちらに手を伸ばし、首をかしげている。
しなやかな髪が肩の上で揺れた。まるで、自分が女の子を動かしているかのようだった。
いや違う、これは――。祐樹の体に電流が走る。
「もしかして、入れ替わってる……っ⁉」
祐樹の両手は、カマキリが獲物を捕らえる時のような素早さをもって、己の両胸を鷲掴みにした。力を込めて揉みしだく。
しかし、そこには夢にまで見た天使のマシュマロはない。あの包まれるような母性の塊である二つのアルプスには登頂できなかった。
つかんだ先には、親しみのある平野が広がっていた。なぜ胸を揉むかって? それは、そこにおっぱいがあるから。
しかし、どうにもこれは女性の胸ではない。慣れ親しんだ男の胸だ。
だが、そうなると――。
「下はッ……下は、どうなっているんだァーーッ⁉」
右手ッ。流れるようで且つ力強い手つきは、極寒の地北海道で、クマが川を上ってきたサケを捕らえる様に似ていた。
やわらかな太ももの奥の奥。奥の細道のさらに奥。目指す彼方のオケアノスを、祐樹の右手は優しく包み込んだ。
「こ、これは!」
掌に触れる確かなふくらみ。嗚呼、それは確かなふくらみで、もうそれがなんであるか皆まで言う必要はなかった。
この世に生を受けてからというもの、この年まで苦難を共にしてきた戦友の姿が、そこにあった。女性用下着の窮屈な空間の中、祐樹はかけがえのない友との邂逅を果たした。
湧き上がる安心感と、期待が外れたことによる口惜しい気持ち。
どうやら、誰かと入れ替わっているわけではなさそうだった。
よくよく見てみると、なるほど、服は先ほどと同じで、かつ元の自分と似通った部分が随所にある。特に眼差しや顔の輪郭には、祐樹の面影が強く残っていた。
つまり、目の前の女の子(?)は祐樹だった。変化したのは、祐樹自身だった。
「と、いう事は……」脳内で状況を整理する。
変身したのは自分。変わったのは外見だけ。大事な部分はそのまま。……つまり。
まじまじと姿見を見つめる。
祐樹は、飛び切り可愛い「オトコの娘」に変身してしまったことになる。
体は少し縮んで丸みを帯び、女性らしいやわらかな体に。髪は栗色になって肩までのボブスタイルとなっているし、睫毛も長くなっている。肩幅は狭く、声だって女の子みたいに高く透き通った声音だ。
「……コレが原因だよね」
恐る恐る、床に転がった手鏡を拾い上げる。
固く閉ざされていた蓋は空きっぱなしになっていたが、もう先ほどのように光り輝く気配は無い。しかし、手鏡からはただならぬ雰囲気を感じた。
思わず生唾を飲む。
「これじゃあまるで本物の……」
――本物の『魔法』じゃないか。
感動が、胸の中を満たしていく。高揚感が体全体を包んで、ぽかぽかと暖かい。
鏡の中で笑う少女は、弾けんばかりの笑顔を浮かべていた。思わずいろいろなポーズをとってみたり、くるりと回ったりしてみる。
今までいくら化粧をしようと、可愛い服で着飾ろうと、どんなに女の子らしいポーズをとってみたところで、どうしても男らしさを誤魔化しきれなかった祐樹の姿。
しかし今の祐樹はどこをとっても女性らしく、今にも抱きつきたくなるような可愛らしさを部屋中に振りまいていた。
高鳴る鼓動が、興奮の波を煽っていく。
「こんなに可愛いのなら……他の服だって――」
衝動的に、手当たり次第タンスから服を取り出していく。あれもこれも、素早く着替えて鏡の前でポージングを作る。可愛い。可愛い可愛い可愛い……。どれを着たってちゃんと様になっている。股間のふくらみにさえ気づかれなければ、誰も祐樹が男だと気づかないだろう。
長年自分でかけてきた「都合の悪いものは見えないフィルター」も、かける必要がない。スマホの加工アプリを使わずとも、祐樹は誰がどう見たって、最高に可愛い女の子だ。
一瞬、手鏡をくれた女性の事が頭によぎったが、今はそれどころではなかった。一心不乱に服を取り出しては、理想の姿へと変身する。
「奇跡だ! 奇跡が起こったんだ! 僕は魔法の手鏡を手に入れた!」
つうっと何かが頬を伝う感覚を覚えた。ふと手をやると、熱い涙が指先に触れた。
気づかないうちに、祐樹は泣いていた。その事実に気が付いた時、ふいに感情が込み上げてきて、どうしようもなくなった。
化粧が崩れちゃう。そう思うのに、涙が止まらない。
今まで、積み上げてきた、可愛さへの思い。重ねてきた努力。
それが今日この瞬間、報われた気がして。
嬉しくて嬉しくて、仕方ない。こんな気持ちになったのは、初めてだった。
「よし……」
祐樹は呼吸を落ち着けて、眼前を見据えた。
可愛く変身できるのなら、自分にはやるべきことがある。いつまでもこの姿に感動している暇はない。
可愛いと思う服を着て、女装する。たくさんたくさん、女装する。もっともっと、可愛いものに身も心も包まれる。
時間も、服も、たっぷりある。嬉しさでどうにかなってしまいそうだった。今夜は、眠れそうにない。
そう思いながら、再びタンスに手をかけた。祐樹は心の赴くまま女装をする。
幸せな時間。夢のような時間。
ちょっぴり散らかっている祐樹の自室。あれだけ見慣れていたはずの景色なのに、今はすべてが輝いて見えた。