第86話:合唱は楽し
7月6日、月曜日。今日は珍しく曇り。そのためか少し蒸し暑い。ちょっと走っただけで汗が出て来た。タオルで汗を拭きながらラウンジに戻ると、先生に呼び止められた。
「今月分の顧問料を確かに頂きました。ありがとうございます」
利根川がウイスキー(樫・10年物)を渡してくれたようだ。先生は笑顔で続けた。
「これから毎月一本頂けるのですね。楽しみです。それと、雑貨ギルドとの契約書に問題はありませんでしたよ」
俺は先生に礼を言ってからカウンターにいたパワーゲートさんに、雑貨ギルドに契約書に問題が無かったことを連絡するようお願いした。
今日の朝ごはんは久々のサンドイッチだった。具は、ゆで卵をつぶしてマヨネーズであえたもの、マスタードを挟んだ厚切りハムとチーズ、タルタルソースのかかったローストチキンと千切りレタス、玉ねぎの辛みと黒胡椒の風味が効いたポテトサラダだった。酸味のあるトマトのスープとの相性もバッチリで、カットフルーツと一緒においしくいただきました。
食後ぼんやり紅茶を飲んでいると、楽師ギルドから派遣されたベルさんがやってきて野田と何か話し込んでいる。そういえば、今日は浅野の合唱指導の日だった。俺は席を立って野田の所に行った。
「おはようさん。チェンバロの他に持っていくものは無いか?」
野田は首を左右に振った。
「後は細々したものばかりだから大丈夫」
二人の様子を見てつい口が滑ってしまった。
「肩掛け出来るトートバッグがあったらいいかもな」
野田と周りにいた女の子が一斉に立ち上がった。
「それそれそれそれ」
「そうよ、何かが足りないと思っていたのよ」
「何で今まで気が付かなかったんだろう」
「たにやん、どうしてあんたが気が付くのよ」
「そうよ、おかしいわよ」
「さっさと白状しなさい」
なぜか吊るし上げられそうになってしまった。どうして?女の子達の剣幕に一言も反論できなかった俺を助けてくれたのは羽河だった。
「まあまあ、みんな抑えて抑えて。たにやんも偶然思いついただけみたいよ」
「本当かしら」
「羽河さん、かばっているんじゃないの?」
羽河は笑顔でフォローしてくれた。
「違う違う、たにやんがそんな悪い事考える訳ないでしょ」
眉をひそめた女の子達。疑わしげな雰囲気・・・。
そこに割って入ったのは木田だった。
「デザインは私が考えるわ。無理やりでも今日のプレゼンに間に合わせるわよ!」
女の子全員が気勢を上げた。そのまま木田のテーブルでサイズや材質、デザインなどについての打ち合わせに突入している。
俺は一人残った野田に話しかけた(なぜかベルさんも木田の所に行った)。
「楽器ギルドとの打ち合わせはどうする?」
「今、楽譜を準備してる。ベルさんにこの世界の楽譜を書いてもらって、私の楽譜と合わせて演奏しながら説明しようと思う」
確かに音については実演しながらの説明が分かりやすいかもな。
「準備が出来たら言ってくれ。先方に連絡するから」
「分かった」
チェンバロをアイテムボックスに収納してラウンジに行こうとしたら、平野に呼び止められた。
「これから孤児院に行くんでしょう?」
「おう」
「だったら、これお土産に持っていって」
平野が渡してくれたのは、大量のドラ焼きだった。子供たちの人数分+アルファで用意してくれたみたい。ありがたくアイテムボックスに収納する。
ラウンジに行くと、江宮と工藤が将棋と囲碁の名前について相談していたので、話に加わった。とりあえずの候補は、戦陣、戦神、大逆転(リバーシ用)、知略、勝敗、戦勝、軍神、軍配、知謀、戦略と戦術、地勢、地政など。案外出ないもんだな。もう少し考えることにした。
ついでに、江宮にブーメランとボーラの見本作りを頼んだ。ブーメランのサイズは一辺が50センチ・70センチ・90センチの三種類で頼んだ。日曜日までに出来るそうなので、伯爵は大丈夫だな。
トートバッグの打ち合わせが終わった木田がラウンジに来るのとほぼ同時に、迎えの馬車が来た。外に出ると、教会の紋章が入った大きな馬車が止まっていた。馬車の前後には騎乗した護衛が二人ずつ待っていた。馬車の御者席に座っているのはイリアさんだった。
今回、孤児院に行くのは俺・浅野・木田・楽丸・千堂・小山・野田・ベルさんの八人だ。お世話係からはエリナさんとセリアさんが同行した。馬車の中では今日の課題曲である「きらきら星」、「優しさに包まれたなら(ユーミン)」、「カントリーロード(ジョン・デンバー)」の指導方法について、浅野と木田と野田が入念に打ち合わせていた。
孤児院に着くと、まずは子供たちの熱烈歓迎を受けた。主に浅野だが、千堂と小山にもファンがいるようだ。シスターたちに野田とベルさんを紹介してから、本堂に向かった。野田と浅野に確認してからチェンバロを設置すると子供たちが群がってきた。珍しかったんだろ。
浅野がパンパンと手を叩いて子供たちを集めた。
「今日は野田さんが伴奏してくれます。伴奏を聞きながら歌ってください。初めは伴奏だけ、次はボクの歌を入れます。よく聞いてね。最初の曲は、きらきら星です」
きらきら星の演奏が始まった。最初はチェンバロだけ、次は浅野の歌付きだ。四小節のイントロの後で歌が入ると、子供たちの視線が浅野に集まった。あとはパート別に練習して、慣れてきたら合唱の練習だ。
ベルさんが一生懸命筆記しているのを横から見ると、浅野の書いた譜面の下に、この世界の物と思しき譜面が書いてあった。
やはり伴奏があるのと無いのとでは教え方の効率が全然違うみたいで、前回よりもずっと良い!野田もなんか嬉しそう。
イリアさんも心地よさそうに聞いている。きらきら星の次の「優しさに包まれたなら」と「カントリーロード」も無事終わったので、前回の四曲(ふるさと、七つの子、上を向いて歩こう、マリア様の心)もおさらいしたら見違えるように良くなった。
シスターたちは感激して言葉も出ないみたいだった。皆、泣きながら互いに抱きしめあっている。イリアさんの目もうるんでいるように見えた。
今日の課題は無事終了したので、前回と同じくお昼をご馳走になった。硬いパンと塩だけの味付けのシチューだった。前より具が少し豪華になった様な気がする。質素だけど心の籠った暖かい食事だった。浅野の横にはエルザちゃんがぴったりくっついていて、木田が少し不満そうな顔をしていた。
食後、みんなは子供たちと遊びに庭に出たので、俺は厨房に行った。
「少しですが、お土産を持ってきました」
「よろしいのでしょうか?ご負担になっていませんでしょうか?」
「魔物の討伐で稼いでいるのでご遠慮なく」
「いつもいつもありがとうございます。心から感謝致します」
俺はどら焼きと肩ロースを出した。人数分のどら焼きもインパクトはあったようだが、流石に肩ロースの36キロという量には度肝を抜かれたようだった。
「レイジングブルの肩ロースです」
厨房の中がしばし無言になった。
「貴族様が召し上がるような高価なお肉をこんなにたくさん・・・。いくら何でもこれは受け取れません」
院長が固辞しようとするのをなんとか説得して受け取って貰った。このまま転売しようか、と思うくらいの貴重品らしかった。なお、濾過器の具合を聞いたら、効果てきめんでお腹を壊す子がいなくなったらしい。まあ、健康が一番だな。
外に出ると全員汗まみれになってドッジボールをしていた。こういう時に千堂は目立つというか、光って見えるんだよな。
ひっそり見学しているベルさんに聞いたら今日の指導は、ハーモニーとか楽曲の構成とかで、天地がひっくり返るような体験だったらしい。結論から言えば、音階から楽譜から何もかも全部俺たちの世界の音楽をまるごと導入した方が早い、だそうだ。どうやら野田の弟子になる覚悟をしたらしい。大変だぞ。
来週も同じ時間帯に指導に来ることを約束して孤児院を引き上げた。宿舎に着いてからイリアさんと護衛の騎士にお礼代わりに、残っていたどら焼きをふるまったらびっくりするくらい喜んでくれた。
歌の練習をする時は、ピアノはあった方が良いと思います。