Ep: 1-2 プペペ・ポポポチャッポ
天界。
それは各国で信仰される名だたる神々が集い、人間世界の事を管理及び監視する場所であり、人類よりも数百年早いグローバル化の波に、意気揚々と乗った神々たちが創造した、宗教の垣根を超えた天空の世界だ。
ここでは神々をサポートすべく、大勢の天使たちが暮らしている。天使たちは基本教育を受けた後、それぞれの進路へと進み、世界の為の仕事に就く。
家庭をもち、子供をもうけ、新たな光を紡いでいく。寿命が長い事や、頭上にある輪っか、背中の羽を除けば、姿かたちも暮らしぶりも、下界の人間たちと同じだった。
天界の数ある仕事の内、天界の維持や下界の監視、管理に係る主要な仕事は、設けられた十一の省に分配され、省の長である大臣の指導の下、様々な政策が実行されてきた。
下界の治安維持を担当する、天国下界省。
その九階大ホールにおいて、彼女――プペペ・ポポポチャッポの名前は、威厳ある天国下界大臣によって叫ばれた。
「天国下界省 下界治安保全部 下界治安保全官 プペペ・ポポポチャッポ!」
「はいっ!」
プペペは精一杯の声で返事をする。
静まり返った大ホールの中には、プペペと大臣と、それから数名の職員だけ。出席している天使の数が少ない分、式典そのものにプレッシャーは感じないものの、得体のしれない緊張感が心で蜷局を巻いていた。
今回は普段の任務下命式と異なり、任務内容が事前に知らされていない。それは、与えられる任務がトップシークレットであることを意味している。
だから任務内容に劣らないよう、皺一つない制服を身に纏い、式典に臨んだ。
プペペは幾度も繰り返した所作で、広々としたホールの、大きな舞台へと上がった。ハイヒールの踵が、床を叩く。
頭上に吊るされた照明の眩い光に照らされながら、背筋を伸ばし、敬礼する。
式典の決まりごとをすっかり済ませたところで、大臣が重たい口を開いた。
「天国下界大臣の名において、下界治安保全官プペペ・ポポポチャッポに、地上での警ら活動を命ずる」
大臣の声が、辺りに静寂をもたらした。まるで冷や水を浴びせられたような気分だった。
――は? 地上での警ら……?
大臣の言葉を心の中で反芻してみる。
……地上での、警ら。つまり、地上に赴いてパトロールすること。
任務の意義がまるで分からなかった。警戒が目的なら、なぜ自分だけに下命をするのか。警らは相応の機動力とマンパワーで実施するのが鉄則。自分一人が地上を駆けまわったところで何の意味もない。
それに、本部勤めから地上勤務になるという事は、つまり左遷という事だろうか。捜査第壱課で強行犯係班長だったエリート勤務員に地上での警戒任務をさせるだなんて、随分なめられたものだ。この薄らハゲ大臣、その残り毛全部むしり取ってやる。
しかし、こちらの心情をよそに大臣が続けた。
「近年、地上で反天界勢力の活動が活発になっているのは、お前も知っているだろう。天界はそれら勢力の殲滅に向けて、本格的に動き出すこととなった。その先駆けとして、お前には日本に降り立って活動してもらう」
「日本……といいますと、あのスーシーとニンジャーとワビサービーの国ですか」
プペペの声に大臣が頷く。
「その日本で、反天界勢力の筆頭とも言える、奴――『ハピネス』の活動が確認された」
刹那、総身に緊張が走った。
ハピネス。ハピネスだって?
何かの聞き間違いだと信じたかった。しかし真っすぐ向けられた大臣の視線がそれを否定する。
これは厄介な事案が降ってきた。どうしていつも困難な事件、事案ばかりがやってくるのだろうか。心の中で舌打ちをする。しばらく天国ウイスキーを嗜めそうにないことが、残念を通り越していっそ腹立たしかった。
無慈悲にも大臣はハッキリと断言した。
「お前には、奴の逮捕も視野に入れた、柔軟な保全官活動に従事してもらいたい」
それってつまりハピネスを逮捕しろって事じゃないの。だから無理だって、一人っきりじゃ。言葉の裏に隠された命令に、息が詰まる思いがした。それでも。
「はいっ! 本職の全力をもって、任務の遂行に当たらせていただきます」
内心とは裏腹の、決まりきった台詞を、明るく元気な声で唱える。声が大ホール中に響き渡った。
こうすると上司受けがいいということは、よく知っていた。古い体質の会社は、これだから嫌。早く年収五千万のエリートイケメンと結婚して、こんなとこ早々にやめてやる。
と、腹の中で悪態をついていたところに、一名の職員が煌びやかな小箱を一つ運んできた。
演壇の上に、それは恭しく置かれた。
すると大臣はおもむろに首肯して、箱の蓋を持ち上げた。その中身が露になる。
その時だった。
瞬間、プペペは思わず目を覆った。
突如、箱は暴力的なほどの煌めく光を辺りにまき散らした。それでも瞼を通して、聖なる光が燦燦と輝いているのが分かる。
やがて光は、眠りにつく赤子のように静かにしぼんでいった。おそるおそる眼を開く。
箱の中には、透き通った絹が敷かれ、その上に三つの手鏡が置かれていた。銀色の、シンプルな手鏡。その鏡面には、鏡同様に美しい銀色の蓋がされていた。
見た目は地味でも、しかしただならぬ物品であることには違いない。
「これは『デコーレ・クロスドレッサー』。本任務における重要アイテムだ」
大臣はそれら光輝く手鏡が入った箱を、丁寧にプペペに手渡してきた。そっと受け取る。
箱越しでも仄かに暖かいそれは、まぎれもなく天界の、聖なる力の結晶体だった。発される波動が腕を通って全身に伝わっていく。
その迫力に驚き、また同時に一種の畏れが、心の内に湧き上がった。
「……伝説の天使《エンジェルカ=アンジュルカ》」
大臣の声に、プペペはハッとした。
今、何と言った? 思わず耳を疑う。ややあって、大臣が言葉を繰り返した。
「それは《エンジェルカ=アンジュルカ》が用いた聖遺物。知っているだろう?」
ああ。情けない音を伴って息が漏れる。プペペはおもむろに首肯した。
「……ええ勿論です」
やはり、聞き間違えではなかった。
学生時代、歴史の授業で一番初めに習う、古の大天使の名前。《エンジェルカ=アンジュルカ》。
かつて世界が闇に堕ちようとしたとき、三人の聖女が地上の闇を祓い、生きとし生けるもの全てに祝福を与えたと。
そうか、これが伝説にあった天使の――。
プペペは改めて鏡を見つめた。歴史の重みを、純粋なプレッシャーとして感じた。
「今回の作戦は、凶悪な反天界勢力との交戦が予想される。我々天使の力を上回るような凶悪犯との 闘いだ。従来通りのやり方では、奴らを根絶やしにすることはできん。そこで、特級聖遺物である『デコーレ・クロスドレッサー』の力を借りることとなった」
「この、手鏡の……」
鏡は変わらず箱の中に鎮座しており、照明の光を受けて、銀色の輝きを放っていた。
大臣が首肯し、言った。
「地上にて、信仰心の強い、人間の女性を見つけよ。そしてその者にデコーレ・クロスドレッサーを与えるのだ。その人間を介して、地上を聖なる力で満たすことが出来るだろう。
闇の勢力の活動を、伝説の天使の残り香をもって阻害、影に潜む奴らをあぶりだし、そして弱ったところを逮捕しろ」
聖なる光で弱らせ、あるいはあぶり出し、制圧逮捕。頭の中で大臣の言葉を反芻する。それが可能であるほど、手元にある手鏡の力が強力であるということが、いっそ恐ろしく感じた。
「いいか、必ず人間の女性に与えるのだ。《エンジェルカ=アンジュルカ》は美しい女性だった。ゆえにデコーレ・クロスドレッサーは、身も心も清い女性の魂と同化し、力を発揮すると言い伝えられてきた。くれぐれも男に与えてはならん。というか、指一本たりとも触れされるな。秘められた力がどんな反応を示すのか、全く予想できず、非常に危険である」
「はい。……了解いたしました」
プペペは一段と快活な声で答えた。しかし、いくら凶悪犯逮捕の為とはいえ、これ程の重要聖遺物を貸与されるなんて。胃がぴりつく感覚を覚えた。
大臣がプペペを見つめ、おもむろに首肯した。
「以上をもって、下命式を終了とする。出動せよ! プペペ・ポポポチャッポ下界治安保全官!」
プペペに命が下った。
下界省、下界治安保全官。安定した仕事だとか、高給取りだとか、巷ではもてはやされるこの仕事の実情は、世間のイメージとはかけ離れた、酷いものだ。
見たくもない現実を見せられる長時間勤務。危険と隣り合わせの日々。
この省に入ってからはや八十年。つい最近まで新卒の新人職員だったはずなのに、気づけば三百歳の管理職天使。同期はどんどん結婚して辞めていくし、仕事は辛くて、上司も最悪。
それでも、この瞬間だけは、嫌いじゃない。
刹那、電撃に撃たれたかのような衝撃が体中に走った。燃える正義感が胸を満たし、下界治安保全官の魂に、火が付いた。
「敬礼――ッ」
号令に合わせ、機敏な所作で挙手の敬礼をする。回れ右をして壇上を折り、ホールから退室した。
いつも通り冷静に。お酒は程ほどに。すべては地上の平和のため。
そうやって、自分の守るべきポリシーを暗唱する。エリートでスマートな保全官、それがプペペ・ポポポチャッポだ。理想の自己像を、確かな現実へと変える。この道の先には、きっと素敵な旦那様の居る未来が待っている。きっと、待っているはずだから。
「転移先は大陸の端っこ。東の島国、日本。……下界治安保全官プペペ・ポポポチャッポ、出るわ!」
ゲートの門番に、行き先を高らかに宣言する。
刹那、神々しい光がプペペを包み込んだ。視界が、煌めく極彩色に染められていく。
輝く光に導かれ、プペペは地上へと旅立った。
天より授けられた伝説の天使の力、デコーレ・クロスドレッサーと共に。