Ep: 1-4 よっぱっぱお姉さん
街灯がぼんやりと道を照らし、木々のささやくような音だけが聞こえる。
時刻は午後十時に差し掛かろうとしていた。祐樹はバイト先のスーパーの重たいドアを押し開け、冷たい夜風の中に飛び出した。
この時間になると、どこに隠れていたのか分からない、夏の残り香のような温かさは無く、確かな冬の予感ともとれる寒さが外気を満たす。
体温の調節が難しく、このごろは上着が欠かせない。それなのに、今日に限って上着を家に忘れてきてしまった。
ひやり。刺すような冷気が祐樹の背を撫でた。思わず身震いする。
「さっむ……!」
誰に話しかけるでもなく呟く。声は冬の足音が聞こえる秋の空気に、すっかり飲み込まれてしまった。
冷たい空気に体温を奪われないうちに、早く帰ることにしよう。祐樹は小走りで、下宿先のアパートへと向かった。
明日は大学もバイトも何もない、素晴らしい休日、土曜日。遅くまで女装しても何の支障もない休息の日。今日はのんびり、可愛いものに包まれることにする。
祐樹のアパートは、駅から徒歩二十分ほどの、大きな市道沿いの住宅街にある。狭い路地を抜けた先にある二階建ての小奇麗なアパート。
どうしてもお洒落な場所に住みたくて、幾つもの不動産屋さんをハシゴして、ようやく見つけたお気に入りの部屋だ。
そのクリーム色の外壁がちょうど見えてきた頃だった。
アパート脇の細い車道。そこに、一人の女性の姿があった。
黄金色のロングヘアーの女性。二十代後半から、三十代前半位に見える。着ている真っ白なスーツと帽子は、警察官やバスの運転手さんのそれと似ていて、しかし見覚えのない制服に一体何の仕事の人なのだろうかと疑問に思う。
ふらつきながら道を行く女性は、時折酷くよろめいては、上半身をアパートのブロック塀に預け、かろうじて倒れずにいるようだった。
こんなところで一体どうしたのだろう。酷く具合が悪そうに見える。
少し迷ったが、祐樹は女性に近づいて、そっと声をかけた。
「あの……大丈夫ですか? 救急車、呼びましょうか?」
喉から出る声が、嫌に客観的に聞こえた。ここ最近全く女性と話していないことを思い出して、胸が苦しくなる。
女性は祐樹の声を聞くと、おもむろに振り返った。目鼻顔立ちの整った美人だった。思わずどきりとする。
熱でもあるのか、女性の顔が赤い。息も荒く、苦しそうにも見える。と、祐樹を見た女性が突然にへらと笑った。
その口から、強い酒臭がしてハッとした。
「酔っ払い……っ⁉」
しかし気づいた時にはもう遅く、女性は祐樹の前に立ちはだかり、子供のように笑いながら絡んできた。
「なぁにぃ? ぜんっぜん大丈夫じゃらいわよーぉ。何処に目ぇつけてんだよう、このやろう」
ろれつの回らない口調で、彼女が言う。
と、突然。女性は、祐樹の方へと倒れ掛かかってきた。
「わっ! ちょ、ちょっと⁉」
びっくりして、喉から素っ頓狂な声が出た。慌てて受け止めると、そのまま女性は、祐樹にがっしりと抱き着いてきた。
「はうあっ……!」
突然の接触。一体何が起こっているんだろう。必死に現状を整理しようとしてみるが、驚きで思考が固まってしまう。こちらの事はお構いなしに、女性は祐樹の肩の上でクスクスと笑った。
「えへへぇ……あぁ、男の胸の中、あったかぁい……」
「っ……⁉」
女性が更に祐樹を抱きしめた。柔らかな胸が、ぎゅっと押し付けられる。
その蠱惑的な感触が、頭の中をいっぱいにしてしまった。甘やかな柔らかさを服越しに感じて、どうにかなってしまいそうで。
酒の匂いに混ざって、シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐった。
「ちょっお姉さん!……お、おっ…胸が、当たってて、その……すごくマズいです!」
「えへぇ、何がまずいのよぉ。おっぱい嫌いらの?」
「いいえ! 寧ろ大好きです! ありがとうございます! でもマズいですよ! ここここんな所で!」
「えー? じゃあどこならイイのよ?」
「何処っていったら、そりゃあもうしかるべき場所で! しかるべき相手と、ですよ!」
「それじゃあアタシは、シカルベキあいて?」
切なさを纏った声音が、鼓膜を揺らす。思わず情けない声が漏れた。柔らかくて、あったかい。柔らかくて、いい匂い。思考が、真っ白になっていく。
「と、とにかく! 離れてもらえますか! 僕、そろそろ限界です……!」
「なにがぁ?」
「僕の……僕の理性が限界です!」
「リセイ? なぁにそれぇ? ……わかいもんが、そんなムズカシイ言葉つかってんじゃねーよっ」
突然、女性が祐樹の耳元に唇を近づけてきた。とろんとした声音が、耳朶を打つ。
「……ゼンブ、ぶっとばしちゃえよ」
刹那、電流に似た感覚が体中を駆け抜けた。押し寄せる本能の波が、体を支配してしまいそうになる。祐樹は必死に、己を鼓舞した。
――頑張れ、頑張れ押田祐樹! 次男だったら我慢できなかったかもしれないが、僕は長男だ! 沈まれ! 沈まれ、僕の煩悩!
祐樹は精いっぱいの理性を振り絞って、女性を突き放した。女性は目を見開いてこちらを見ていたが、ややあって、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「こ、呼吸を整えろ……オトコの娘の呼吸を……」
荒い息を何とか元に戻し、女性を見た。
女性は、しくしくと涙を流しながら、地べたに座り込んでいた。
「えっ⁉ ちょっと、どうしたんですか?」
祐樹は慌てて声をかけた。女性は祐樹の声におもむろに顔を上げると、ついにわぁっと声を上げて泣き出してしまった。
「アタシ……やっぱり魅力ないんだァ……」
「ええっ⁉ 何ですか急に。そんなことありませんよ!」
「うわあああああああああああああああん!」
「いや声でかっ! 周りのお家の迷惑になりますから! ちょっと声抑えてください! 僕でよければ話聞きますから……!」
女性はそれを聞くと潤んだ瞳で祐樹を見つめた。「ホント?」という声に、祐樹はおもむろに首肯する。
すると女性は決壊したダムの如き勢いで話し始めた。
「あのれぇ、だあれもれぇ、アタシのこの魅力にきづからいのぉ。同期はどんどんカレシ見つけて結婚してくのにぃ、アタシにはまだカレシすらできらいのぉ。どうなってんのよぉ、男っていきものはぁ! アタシは魅力的なの! 魅力的なんだからぁ!」
そうして、女性は再び大声で泣きだした。
祐樹はその潤む瞳の中に、哀愁漂うアラサーの姿を見た気がした。
「ふじゃけんらーーっ! アタシは年収ごせんまんのエリートイケメンと結婚してぇ、かいしゃやめるんだぁーーっ! きゃりあうーまん糞くらえ、セクハラおやじ死ねーーっ!」
叫ぶ女性、もう目の焦点が合っていない。逃げ出したいとも思ったが、こんな状態の女性を放ってはおけない。女性の愚痴を聞いてあげることにして、その場にしゃがみ込んだ。
女性は呂律が回らない舌で愚痴を吐き続けていたが、しばらくそうした後、落ち着いてきたのか一つ大きなため息を吐いた後、叫ぶのをやめた。頬の涙をぬぐいながら、彼女は冷たいアスファルトの上で胡坐をかいた。
真っ白でやわらかそうな太ももが視界に入り、祐樹はどきりとしたが、すぐに目をそらした。そっと女性に声をかける。
「すっきりしました?」
女性はこくりと頷く。しかしまだ酔いが醒めていないのか、今度は微笑みながら祐樹の肩に頭を持たせかけてきた。
「ちょっと、ですからマズいですって、こんなところでベタベタしたら。勘違いされちゃいますよ」
「いいじゃないのよぉ。アタシは、げかいちあん保全官なんだぞぉ。地上のホーリツなんて関係ないやい。そんな態度とってるとタイホしゅるぞ」
「えー? 逮捕されちゃうんですか」
女性は静かに瞼を閉じていた。可愛いと、素直に思った。
と、女性が不意に頭を上げた。
「あ! そーだった! 渡さなきゃいけないものがあるんだった!」
支離滅裂な女性の声に思わず苦笑した。当の女性は調子はずれのメロディーを口ずさみながら、バックの中を何やら探っている。
流石にそろそろどこか安全な場所まで連れて行かなければ。祐樹が警察に連絡しようか迷っていた時、突然女性が大声を張り上げた。
「じゃじゃじゃじゃーーん!」
女性は持っていたバックから何かを取り出し、そのまま祐樹の目の前に、腕を突き出してきた。
握られていたのは、銀色の手鏡。綺麗な装飾の施された鏡を前に、一体これをどうしていいか分からなくなる。
冷たい夜風が一陣吹いて、無防備な祐樹の頬を撫でていった。
「これはぁ……えーっと。……何かすごいやつ! 名前忘れちゃったけどぉ、とにかくこれで君はセイギのミカタ! 一緒に街の平和を守ろうぜェ」
女性は、無理やり祐樹の手の中にその手鏡を押し込むと、おもむろに立ち上がった。そのまま路地の向こうへと歩いていってしまう。
「え? ちょ、ちょっと待ってください! なんですかこれ、なんか生ぬるいんですけど! ちょっと、お姉さん!」
「話聞いてくれてサンキューな! ばいばーい」
「待ってくださいってば!」
精いっぱい呼び掛けたが、祐樹の声は彼女へ届かなかった。むなしく響く祐樹の声を背にして、女性は横道へと逸れ、そのまま歩き去っていく。慌てて後を追いかけた。
「あれ……?」
しかし、その先に女性の姿はなかった。狐につままれた気分と言うのは、まさにこの気持ちを言うのだろう。辺りに視線を巡らすけれども、視界に映るのは閑静な住宅街の灰色だけだった。
あれだけ酔っぱらっていたのに、一瞬にして姿を消した様は、まるで超能力でテレポートしたみたいで気味が悪い。
けれど、確かに彼女はいた。その証拠に、彼女から託された謎の手鏡は、変わらず祐樹の手の中にある。
「これ……どうしよう」